2016年1月17日日曜日

2月28日:PIESSネットワーク東京の会のご案内

鈴鹿のアズワンコミュニティのありように心打たれたり、カレッジやスクールに参加した人が、それぞれの地域でも持続可能な社会作りをめざしたいという思いを持ちつづけ、おたがいにつながりつづけるために作られたPIESSネットワーク。
その東京地区での集まりが、毎月、世田谷の古民家「羽根木の家」で開催されています。

持続可能な社会の実現、お互いに思いやりをもてる人間関係、トランジションタウン運動、非暴力コミュニケーション(NVC)あるいは共感的コミュニケーション、ギフト&シェアエコノミー、自然農、エコビレッジ、子育て支援といったことに興味を持っている方なら、どなたでも参加できます。

ご友人、知人をお誘いあわせの上、どうぞいらしてください。
築80年の掘りごたつのある古民家で、ゆっくりと安心してお話しましょう。

ピースネットワーク東京 水城ゆう

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『日常の自分を振り返って、本来の自分・人・社会
について話し聴き合う会』@ピースネットワーク東京
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◆日時:2016年2月28日(日)
 ●10時~12時半(サイエンズスクール、探訪ディ参加者)
 ●12時半(お昼)~16時(誰でも参加自由)

◆参加:
・サイエンズスクールやアズワンコミュニティ探訪ディの参加者(午前中)
・自分や人を知る・聴く、心(内面)の話し合いに関心のある知人の方など、どなたでも(お昼~午後)

◆参加費(会場費):500円
◆お昼:持ち寄り、または、自分の分を持参ください

 京王井の頭線 「新代田駅」 徒歩2分
 世田谷区羽根木1-20-17
 環状7号線を渡って、線路沿い(吉祥寺駅方向)に進んで橋を
 右折後、すぐ左折して、道を右折した左側にあります。

◆連絡:現代朗読協会「羽根木の家」
  電話 090-9962-0848


  Mail desk@roudoku.org

怒りたいニーズ

ある程度共感的コミュニケーションが身に着いて、まわりにもそういう人が増えてくると、感情をあらわすことに躊躇しなくなることがある。
これまでは「泣いちゃいけない」「ここで怒ってはいけない」といったふうに、自分の感情を抑えつけることが多かった人が、それを存分に表現してもいいという安心感と喜びを感じることができるのが、共感的コミュニケーションのすばらしいところでもある。

しかし、自分自身をふくむいろいろな人を見ていると、感情を表現してもいいという安心の場にいるとき、必要以上に「怒り」の表現をしてしまうことがあることに気づいた。
自分がむかついた、腹が立った、ということについて、あるいはだれかに対する怒りについて、ことさらにエネルギーを増幅させた表現をしてしまうことがあるのだ。

いったんそれについて表現しはじめると、あるいはだれかを糾弾しはじめると、その増幅はさらに増幅を呼び、エスカレートしていく。
しかもそれが快感になっている。
それが許されるという安心感から、どんどんエスカレートし、ときには仲間どうしで盛り上がって、発散する。

どうやら、私たちのなかには、「怒りのエネルギーを発散させたいニーズ」のようなものがあるようなのだ。
なぜなら、怒りというのは、生命力の発露としてもっとも端的で、わかりやすいからだ。

怒りは常に、私たちの生存と関連している。
生存とか存在をおびやかされたとき、怒りが発動する。
発動した怒りは、それ自体が自分自身の生命力の証拠として明示的になる。
その輝きは歓迎したい明るさを持っている。

ちょっと注意したいと思う。
自分自身の怒りについて、あるいはだれかにたいする怒りについて語りはじめたとき、それがたんなる「怒りたいニーズ」に駆動されたものでないかどうか、チェックしてみる必要があるかもしれない。

怒ることは本当に簡単で、気持ちがいい。
しかし、それは悲劇をもたらすこともある。
怒ることではなく、ほかの表現方法を選ぶことはできないのかどうか、自分のなかにある純粋な表現の喜びに接続しなおすことができないかどうか、調べてみたい。

私の場合は、たぶん、こうやって書くこと、あるいは演奏すること、みなさんにさまざまなことを伝えること、などの表現によって、生きている照明に簡単につながることのできる「怒りたいニーズ」を昇華できているような気がする。


