2010年9月30日木曜日

朗読の花束(花束を贈るような気持ちで朗読する)

現代朗読協会では、よく、
「やりたいことはやらなくていい」
「やりたいことだけやればいい」
「やらなければならないことはなにもない」
ということをいう。
しかし、現実の日常生活のなかには「ねばならない」が満ちていて、私たちは日々それと取り組んでいる。
表現の世界では「ねばならない」と思ってやることほどつまらないことはない。本当は日常の世界でもそうなのだが、急にいまの生活を変えるのは難しいので、まずは表現の世界でのできごとでそれを確認していくといいと思う。
子どものころのことを思い出してみてほしい。歌を歌ったり、絵を描いたり、だれかとかくれんぼをしたり、楽しくて楽しくてしかたがなかった経験はだれもがあるだろう。あれはなぜ楽しかったのだろう。
それは人には表現やコミュニケートを楽しむ性質があるからだ。
だれにも強制されなくても、子どもは自然に絵を描いたり、歌を歌ったり、本を読んだり、かくれんぼをしたりする。それを心から楽しむ。子どものころにはそのような自発的な喜びが満ちていた。それが次第にいろいろなことを強制されるようになっていく。
強制され、自分もそれを受け入れ、苦痛を耐えてそれを実行していくこと。それが大人になることであり、責任を果たすことであると思いこんでいく。それはまた、現代社会が作りだした社会システムという枠にはまりこむ行為でもある。自分がどんな形であれ。

社会生活をいとなむ大人になるためには、それはいったん必要なことなのかもしれない。
いったん社会システムを受け入れた個人が、次のステップとして自分らしさを取りもどしていくことはできないのだろうか。自分を自分らしく表現することは可能なのではないか。なにものにも強制されず、純粋な喜びのなかで自分を表現することはできないのだろうか。
私たちは人に贈り物をする。たとえば愛する人に花束を贈る。それはだれに強制されたものでもない。なかには義務的な贈り物もあるかもしれないが、それとは別の話をしている。
花束を贈る、相手が喜ぶとか喜ばないとかいう「結果」や「予想」以前に、純粋な喜びはないだろうか。
私はあるような気がする。子どものころ、だれにも強制されずに走り回ったりも、絵を描いたりした、あの純粋な喜びである。大人になっても持っているはずなのだ。
朗読もそんな気持ちでやれないだろうか。
できるだろうと思う。相手に花束を贈るような気持ちで、ただ表現する喜びのなかで朗読をおこなう。そこには強制も義務もない。「これをしてはいけない」とか「こうしなければならない」というものもない。
そのとき、贈り手と受け取り手の間にはなにが起こるだろうか。
本当は朗読だけでなく、私たちの日々の生活もそのようであればどんなにいいだろうと思うのだが。