2018年3月29日木曜日

「怒り」は感情ではない、とかんがえてみる

ちょっと極端ないいかたをしてみた(表題)。
大事なことなので、もう一度いう。
話をわかりやすくするためにちょっと極端ないいかたをしてみる。

人はどんなときに怒るのだろうか。
あるいは怒りを表現するのだろうか。

共感的コミュニケーションの練習を深めた人ならだれもが気づいていると思うが、
「怒り」という感情は単独では存在しないことが多い。
表面的には「怒り」一色に塗りかためられているように見えても、その奥には、さらに「悲しい」「寂しい」「つらい」といった感情が見え隠れしていることが多い。
怒りの感情をつぶさに見ていくと、たいていの場合は繊細な感情のレイヤーが見えてくる。

さて、人はどんなときに怒るのか。
私の観察による理解では、人はなにかを恐れているときに怒りを発動させる。
なにを恐れているときか。
自分を守ろう、あるいはなにかを守ろうとしているとき。

それは大事なものを失ったり、奪われたり、価値観を踏みにじられたり、自分の存在そのものが尊重されなかったしているときだ。

子どもがなにかしでかしたときにしかりつけることがある。
そのときの自分をよくよく観察してみる。
表面的には怒りがあるものの、その奥には子どもを守りたい、成長してほしい、というあせりやもどかしさがあったり、自分の貢献やサポートが足りないというつらさがあったり、いつもこれほどいっているのにわかってもらえない、理解してもらえないという悲しさや寂しさがあったりする。

いったん怒りを爆発させたあとには、かならず、そのような繊細な感情が表面化してくる。
ただし、怒りという感情を「通過」しないと、なかなかそこは認知しにくい。

怒りのやっかいなところは、それを相手にぶつけてしまうと、相手との関係性をいちじるしくそこない、つながりを断たれることが多いことだ。
相手にしてみれば、怒りをぶつけられたことで自分を攻撃されたように感じて、逃げたり、反撃しかえしたり、つながりを切ろうとしてしまう。
こちらはただ、なんらかの恐れがあって怒りを表面化させてしまっているだけなのに。

怒りは相手にぶつけるのではなく、自分のなかで処理する必要がある。
怒りが沸き起こったとき、「ああ、自分はなにかを恐れているんだな。なにが怖いんだろう」と自分自身への理解とつながりを深め、怒りの奥にある繊細な感情を観察する。
それができたとき、はじめて本当のニーズに気づける。
本当のニーズが明確になったら、そのニーズレベルから行動したり、相手に話をすることができる。

怒りという感情は、「自分自身との一時的な対立」だとかんがえることもできる。

3月31日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
編み物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう場。まるで昭和の家の縁側のような安心できる居心地となる予定です。編み物ができない人ややりたくない人も歓迎。午後3時から8時まで、出入り自由。