1月の羽根木の家での共感カフェは、1月29日(金)19〜21時です。

2016年1月16日土曜日

自分が何者になろうとしているかの観察練習

全10回の「オーディオブック収録製作コース」の第6回めは、自分でいうのもなんだが、かなりおもしろかった。
朗読にかぎらず、表現行為において多くの人は、自分以外の何者かになろうとする、あるいはいまここにはないなにか想定されたシチュエーションを自分に課そうとする。

現代朗読のエチュードでは、自分自身のいまこの瞬間のありようにマインドフルに注目し、自分が無意識に「なにをやっちまっているのか」を洗いだす練習をする。

使用テキストは夏目漱石の「文鳥」である。
出だしはこんなあんばいだ。

「十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった」

これをなにげなく朗読しようとするとき、いったい自分は「なにをやっちまっているのか」を、つぶさに観察してもらった。
いろいろとおもしろい観察が出てきた。

みぞれちゃんは「お話を伝えようとする人、正しい日本語を使おうとする、いわば朗読教室の先生のような人」が出てきた。
あけみさんは「ラジオ放送の女性アナウンサー」が出てきた。
てんちゃんは「NHKのベテラン男性アナウンサー」が出てきた。
めぐみさんは「文鳥」の語り手である「書斎にいる男性/ひょっとして夏目漱石?」が出てきた。

これを、ひとりずつ役割をずらして、順繰りに、わざとそれらしく読んでもらった。
そのとき、自分が「なにをやっているのか」、とくに身体性に注目してやってもらった。

そして最後に、いっさいの想定を捨て、ただ自分の「いまこの瞬間」の身体にだけ注目して、なにもたくらまずに読んでもらった。

芳醇なニュアンスや感情、動きをふくんだ豊かな音声表現がそれぞれにそこに立ち現れて、私は涙が出そうになってしまった。
ここに表現することの嘘いつわりのない誠実さがあり、人が生きていることの発露の美しさがあるのだと感じた。

現代朗読がここにたどりついたことに、私はとても誇りを持っている。
私はこのことをつかんで離さないだろうし、大切にしつづけていきたい。


朗読をはじめてみようと思っている方、すでにやっているけれど物足りなさや壁を感じている方、その他表現に興味のある方、まずは進化しつづける現代朗読を体験してみませんか。1月24日(日)午前、羽根木の家にて。

2016年1月15日金曜日

粗野な言葉で語りたい

NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をベースにした共感的コミュニケーションを人に伝えるとき、私にはいくつかこうしたいという望みというか、心がけていることがある。
そのうちのひとつに、NVCの用語やいいまわしをなるべく使わないでそのエッセンスを伝えたい、というものがある。
なぜなら、NVC特有の言葉使いや文法に拒否感をおぼえる人がすくなからずいて、その先にある共感エッセンスにたどりつかないままあきらめてしまうのを見るととても残念な気持ちになるからだ。

私にも心当たりがあって、何度も挫折しかかった。
さいわいなことに辛抱強い友人(安納献)がいたおかげでなんとかあきらめずにすんだ。
しかし、だれもが辛抱強い友人を持っているとはかぎらない。

現在、羽根木の家に滞在している国際公認トレーナーのホルヘ・ルビオのワークショップで、印象的なことばを彼から聞いた。
「自分はカジュアルで粗野で、乱暴な言葉で話そうとしている」
というものだ。
その理由として、NVCを必要以上にスピリチュアルすぎるように取られたくない、といっていたが、それだけではないことはあきらかだ。
ともすればNVCを学ぶ人たちや学びの場にはびこることがある「ある種スノッブな空気」を彼は注意深く排除しようとしている。

私はとてもとても深く彼に共感する。

共感的コミュニケーションを必要としているのは、現時点でいままさに暴力にさらされている人たちだ。
彼らはNVCのことも知らない、共感も知らない。
だれかと話すときには「攻撃的に決めつける」「相手より上に立つ」「批判する」「競いあう」「弱みを見せない」「嘘を見抜き突っこむ」「ボケる」そんな方法でしか人とつながることを知らない人たちだ。
銃弾が飛びかう戦場で、弾をよけるすべも知らないまま突っ立っているようなものだ。
あるいは自分が手にしている貧弱な武器で相手に立ちむかおうとしているようなものだ。

