2011年8月17日水曜日

なんとなく表現活動したいけどなにをすればいいのかよくわからない人

現代朗読協会の体験講座を受けに来たり、ゼミを見学に来たりする人のなかで、
「まだ自分がなにをしたいのかはっきりわからない」
というようなことをおっしゃる方がけっこういらっしゃる。わからないのだが、しかしなんとなく表現活動はしてみたいと思って来られたわけだ。
すべての人はなんらかの形で自分を表現したいという根源的欲求を持っている。なにもそれははっきりとした表現行為や芸術行為に限らない。料理だって犬小屋作りだってガーデニングだってケータイメールだって、立派な表現行為である。
しかし、漠然と現在の自分の生活に物足りなさを感じていて、生活のなかの表現に不満を持っている人は多い。それは、表現の受け取り手との間に共感のクオリティが実感できない場合だ。それがいい・悪いではなく、現代生活はそのようなケースが多い。
そのようなとき、はっきりと意識した表現行為に自分が関わることで、ある種の救いを得られることがある。またそのことで、生活にもいい影響が出ることもある。
問題は、どのような表現行為を自分がしたいか、それが漠然としていてわからない、というケースだ。

大人になっても、いや大人になったからこそ、自分がどういう表現をしたいのかわからなくなっている人は多い。むしろそれが普通だといってもいいくらいだ。なにも特別なことではない。そういう人は、まず、どんなことでも「やってみる」ことが必要になる。
なにもしないうちに、事前に自分のやりたいことがわかる人はめったにいない。やってみて初めて「こういうことがやりたかったのか」とか「これはやりたかったことではない」ということがわかるのだ。
ただし、そのときに大事なポイントがある。
教室でも講座でもいいのだが、そこがどのような指導法をしているか。
たとえば「~しなければならない」「~してはならない」といった、なんらかの「型」にはめる指導をおこなっている場合、自分の表現を見つけることは難しくなる。
そういう講座は「表現の場」ではなくたんなる「お教室」「お稽古」であることが多い。なにかの型にはめることは、なんらかの「技術習得」にはなるが、自分の表現の発見には結びつきにくい。

まずはやってみることだ。どんなことでもいい。とにかく一歩を踏みだしてみる。
うまく自分の表現が見つかれば、人生が豊かになることは間違いない。
もちろん最初は朗読でもいいのです。敷居が低いしね。