2020年2月8日土曜日

人にとっての幸せとはなにか

抽象的な問いであり、答えも人それぞれであり、また抽象的な答えになりがちだが、私なりに明確にしておきたい。

「幸せでない」と感じるのは、生命の危機、さまざまな社会的不安にさいなまれているときだろう。
人はまず、自分やまわりの人々が安全であり、また安心して生きていられることを望む。

自分や人々が過不足なく生きていく安全があり、安心できる環境にいるとき、人は幸せを感じるのかもしれない。
現代社会において、だれかから攻撃される心配もなく、経済的余裕もあり、健康で、やりがいのある仕事を持ち、だれに遠慮することなく自分の楽しみを追求する時間を持てる、そんな人は幸せなのかもしれない。

しかし、たとえば私のように死期の迫る末期ガンを抱え、日々痛みと対処する必要に迫られるような健康に問題がある人間は、幸せではないのだろうか。
思ったような仕事につけず、経済的にも苦しい生活を送っている人は、幸せではないのだろうか。
友だちも少なく、孤独な毎日をすごしているような人は、幸せではないのだろうか。

そういう人のなかにも、幸せな人はいるのではないか。
げんに私がそうであるように。

人には自分がこうありたいという望み(ロンギング)や、大切にしていること(ニーズ)がある。
それが満たされると安心できる。

たとえば、職場で自分の能力を発揮し、会社の経営に貢献することで、自分も安定した生活を送れたり、同僚と信頼しあえる関係を築くことで豊かなつながりのある人生を送れていると、幸せを感じるかもしれない。
しかし、それが満たされていないと不幸なのだろうか。

私はニーズが満たされている/満たされていないは、人の幸せとは関係がないとかんがえている(感じている)。
幸福感と関係があるのは、満たされていようがいまいが、そのニーズを自分が明確に把握しているかどうかだ。

上の例でいえば、まだ自分の能力が発揮できず、充分に貢献できていないとしても、自分には「能力を発揮して貢献したい」というニーズがある、それが明確になっていて、自分がいきいきと闊達な状態であるかどうかが重要だ。
ニーズが満たされていなくても、そのニーズを満たすために自分がどれだけいきいきと行動したり計画を立てたりできるかどうか。
ニーズを満たすためにどれだけ狙いすましたハンターのようになれるかどうか。
その状態こそが、人の幸せを左右するのではないだろうか。

私は末期ガンを抱え、日々痛みと闘っていて、そのこと自体は厳しいが、満たしたいニーズがあり、それを満たすために取れるあらゆる手段について虎視眈々と狙っている。
そのプロセスを日々味わい、楽しんでいる。
これが私にとって幸福な日々といわずしてなにをかいわんや、なのだ。