2014年11月28日金曜日

映画「大いなる沈黙へ」を観た

下高井戸シネマで「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」という映画を観てきた。
いやいや、まあすごい映画だった。
3時間近い長丁場だったが、あっという間に見終わったような気がした。

とはいうものの、じつは最初の10分くらいで眠気におそわれ、気絶しそうになった。
なにしろ、ナレーションなし、音楽なし、効果音なし、会話なし、ストーリーなしの、ないないづくしの映画で、冒頭のシーンからどこがどう映っているのかよくわからない、どうやらだれかが眠っている姿を真っ暗ななかで荒い画像で撮っているのが、ただひたすら流れている。
あとでそれは若い修道士が自分の部屋の祈りを捧げる場所で祈っている姿なのだとわかるのだが、なにしろ暗いので画面の粒子は荒い。
たぶんホームビデオカメラに近いような撮影機材を使っていたのではないだろうか。

撮影者は監督がひとり。
修道院に寝泊まりし、修道士たちと寝食をともにしながら、合間に撮影したのだという。
ナレーションや音楽が挿入されていないのは、監督がねらったのではなく、修道院とそういう約束で撮影が許可されたからだ。
しかし、それがとても効果的なのだ。

冒頭こそ眠気に襲われたものの、すぐに画面に引きこまれて、それからは最後の最後までわくわくして目がギンギンに冴えまくりだった。
ものいわぬ修道士たち、極限まで世俗をそぎ落とされた空間と生活、祈り、儀式、自然にかこまれた冷たい建物、雨、風、そして雪。

寡黙な映像なのに、いや、寡黙な映像だからこそなのか、観ているこちらのなかにさまざまなイメージや音、想いが次々とわきあがっては消えていく。
その忙しいことといったら。

世俗から厳しく遮断されて、ただ神に仕え、祈りを捧げる修道院の生活は、人間社会のなかでいったいどのような機能をはたしているのだろうか、ということをかんがえてしまうのだが、そういうかんがえすら意味のないことなのかもしれない。
ときおり挿入される聖書の言葉は、監督が選んだものなのか、あるいは修道院から指定されたものなのか、私にはそれが、人間が神を信じることの、あるいは人間が神に仕えることのアンチテーゼを突きつけられているような気がした。
もしそうだとしたら、この映画はとてつもない神への冒涜ということになるが、それは私の思いすごしにちがいない。

映画のところどころに、修道士たちのただカメラに向かってじっと顔を向けているだけの姿が数分ずつ挿入されているが、そのなかに寺男的な役目の、修道士たちの髪を刈っていたから散髪屋なのかもしれないが、ただひとり世俗の人間が映っている。
明らかに彼だけ、修道士たちとはかもしだすものが違っているのだが、それをどう受け止めるのかは観ている者に完全にゆだねられている。
そう、この映画は、ものいわぬだけに、自分自身を映し出す鏡のような機能を持っているといえる。