2016年10月20日木曜日

思いやっているつもりが相手を追いつめている

ある種の状況に置かれている人にとって、つぎのようなことばはつらく感じることがあります。
「あなたの本当の気持ちを聞かせて」
「あなたとつながりたいのよ」
「あなたのためを思っていってるのよ」
「あなたの好きなようにしていいのよ」
「私が悪かったわ」

だれか親しい人が元気がなかったり、調子が悪かったり、ふさぎこんでいるようなとき、こちらは相手のことを心配して、なんとか役に立てないだろうか、元気になってもらえないだろうかと、相手のケアを試みます。
こちらは相手の役に立ちたいと懸命になっているのに、弱っている相手にとってはそれは一種の「圧迫」でしかないことがあります。

そんなとき彼に必要なのは、自分がひとりでいられるゆったりした安心のスペースや時間だったりします。
だれかに心配してもらったり、つながったり、アドバイスをもらったりするのは、そこでゆっくりと落ち着き、余裕が出てきてからです。
だから、こちらができるのは、相手に余裕を確保する空間と時間を保証してあげることです。

ふさぎこんでいる人に役に立ちたいという気持ちは、よくよく見ると、相手に早く元気になってもらいたい、そのことで自分も安心したい、というところから生まれていることがあります。
ようするに、自分の安心のニーズのために、不必要に相手を追いつめてしまうのです。
相手にはいま、そんなことは必要ないのに。

自分には相手に元気になってもらって安心したいというニーズがたしかにあるけれど、相手はいまその余裕がない、そのゆとりとか、ゆっくりできる場所とか時間とか、自分がひとりでいることを選択できることのニーズがある。
それを尊重してあげる必要があります。
そのことを尊重することを相手に伝えると同時に、自分にもニーズがあることを伝えておきます。
相手が落ち着き、ゆとりが生まれたとき、あなたのニーズにも目を向けてくれるかもしれません。

時々、こういうことはないですか?
相手のことを思いやって、なにか役に立ちたいと思うあまり、冒頭のような質問をしてしまって相手が黙りこくってしまう。
あるいは心を閉ざしてしまう。
その場から立ち去ってしまう。
そういうことはないですか?
そんなとき、上記のことを思いだしてみてください。

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