彼らに共感をとどけ、共感的世界に連れもどすには、まずは彼らになじみのある粗野で暴力的な言葉で語りかける必要がある。
そうでなければこちらに目を向けてくれない。

「あなたが……されたとき、……な気持ちになったんですね? それはもしかして、あなたにとって……が大切だからでしょうか?」
というのが共感的コミュニーショん(NVC)の基本文法だが、それを、
「おまえには○○が必要なんじゃねえの?」
と、泥玉をぶつけるようにして聞いてみる。
最大の好奇心のエネルギーをもって。

◎親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(1.22)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を1月22日(金)夜におこないます。

映画:カルフォルニア・ダウン

最初に、ある種の繊細な人は見ないほうがいいと助言しておきたい。
私はまったくなんの予備知識もなく、先入観もなしに、ただ「なんとかダウン」というタイトルの映画をいくつかつづけて観ていたので、これもなんとはなしに観てみた。

ストーリーはかなり雑で、いわゆる「バカ映画」だ。
マッチョなレスキュー隊員の主人公ドウェイン・ジョンソンが、自分の職務をそっちのけで妻と娘を危機一髪救う、というだけの話だ。

私にはバカ映画を一定のペースで消費したいという謎のニーズがあって、たぶんそれは時々コーラをがぶ飲みしたくなる中学生のような欲求なのだろう。
そういう意味では、私のニーズをかなり満たす映画といっていいのだが、CGを駆使して作られた緻密な映像にかんしては、さむけをおぼえるほどだった。

見はじめてすぐに、これは巨大地震の映画だなとわかった。
建物や道路、高層ビルが次々と破壊されていく映像は、CGだとわかっていても相当にリアルで、迫力がある。
それはまあいいのだが、後半に出てくる津波のシーンが恐ろしい。

おそらくCG製作者は2011年の東北大震災の、本物の津波の映像をかなり参考にしたに違いない。
現場に何度かおとずれた身としては、たんなる娯楽映画としてこの津波のシーンを楽しむというわけにはとうていいかない。

この映画は2015年にアメリカで公開されたが、日本での公開は紆余曲折があったらしい。
観てみると、それもなるほどと思う。
最新CGテクノロジーに興味がある人はべつとして、まったく観なくてもかまわない映画である、といいきっておく。


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川崎高校で地球市民入門の授業を聴講

神奈川県立川崎高校まで行って、羽角先生の「地球市民入門」という授業を見学してきた。
羽角先生は元々、物理の先生なのだが、環境教育などの方面で活躍されていて、その筋では有名な方らしい。
私は先日のみつばち同好会の見学で知りあった。

川崎高校は単位制で、生徒たちは自分のクラスや教室を持たない。
一人ずつのロッカーがあって、私物はそこに入れてある。
ホームルームのようなものもない。
登校時間と下校時間は自分が受ける授業によって決まる。
大学と同じシステムのようだ。

最近、こういう高校、増えてるのかな?

地球市民入門の授業は一年を通してカリキュラムが組まれていて、羽角先生が独自に作られたものだ。
労作だと思う。
正課としての認可を得るのも大変だったのではないかと想像する。

今回は一年のほとんど最後のほうの授業で、

 第7章 グローバル化と貧困…国内の貧困・格差問題
  その2 労働者の権利

というテーマだった。
学生たちは3つのグループに分かれ、ワークシートに沿って作業しながら学習する。
労働基準法や労働契約法を参照しながら作業するのだが、法文が難解で、取り組むのが大変そうだった。
しかし、これから社会に出て行ったり、選挙権を付与される彼らにとっても、大事な内容だろうと思う。

難しい内容だったが、授業は意外に早く終わった。
見学していた私を羽角先生が呼び、自己紹介するようにいわれた。
私は自分がピアニストであること、ものを書く仕事もしていることなどを伝えて、なにか質問はないか訊いてみた。
質問が来る前に、この部屋(多目的室)にはピアノがあって、鍵もかかっていないので、鳴らせるはずだと学生たちが教えてくれた。

私は自分が即興ピアニストであり、ではいまから、ここ数日の寒さを思い浮かべながら、「雨が雪になって、やがて晴れ間が出てくるストーリー」を演奏してみたいと告げて、ピアノにむかった。

みなさん、最後まで真剣に耳を傾けてくれて、とても幸せな時間だった。
演奏が終わってから、共感的コミュニケーションというものがあり、それを伝えることもやっている、とみじかく話した。
労働者が法律で守られることはとても大切だけれど、その前に雇用者も労働者も人と人としてのつながりを大切にし、お互いのニーズを尊重しあえる社会やコミュニティがあることも大事だと思っていて、そういうことにも興味を持ってもらえるとうれしい、と伝えさせてもらった。

