2020年2月14日金曜日

だれかから大事にされること、そう感じること

ご本人にいうと「恥ずかしいから」と絶対に許可してくれないから、勝手に無断で書くことにする(写真もアップする)。

山形の韓氏意拳教練の高橋透先生から革細工の手作りポシェットをいただいた。
もちろん、
「ありがとうございます!」
なのだが、そんなことばを超えてあふれてくるものがあって、ちょっと胸がいっぱいになってしまった。

「さしあげたいものがある」
といわれて透先生と落ち合ったとき、私には、
「なにかいただいたとして、末期ガンの身としては長く使えないかもしれないから申し訳ないことになるかもしれない」
というもやもやした気持ちがちょっとあった。

革のポシェットをいただいたとき、
「これは使えば使うほどいい感じになってくるんですよ」
と、ご自分が使っておられるブックカバーを見せてくれた。
なるほど、手になじんで革に表情が出てきている。
革製品にはたしかにそういうところがある。

「すぐには死ねませんよ」
といわれて、私はなんともいえない気持ちになったのだ。
透先生は私の命ができれば長くつづくことを願いながらこれを作ってくれたのかもしれない。
私のなかには自分の命をさっぱりとあきらめるようなあっさりした気分が(たぶん自己防衛的に)生まれていたが、ポシェットをいただいて、しかられ、また励まされた気持ちになった。

そんなふうに私のことを思ってくれる人がいる。
この半年、そういう人がたくさんいることを知った。
健康回復をねがって食品や器具や本をくれた人たち、自分ができるケアをしてくれる人たち、思いやりをもって世話をしてくれている身近な人、ただ祈ってくれる人……
なかにはこわくて声もかけられない、私が書いたものを読むこともできない、近づくこともできない人もいるかもしれない。

私のことを大事に思ってくれる人がいて、それはたぶん私がこの世からいなくなったとしても変わらず私を思うに違いない。
私が生きていようが、いなくなろうが、その思いは(すくなくともしばらくは)消えない。
私の存在をこえてだれかの思いがあるということだ。
そうかんがえると、死という一種の境界線が影を薄くしていくような気になる。

いまこの瞬間、私がこのような時間をすごせていることを、本当にありがたく幸せだと感じている。
これを書いている私の横には、昨日透先生からいただいたばかりの革のポシェットがある。