少人数だけど人が来てくれていっしょになにかやったり、かんがえたり、学んだり、そしてまたひとりになって書き物したり、音楽聴いたり、映画を見たり、そんなことをしているうちに、深く自分につながる時間がおとずれた。
私が私であること、私のここにある命がなにを求め、なにを必要としているのか。
武術の稽古とあいまってひろびろと身体が開かれる感じがしている。
なんとなく惰性でやっていること、習慣になってしまっていること、人との関係性のなかで義務的になってしまっていること、そういったことをいま一度かえりみて、命のリソースを集中していきたいと思う。
私のニーズの中心にあるのは、自分のいのちを大事に使うこと。
時間的にも物質的にも精神的にも有限であるいのちのリソースをうまく使いきること。
私がおさらばしていくこの世界を、私がいたことですこしでもよくすること。
私のいのちの継続として祝福できる存在である子どもたちや若い人たちに、すこしでも役に立てること。
私のいのちのリソースをもっとも効果的に使える方法はなんだろう、ということをずっとかんがえている。
それは私のニーズと、私の能力が一致した場面であろう。
表現すること、伝えること、貢献すること、喜んでもらうこと、そういったことが自分の喜びでもあること。
そうかんがえると、やはりまずだれもが手に取って利用できる「コンテンツ」を作りたい、という戦略(ニーズを満たす手段/strategy)がしっくりくる。
コンテンツとはテキスト/本であり、オーディオやムービーである。
人と直接つながることも、私にとってはかけがえのない時間だ。
ただコンピューターにむかってものを書いたり、音楽やビデオクリップを作ったりしていればいい、というものではない。
しかし、最近はそのバランスが崩れぎみだと感じることが多く、すこし気がかりがある。
ようするに簡単なことばでいえば、「手を広げすぎた」という感じなのだ。
ちょうど新年度がスタートするこの時期に、直接人とつながる場/イベントをすこし整理して、もうすこしコンテンツ製作に使える時間とゆとりを確保しようと思う。
(結果的に)少人数で開催している共感カフェなども、自分のリソースを生かしきるにはすこし窮屈な感じがする。
大切な場ではあるが、バランスが重要だ。
長くつながりつづけて人たちとつながりを切るということではなく、別の形でつながることを提案してみよう。
量より質ということも大切だし。