みじかい間だったけれど、学生たちに私の演奏と思いを伝えるチャンスをいただけたことを、羽角先生に感謝したい。

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2016年1月13日水曜日

映画:ザ・シューター/極大射程

2007年公開のアメリカ映画。
監督のアントワーク・フークワはこの手の映画のスペシャリストらしく、私が観たほかのものでは、デンゼル・ワシントン主演の「イコライザー」がある。
こちらの主演はマーク・ウォールバーグ。

主演級の役者というより、しぶい脇役的なイメージが強くて、「トランスフォーマー」とか「ディパーテッド」「ミニミニ大作戦」「パーフェクト・ストーム」とかに出てたな。
いま確認したら、「ディパーテッド」ではけっこういろんな賞をとったり、ノミネートされたりしている。

もう引退し、山奥で愛犬とともに静かな生活を送っている凄腕の狙撃手が、その腕を見込まれて大統領狙撃計画の阻止に駆りだされるのだが、陰謀に巻きこまれ、自分が追われる身になってしまう、というサスペンスストーリー。
ありがちなストーリーだが、つぎつぎと大きな窮地におちいっていく主人公が、どうやって窮地を脱していくのかという興味に最後まで牽引される。

元同僚の妻役のケイト・マーラがいいんだな。
重要な役どころ。
「トランセンデンス」にも出ていたし、まだ観ていないけれど、要チェックの「オデッセイ」という映画にも出ているみたいだ。

国家の陰謀対個人という構図。
アメリカ映画界は、よほど自国を敵とし、スペシャリストな個人をそれに対峙させて勝利させる、という図式が好きらしい。

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「過去形」を使わない修行

「あのときこうしてほしかった」
「なんであんなこといったのよ」
「あんなことしなければよかった」
だれかが過去形を使ってものをいったり、自分自身が過去形で振り返ったりするとき、そこには怒りや悲しみ、無念がかならずある。

いっている本人も無意識下では気づいているはずなのだが、過去の事象に言及してもそれはもはやけっし変えることはできない。
起きてしまったことはもう取りかえしはつかないのだ。
だれもがそれをわかっていながら、言及せざるをえないのは、自分がそのことについて怒りや痛みを持っていることをただわかってもらいたい、だれかに知ってもらいたい、というニーズがあるだけだ。

しかし、そのニーズが見えないまま表向きのことばだけ受け取ってしまったとき、それはこちらにとって非常に聴きづらいものとなる。
「なんであんなことしたの?」
といわれたとき、額面どおりに受け取ってしまうと、
「あなたがあんなことしたせいでこんなことになってしまった」
という責任追及/攻撃のことばに聞こえてしまう。
こちらは反射的に防衛あるいは反撃の姿勢を取ることになる。
典型的な対立の構図となる。

対立したくなかったらどうすればいいだろう。
相手が過去形でものをいいだしたら、そこにはなんらかの痛みがあるのだろうと推測できる。
相手のことばを「攻撃」ではなく、こちらになにか「お願い」をしているのではないかと受けとる必要がある。

相手にはどういう痛みがあるのか。
怒りや悲しさ、悔しさが見えるかもしれない。
それをまずこちらが受けとる必要がある。

そこにはどんなニーズの欠如があるのか。
推測してみる。
そしてこちらは「過去形」を使わず、「現在形」で相手にたずねる。

「きみがそのことを思い出すとき、とっても悲しいんだね?」
「きみが悲しいのは、サポートが必要だったと思うからかな?」

逆にこちらが相手になにかを伝えたいと思ったとき、まず自分のなかにある痛みや満たされなかったニーズに共感した上で、
「あのときのことを思いだすととってもつらいんだ。なぜなら、あのときぼくにはサポートが必要だったことがわかっているから」

現在形で話すとき、それは「取り返しのつかないこと」について話しているのではなく、「いまこの瞬間の自分の動いている、変化しつつある、そしてまだ可能性のあること」について話しているというこしとが、相手にも伝わる。
もちろん自分のなかにも可能性が動きつづけている。

