2016年3月12日土曜日

自分の痛みに向かいあう、そのことが教えてくれること

共感カフェではとても深い痛みを抱えた人の話を聞くことがある。
その痛みがあまりに深く強いので、その人は自分でもどうしていいかわからず、またそのことがさまたげとなって自分のニーズを満たす行動を取れずにいることがある。

たとえば、とても大切な人と別離したことが痛みとなり、だれかと親密になったり、その人のことを大切に思いはじめたとき、またおなじような別離がおとずれるのではないかという怖れが生まれ、行動をにぶらせてしまったり、ゆがませてしまったりする。
たとえば、心をこめて表現したことが、だれかの気にさわり、攻撃されたり非難されたりこきおろされたりした経験が、ふたたびのびのびと無防備に表現することを妨げたりする。

そのような痛みや怖れはだれもが多かれ少なかれ抱えているといっていい。
私のなかにももちろんある。

痛みや怖れがあったとき、私の経験では、それをなかったことにして無視したり、強引にねじふせようとして強い行動に出たり、それに触れないように行動を迂回させたり、逃げたり、といったことをやってしまう。
当然、行動はねじれ、すっきりしない。
いつまでももやもや感が残る。

しかし実は、その痛みや怖れは、私にとってなにが大切なのか――私のニーズを教えてくれる指標なのだ。
その痛みや怖れを受け入れ、向かいあってみたとき、その奥にあるニーズに気づくことがある。
自分がなにを大切にしているのか、痛みや怖れが教えてくれるのだ。

自分のなかに痛みや怖れがあることに気づいたとき、むしろそれを喜んで迎えいれてみるといい。
自分のニーズが現れてきたら、今度はそのニーズを満たすためになにができるかもわかるかもしれないし、満たす方法が見つからない場合はそのこと自体を悼みきる。
悼みきれていない痛み(unmoaned pain)はずっと私に悪さをしつづける。
悼みきる、嘆ききることが必要なのだ。
そのことに時間がかかることもあるが、ここに手を抜かずにしっかりとやる。

痛みや怖れが現れたとき、自分がそれにどのように対峙し、どのように応じようとしているのか、それをしっかりと見極めていく練習は、あとあととても役に立つだろうし、自分の人生をパワフルにしてくれるだろう。


共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。