2019年9月11日水曜日

私はなんのために生きているのか(末期ガンをサーフする(8))

9月11日、水曜日。午後2時。
8回めの放射線治療のために東京都立多摩総合医療センターに行く。
今日は「写真」を撮るということで、治療前に少し時間をいただきます、といわれていた。
写真というのはX線撮影のことだ。
といってもたいしたことはなく、いつもより15分ばかり時間がかかった程度だ。

それより、先週の例でいくと、月火水と3回連続で照射治療をおこなったあと、急激に倦怠感が強まり、調子が悪くなった。
今日は今週の3回めだ。
今日はまだ調子がいい。
痛みも強くなく、1日3回で処方されている痛みどめの薬を、昨日2回、今日はまだ朝から飲まずにすんでいる

このあとの体調の変化に注目したい。
今夜は無理なく、早めに休めるといいのだが。

  *

あと1年生きられないとわかったら、あなたはなにをするだろうか。
「根治は難しく、抗がん治療をしたとしても、余命1年は厳しいですね」
と担当医からいわれたのは、6月末のことだった。
これを書いているいまは9月なので、医師のいうとおりなら私に残された時間は8〜9か月ということになる。
最後はどのような状態になるのかわからないが、元気に活動できる状態が最後の最後までつづくとは考えられないので、有効活動限界は5〜6か月、つまり年内いっぱいくらいといったところだろうか(あくまで医者の想定)。

さて、なにをしたい?
どうしたい?

まず考えたのは、やり残していて気がかりなことをやってしまいたい、ということだった。
たとえば書きかけの長編小説。
ネットやメルマガで途中まで書いて、なんらかの理由で中断してしまった小説が何本かある。
そんなものがあったことをしっかり忘れている話もあれば、続きを書きたくてしかたがないものもあるし、書きたくても書けないものもある。
少なくとも、続きを書きたいと思っている話については、時間を工面して完成させたい。

これがひとつ。
ほかにやりたいことは?

いま進行中のプロジェクトがあって、それが私がいなくなったという理由で途絶えてしまうのは残念だ。
たとえば音読療法。
私がいなくなってもトレーナーや音読療法士のみんなががんばって続けてくれるかもしれないが、そのことを明確な形にしておきたい。
引き継ぎのようなものか。

たとえば現代朗読。
いまも熱心に通ってきてくれているゼミ生はいるし、名古屋など東京以外の地でのワークショップにも人は集まってくれるけれど、私がいなくなったとき、あらたな現代朗読表現が生まれつづけていくだろうか。
多くの人に伝えた現代朗読のセオリーと手法は、それぞれ拡散しいまも自分の表現に活かしてくれている人はいるけれど、伝えきったといえるだろうか。
映像なり、テキストなり、私がいなくてもそれを参照すれば現代朗読についてのすべてが理解できるコンテンツを、残せているだろうか。

こういった気がかりというか心残りについて、ひとつの区切りをつけておきたい、という思いがまずあった。
これは「区切り」とか「けじめ」のニーズといったようなもので、音読療法や現代朗読だけにかぎらずほかにもいろいろあるが、とにかく心残りがないようにすっきりと始末をつけておきたい、という気持ちがあった。

しかし、ほんとうにそれは私のニーズなのだろうか。
よくよく見れば、けじめのニーズは死期をさとった多くの人がそのようにふるまう「よくある」行動のようで、社会性を帯びたニーズなのではないか。
私も社会性を帯びた自分のふるまいとして、そのようにせねばと「けじめのニーズ」に残り時間を使うことを思いこんでいるだけではないのか。

私本来の、私の本当の生命のニーズはなんだろう。
社会性にからめとられたまま、そこを見誤りたくなかった。

結局のところ、私たちはさまざま「人生の目的」「生きる意味」を「設定」して生きている。
それはあくまで「設定」であって、本当の自分のニーズからかけはなれていることがある。
自分の生命現象は社会性とは関係のないところで発露されているはずで、それは瞬間瞬間変化しつづけている。
死の瞬間までその発露はいきいきとあるはずなのだ。

いったい私はなんのために生きているのだろう。
私の生きる目的はなんなのだろう。
物質化した「死」という存在を前に、私は自分自身という現象と裸で向かいあおうと決めた。