過去のいわば「死んだ事象」について話すのではなく、いま現在のいきいきしているニーズにつながりながら話すことで、対立ではなく可能性のある未来が生きはじめる。


共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を1月22日(金)夜におこないます。

1月の羽根木の家での共感カフェは、1月29日(金)19〜21時です。

2016年1月12日火曜日

現代朗読のふつうの群読と先端表現としての群読

昨日の朗読表現基礎ゼミには、いつものげろきょゼミ生のほかに体験参加者が3人いらした。

基礎ゼミでは毎回、テーマをもうけて、一般の体験参加の方も歓迎して開催しているのだが、昨日のテーマは「群読の楽しみ/エチュードから作品へ」というものだった。

現代朗読では「エチュード」と呼んでいる朗読表現の稽古の方法がたくさんある。
それらを稽古していく過程で自然に舞台表現作品ができあがっていくことが多い。
一昨年に明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉でおこなった「夏と私」という公演も、たくさんのエチュードを組み合わせた作品だった。

午前中の基礎ゼミは、基礎訓練のあと、そんな群読エチュードをみんなで体験し、現代朗読と自分自身を味わってもらった。
午後の昼ゼミはゼミ生だけの参加だったので、より先鋭的なエチュードを試みてみることにした。

私には現代朗読のもっとも先端的な表現を試してみたいという欲求がある。
つまり、だれも見たこともやったこともない表現行為の試みだ。
それを「朗読」という表現行為でやってみたいし、これまでもいくらか試みてきている。
今年はそれを明確に掲げて、げろきょ内で「先端表現部」として研究するグループを継続的にやってみたい。

昼ゼミでは、午前中にやった群読からさらに発展して、音声表現としての自由朗読と、身体表現としての自由朗読の両方のアプローチから、実験をさせてもらった。
うまくいった面もあれば、期待どおりにはいかなかった面もある。
いずれにしても、先端表現に一歩踏みこめた感触はあった。

これはスリリングで、厳しく、「楽しい」というような生ぬるいことばではいい表せないようなズキズキする場面で、いまこの瞬間の自分たちの「生」そのものに触れているようなかけがえのない感じがある。
とくに「沈黙」の豊穣さにふれたとき、私はわくわくする。

年初からずっしりとした手応えを感じることができて、付き合ってくれたゼミ生には感謝なのだ。
いっしょに未踏の地へと歩みだしていきたい。

◎朗読表現基礎ゼミ(1.16)
従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を基礎からじっくりと学ぶための講座。1月16日(土)のテーマは「伝達と表現/伝統的表現/コンテンポラリー表現」。単発参加も可。

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2016年1月11日月曜日

映画:英国王のスピーチ

暮れから正月にかけて、ちょこちょこと何本か観たので(といっても映画館ではなく)、感想を書きのこしておく。

「英国王のスピーチ」は2010年公開のイギリス映画。
メジャーな映画賞をいくつもとったり、ノミネートされたりして、かなり話題になったらしいが、私は全然知らなかった。
かるい気持ちで見始めたら、あれあれ、おもしろいじゃないの。

ハリウッド映画にはないイギリス映画特有のくすぐりがあちこちに出てきて、それが鼻につく人は気持ちわるいだろう。
私もどちらかというと苦手だが、この映画は「実話にもとづいた歴史映画」というふりをした壮大なくすぐりだと私は思った。

それにしても、舞台演劇の歴史があるイギリスの俳優は、演技の奥が深く、さすがだ。
ジョージ6世の言語指導をする教師が、私はてっきりアレクサンダーテクニークの人だと最初は思ったけれど、ちがった。
しかし、役者たちはまちがいなく、アレクサンダーテクニークを用いて演技表現をしている。
これはハリウッド俳優もおなじことだが。

きまじめなふりをしているが、ようするに「吃音治療」の話なのだ。
それがたまたま英国王だというから話がおもしろくなる。
ただそれだけのことだ。
ただそれだけのことでこれだけの映画を成立させてしまっている監督トム・フーパーは、なかなかたいしたものだと認めざるをえない。

主演のコリン・ファースもいいが、エリザベス役のヘレナ・ボナム=カーターもなかなかよかった。
暮れのひとときを楽しませてもらった。

共感的コミュニケーションにおける試練(母親との共感)

定期的に開催している共感的コミュニケーションの勉強会のうち、昨年5月からスタートした「親密な関係」における共感的コミュニケーションをあつかうものがある。
これはおもに夫婦や恋人同士などの親しい男女や、性的な関係を含む親密な関係をあつかうものだが、もともとは英語の「intimate relationship」から来たもので、2014年暮れのNVCのIIT(国際集中合宿)でトレーナーのひとりがやっていたワークをもとに、私なりに再構成してシェアしているものだ。

