2020年6月14日日曜日

essay 20200613 麻痺に溺れないために

目が覚める。
朝なのか昼なのか、真夜中なのか、よくわからない。

真っ先にチェックするのは、思考がクリアかと言うことだ。
頭がクリアかどうかはすぐにわかる。何か物事を考えていても、あらぬ方向に考えが流出していく。放浪する。
これは病気でなくてもわかることだ。

最近気づいたのは、思考がクリアと言う部分の中に論理的思考と感覚的思考があると言うことだった。
いや、そういうふうに2つに分けるのもおかしいことかもしれない。私たちの脳は身体と一体となって絶えず働いている。それが統合されて平和に働いている状態を私はいつも望んでいる。しかしそういう時間はどんどん短くなっている。
それは仕方のないことだ。痛み止めの薬を大量に飲んでいる。薬を飲んでいてもずっと残っている疼痛が、感覚を鈍くさせている。

目が覚めてまず思うことは、何について考えたいのかな、どんなことを感じているのかな、と言うことだ。まさに生きていることそのものに対する感受性を立てていくことだ。

目の前の、介護ベッドの足もとに置いてある花瓶には、大きな花束と小さな花束がそれぞれ入っている。
それをくれた人のことを思う。その人のことを思い出すことができる。その人も多分私のことを思い出して私に花をくれたのだ。その人と話をしたいと思う。その人が今何を感じ何を思いやっているのか、ゆっくり話をしてみたい。
今日たった今の私の脳にあることはそのことだ。

昨日の夜中に録音したピアノ演奏を少し編集して、ブログにアップしてみよう。
その人が聞いてくれるだろうか。

 

From editor


今日も弾きたいと思う。それを聞いて、村山槐多が亡くなる直前に書いた「いのり」という詩を思い出す。

 生きて居れば空が見られ木がみられ
 画が描ける
 あすもあの写生をつづけられる。

  * * *

ひと月前の誕生日以来、みなさんがときおり花を贈ってくれます。
ベッド(の足もと)にはいつも花があります。
常に座位なので、足もとの花はいつも目に入るのです。

水城は昨年から、下腹部の痛みのために体を伸ばして寝ることができません。
座った状態で眠るうえ、痛みでまとまった時間を眠ることができませんでした。オキシコンチンの量がどんどん増えていきました。
5月下旬からはフェントステープという貼り薬が加わり、それから夜に(それなりに)眠ることができるようになったと言います。
食欲はさほどないのでエンシュアやおかゆ中心の食事です。合間に、楽しみとカロリーのためにプリンやゼリーを摂っています。
それが昨夜、アスパラの豚肉巻きを半本食べました。こんな食べ物は何ヶ月ぶりかというぐらいだったと思います。なにより食べてみようと思えたことに驚きと喜びがありました。
この仕事——演奏と短文が、力を与えてくれたと思いたい。

6/16追記:20200613〜15のタイトルでアップしていたものを、実際の演奏日にあわせて20200612〜14に変更しました。