かねてから強調していることだが、朗読にせよ音楽にせよ、当然ながらダンスなどの身体表現においてはなおさら、自分の身体の感じをリアルに把握している人と、なんとなく漠然とイメージだけでとらえている人とでは、表現のクオリティは大きく異なる。
すぐれた表現者は、朗読者、音楽家、舞踊家、どんな人も、意識的にせよ無意識的にせよ、表現することと自身の身体の状態が一致している。
私は現代朗読を主宰し演出している身なので、朗読を例にとってみる。
朗読は書いてあるもの(本/ストーリーなど)を声に出して読むという表現行為だが、お話の内容にばかり注意が向き、自分の身体がどのような状態なのか、どんな感じがしているのか、どのような変化が起きているのか、そちらにまったく注意が向いていない読み手と、自分の身体状況に注意が向けられつながっている読み手とでは、あらわれてくる表現のいきいきさがまったく違ってくる。
朗読経験がまったくない人でも、ちょっと想像すればそのことは予想がつくだろう。
ところが、実際にやってみると、自分の身体がわからない、見えない、感じがつかめない、という問題が発生する。
今日も現代朗読ゼミに初めて参加するという方がやってきたが、自分の身体が見えないという問題が起こった。
現代朗読では基礎トレーニングのなかに「体認のエチュード」という、読みながら、しかし自分の身体に注目し、なにか気づいたことを言語化してみるという練習法がある。
身体を動かすといっても、左右に回る、上下にのびちぢみするといった、ごく単純な動きで、それをおこないながらただ目の前の文章を読むだけだ。
やってみるとわかるが、最初はまるでぼんやりしていた自分の身体の輪郭が、しだいにはっきりしてきたり、やりこんでいくと緻密な変化や状態に気づくようになる。
しかし、最初はぼんやりしているどころか、変化が起こっていることすら気づかないということが起こる。
いかに現代人が自分の身体を無視して生きているのかがわかるのだが、表現をするにあたってそれでは困る。
瞬間瞬間、刻一刻と変化しつづける自分自身と付き合いながら表現をおこなっていくのが、時間軸のなかでリアルタイムにおこなう表現行為なので、自分をとらえ、またその変化を緻密にとらえていくのは重要なことなのだ。
現代朗読のゼミでは、毎回、そんな練習をしている。
すると不思議なことに、とくにテクニカルな反復練習のようなことをおこなわなくても、朗読者の表現クオリティがどんどんあがっていくのがわかって、おもしろい。
今日来てくれた方も、まだ自分自身をとらえることは難しかったが、その必要性はわかってくれたようだった。
日常生活のなかでもやれる練習なので、時々時間を見つけてやってくれるとうれしいと思う。
◎3月24日:現代朗読ゼミ
朗読や群読などの身体表現を用いていまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現するための研究の場・現代朗読ゼミ、3月の開催24(土)10時半から約2時間。