日本語で「親密な関係」というと、より広い範囲をイメージする人が多いらしく、両親や兄弟、親しい友人との関係について持ちだす人が少なくない。
私はそういう関係もふくめて学びの場を作ることを歓迎している。

もちろん私自身にも親兄弟との関係があって、それなりに困難を感じるときがある。

昨年の年末に、83歳になる母が、自損事故ではあるが車を大破する事故を起こした。
さいわい、身体はまったく無事で、かすり傷ひとつなかったらしく、その点はよかったが、母が新車に買い替えると決断しているのを聞いたとき、私はとても心配になった。

私の脳裏に浮かんだのは、
「もう車に乗らないほうがいい」
「免許を返上しなさい」
「またあたらしい車を買うなんてとんでもない」
ということばだった。

しかし、私にせよ、ほかの家族や友人のせよ、そのことを母に伝えたところで、彼女には「要求」「押しつけ」にしか聞こえないだろう。
その結果、彼女は別のニーズにしがみつくことになることは明らかだ。

すなわち、
「歳をとっても行動の自由を確保したい」
「だれかの世話になったり、人に面倒をかけるのはいや」
「自分にできることは自分でやりたい」
「まだまだ車を運転する能力がある」

私にもおぼえがあるが、人からなにかを押しつけられたとき、自分の本当のニーズが見えなくなって、押しつけられたことによる反発で浮かびあがってくるニーズに、反射的にしがみついてしまうことがある。
いったんそのニーズにしがみついてしまうと、なかなかそれを手放せなくなってしまう。
なぜなら、押しつけられた反発のなかに怒りがあって、その感情が自分の本当のニーズに深くつながることをブロックしてしまうからだ。

私にできるのは、ただ濁りなく、純粋な興味をもって母のニーズを聞きつづけることだけだ。
それは親子のような親しい関係では大きな困難をともなう。
なにしろ、これまで一度たりともそのようなつながりをもって話を聞きあったことはないから。

私の側にも、親子関係がもたらしてきたさまざまな痛みがある。
それをいったん棚上げして、純粋に共感できるかどうかが問われる。
そしてやってみることにした。

最初に私が聞いたのは、事故のことには直接ふれずに、
「いま車を運転しているときに、不安を感じることはないの?」
ということだった。
母は即座に、強い語調で、
「全然。まったくこわいことなんかないよ。私の運転はちゃんとしてる。不安はなんにもない」
というものだった。

まるでかさぶたをはがすようにして、私はゆっくりと、辛抱強く共感しつづけた。
それは私の共感的コミュニケーションのもっとも困難な実践であり、山場でもあった。

最終的に母は事故を起こした場面に触れ、
「とてもこわかった。事故のあと三日くらいショックでだれともしゃべりたくなかった」
という本音のことばを聞かせてくれるにいたった。
そこにいたれば、もう私の仕事は終わったといっていい。
彼女は自分ののなかにある安全のニーズに、すでにみずから気づいていた。
「自分も人も傷つけたくない。もう二度と事故を起こしたくない。安全が一番大事」

おそらく私がとやかくいわなくても、母は母なりに、自分がどうすれば安全でいられるか、その手段を思いついたり、かんがえたりしてくれることだろう。
いま私はそうとう安心している。
きっと母もそうだろうと思う。
またゆっくり、どうすればいいか、いっしょにかんがえていけばいい。

◎親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(1.22)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を1月22日(金)夜におこないます。

2016年1月10日日曜日

【水マガ】2016年1月10日号(Vol.10)配信しました

「水城ゆうメールマガジン」(略して「水マガ」)の最新号を配信しました。

目次
———————————————————
1 【手帳術】マインドフル手帳術の概要
2 今日の水城
3 お知らせ
———————————————————

登録(無料)はこちら。

内容の一部を紹介します。

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マインドフル手帳術では、まず、「GTD(Getting Things Done)」とおなじように、自分のなかにある気がかりをすべて紙に書きだす。
紙でなくてもスマホやパソコンでもよい。
GTDとすこしちがうのは、すべて書きだすといっても、ものははぶいて、「気がかりなこと」にターゲットをしぼる、ということだ。

