2009年11月6日金曜日

あなたはこれをなんと呼ぶか?

 登記上の法人名はともかくとして、私たち現代朗読協会はあたらしい呼称(団体名/ニックネーム)を考えているところだ。
 なぜなら、いまの名称はなにかと不都合が多く、ここにいたってとてもこのままではうまくないと判断したからだ。
 どう不都合なのか。

 まず、なにかライブをやるときに、私たちがやっていることを「朗読ライブ」と呼んでいいのかどうか、という問題。
 朗読ライブといっていると、「朗読を聞きたい人」が来てしまう。が、私たちのライブに一度でもおいでいただいた方ならおわかりのように、私たちがやっているのは朗読だけではない。というより、もはや朗読ですらないといえるかもしれない。「朗読を含むなにか」なのである。
 朗読を聞くことを楽しんだり、自分も朗読をやる人たちは、かなりの割合で「朗読とは本に書かれていることを美しく生きいきと聴衆に伝えること」が目的であると解釈している人がいる。むしろそれが主流であるともいえるだろう。これを読んでいるあなたもいま、
「そのとおりじゃないか。じゃあ、どういうのが朗読なんだ?」
 と思ったかもしれない。
 私たちがやろうとしているのは、朗読という表現行為を使って「本に書かれていることではなく、自分自身を伝えること」を目的としている。たとえば、ピアニストが「エリーゼのために」を演奏するとき、それがどういう曲なのか伝えようとしているのではなく、「エリーゼのためを自分はこのように演奏するピアニストなのである」ということを伝えようとするように。
 これが朗読という表現ジャンルにおいて「亜流」であるとするならば、私はもはやそのジャンルにとどまる意思は持てない。私はなにかの亜流になんかなりたくない。

 これまでの多くの経験において、私たちのライブを聴きに来た人たちの反応でとてもはっきり見えてきていることがふたつある。
 ひとつは、上記のように、主流の朗読を求めてやってきた人たちは一様に顔をしかめ、去っていく、ということだ。
 もうひとつは、朗読には関わっていない他分野の表現をやっている人たち——たとえば音楽、美術、写真、演劇といった人たちは、かなりおもしろがってくれるということだ。どういうふうにおもしろがってくれるかというと、自分たちがおこなっていなかった表現を私たちがやっていること、しかもそれは自分たちともなにか関わりがあるひとつの地平上に存在する表現であることを本能的に察知しておもしろがってくれるのだ。

 ここではっきりしている大きな問題がある。
 私たちが「現代〈朗読〉協会」という看板を掲げて活動している以上、顔をしかめて去っていく人たちはこの先も後を絶たないだろう、ということだ。これはお互いに不幸なことではないだろうか。
 私たちはもはや、主流朗読を求めている人たちではなく、なんらかの手段で自分自身を表現したい、なにかの方法で表現者になりたい、と望んでいる人たちにメッセージを発していくべきではないか。

 主流朗読に対して、私たちがおこなっている声の言葉的表現を仮に「ロードク」と呼んでおく。
 このロードクという手段は、すごい表現手段であることに私たちは気づいている。
 まず、だれもがいつでも、いまからでも、この瞬間からでも始めることができる。音楽や美術のようになんらかの道具やスキルを得なければできないというようなことはない。なにしろ、皆さんが普通に使っているその声と言葉を使うのだから。
 また、劇団や楽団のように人が集まって組織を作る必要もない。自分ひとりでも(聴き手さえいてくれれば)始められる。
 表現の場所も問わない。
 だれでも始められるのに、奥は深い。表現行為はとても広がりを持っている。他ジャンルとの共演や即興的なコミュニケーション、そして観客とのコミュニケーション、コンテンポラリーアートとしてのパフォーマンスといった高度なレベルにまで表現を高めていくためには、やらなければならないことはたくさんある。が、各自がいま持っているそのレベルで、とにかく表現行為を展開することができるのだ。

 今日、午前中にUPしたばかりのこの映像を見てほしい。
 先日、某所でおこなったロードクセッションである。
 ロードクパフォーマーがふたりいる。親子ほども年齢の離れたふたりだ。ふたりとも声と言葉を使う。が、その使い方は自由であり、即興的である。また、演奏者がひとりいる。ピアノを弾いているが、こちらもまったくの即興である。
 ふたりのロードクパフォーマー同士、そしてピアニスト、さらに見えてはいないが観客との間に濃密な非言語コミュニケーションの交錯が存在している。
 さて、この行為を皆さんならなんて呼びますか?