「気がかり」とは、たとえば、
「図書館から借りた本をまだ返していない」
といったことや、
「毎週金曜日は資源ごみの日」
「親孝行したかったのに父が亡くなってしまった」
「猫を飼いたい」
「長らく連絡をとっていない友だちはどうしているんだろう」
「英会話のレッスンを受けたい」
など、とにかくなにかやっているときにふっと思いうかんでしまう雑多な気になっていることどもだ。
これらは集中してなにかやっているときにふっと思いうかんでしまうと、ノイズとして働く。
(後略)

2016年1月9日土曜日

県立川崎高校のみつばち同好会を訪問

昨日は朝から神奈川県立川崎高等学校のみつばち同好会の養蜂のようすを見学に行ってきた。

ここは羽根木みつばち部でも最初からご指導を仰いでいる後藤純子さんがインストラクトしていて、今回も後藤さんからお誘いをいただいての訪問だった。
あいにく、羽根木みつばち部から参加の都合がつく人はすくなかったが、ムーンソープの滝井みおぎさんと、みおぎさんの友人でデザイナーの千尋さんが同行してくれることになった。

カーシェアリングで車を羽根木の家から出し、後藤さんのお宅をまわって、川崎高校へ。
10時すぎに到着。
それにしてもすかっと晴れあがったいい天気。
小寒だというのに、ぽかぽかした陽気。

川崎高校の羽角先生と川崎先生、そして同好会のメンバー何人かが迎えてくれた。
後藤さんの指導で、今回の作業スタート。

西洋みつばちなので、羽根木の家で飼っていた日本みつばちとはいろいろとようすが違う。
使っている養蜂箱や道具類もちがう。

去年まで2群あったものが、1群から女王蜂がいなくなり、弱ってきたので、合同して1群にまとめ、いまにいたっているという。
養蜂箱が3段になっていたものを、冬越しにそなえて使われていない巣枠を整理し、1箱にまとめる作業をおこなう。

合同はうまくいったらしく、蜂群は小さくなっているものの、女王蜂は元気で、産卵や育児も再開しているとのこと。
ダニや病気対策がうまくいけば、春にはきっとまた増えていって、たくさんの蜜を集めてくれることだろう。

それにしても、みつばちの世話をするのは本当に楽しく、わくわくする。
羽根木みつばち部もあきらめることなく、今年も活動を再開していきたいと強く思った。
そのための方策をしっかりと研究・検討していきたい。

※水城ゆうの現在の活動にかかわるすべてのものについて、テキストコンテンツとして毎日配信するメールマガジンがスタートしています。登録はこちら。

2016年1月7日木曜日

年頭の誓いをどれだけ守れたか

ブログ「水の反映」の去年の一月三日の記事を見てみたら、年頭の抱負が書いてあった。
それが一年後のいま、どうなっているか、厳しく検証してみたい(笑)。

「ピアニストとして今年はさらに即興技法を磨きあげよう」

これはかなり評価していいと思う。
去年、即興演奏については、身体へのアクセス、マインドフルネス、瞑想的即興など、自分でもかなり進んだという手応えをかんじている。
もちろんまだまだ至らない点も多く、さらなる精進をしていきたいと思っているが、音楽瞑想の即興プレーヤーとしてはほかにあまりたくさんいない域にたっしているのではないかと、ちょっと自負している。
今年は音楽瞑想を東京だけでなく、いろいろな土地で、できれば外国もふくめてやってみたい。

「現代朗読の主宰・演出としてコンテンポラリーアートとしての朗読表現をさらに追求しよう」

これはあまり進んだとは実感していない。
私がやってみたい現代朗読の先端的表現についてはかなり具体的なイメージがあるのだが、それを実現するだけのメンバー(おもに人数的な問題)と場所、制作体制などに問題があって、なかなか進まない。
もっとも、年末に「先端表現部」という部会をげろきょ内で立ちあげたばかりなので(部員はまだ数人しかいないが)、今年はなんとか進展させてみたい。

「ライブや公演は厳選してあまり力が分散してしまわないように気をつけよう」

かなり無理があったが、年末に来てようやくイベントを整理して、今年はリソースを効率的に集中できる体制を作れるのではないかと思っている。
わかんないけどね。

「音読療法協会のオーガナイザーとして、法人化をはじめとして、ボイスセラピーの啓蒙普及活動に力をいれよう」

これも思ったように進展しなかったが、音読療法の有効性については強くつよく実感できた年だった。
これをはげみに、法人化と啓蒙普及を本格的に進めていこう。

「小説家として出したい本も何冊かある」

これは何冊か実現した。
さらに今年も着実に本を出していく。

「ネットを活用した個人セッションやテレクラスを充実させて、居場所にとらわれないボイスコーチングの機会を増やしていこう」

これはあまり実現しなかった。
とくにテレクラスについては、もっと力を入れたかったのだが、あまりうまくいかなかった。
テレクラスが有効なテーマはたくさんあるので、今年はネット活用をさらに実現させていきたい。

「韓氏意拳やマインドフルネスの稽古をつうじて、さらに深く自分自身のありようを見ていこう」

これはだいぶ進展したように思う。
もちろんまだまだ足りない部分があるので、さらなる精進が必要だが、その方向性ははっきり見えている。
毎日なにをどうやればよいのか、それがわかっているというのは力強い。

これらにくわえて、今年は共感的コミュニケーションの応用を進めていこうと思っている。
学んだり、伝えたり、ということも大切なのだが、共感的コミュニケーションを使ってなにができるのか、どんなことを実現したいのか、あるいは実現できるのか、現実的に見据えて実行していく時期に来たように思う。

それから、去年の年頭の時点ではまったく思いついていなかったことだが、日本みつばちの養蜂にも挑戦した。
羽根木みつばち部という集まりができ、みなさんといっしょに勉強しながら楽しく進めていったが、残念ながら秋口にいまだに原因不明のまま全滅してしまった。
とても残念でならない。
このリベンジを今年はどうするか、後藤純子さんら専門家の意見をあおぎながら、またみんなでかんがえていくつもりだ。

今年はうまくいくといいなあ。
みつばちも、いろいろなことも。

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2016年1月6日水曜日

メールマガジン「水マガ」毎日配信中

2013年からはじまった「私の毎日配信」シリーズ。
今年は四年め。

勝手にシリーズにしているが、今年は「水城ゆうメールマガジン」(略して「水マガ」)の毎日連続配信を元旦からスタートさせている。
すでに多くの方に(なかば強制的に)読んでいただいている。
だれかに読んでもらえている、ということ自体を目的にするのは危険だが、モチベーションの燃料補給になるので、とてもありがたい。

この「水マガ」には、現在の私がかかわっているすべてのコンテンツについて日々盛りこもうとしていて、これまで工夫してきたライフハック的なものから、マインドフルネスや瞑想、表現についての知見や情報、日々の、あるいは旅先での随想、そして詩や小説などの創作など、雑多といえば雑多だけれど、それなりに読みごたえのあるものを配信しようと思っている(している)。

興味のある方は、無料ですので、気軽に登録してみてください。
配信解除も自由です。
登録はこちら。

2016年1月5日火曜日

ネットとテキスト書きがメインの私の仕事道具

数か月に一回のペースでまわってくるラジオドラマのシナリオ書きの仕事があって、これは私のラジオ番組制作人生のスタート地点となったFM福井からの依頼だ。
「虹いろ輪舞曲(にじいろろんど)」という番組で、週一の放送。
全部私が書いているわけではなくて、月替わりで何人かの書き手が交代するシステム。
今月は私の担当で、今月は五週あるから、五回分をいれることになっている。

これは依頼仕事だが、それ以外にも私はものを書くことが知的生産の中心になっていて、ブログやメールマガジンを毎日たくさん書く。
それらはテーマごとにまとめて、リライトし、電子ブックとして再配信することもある。
これまでに何冊も電子ブックをリリースしてきたが、今年はさらにたくさんの電子ブックを書きたいと思っている。
たくさん書きたいことがたまっている。

もの書き仕事の道具について書いてみる。
メインマシンはここ数年ずっと使いこんでいる MacBook Pro の13インチだ。
私は入力スピードを確保するために特殊な方法を使っているので、キーボードをカスタマイズしている。

昔の話だが、高校の卒業祝いに親から機械式の英文タイプライターを買ってもらい、英文のブラインドタッチ(当時はそういっていた)の練習をかなりおこなった。
その後、最初のコンピューター PC-8801 を買ったのだが、それでカナ入力の練習を入念におこなった。
以来、基本的に入力方法はカナだ。

MacBookはUSキーボードを使っていて、キートップにカナは印字されていないのだが(毎日使うものゆえ美観は大事!)、タッチタイピングなのでとくに不自由はない。
とはいえ、いくつか使いづらいキーがあるので、「Karibiner」というアプリを常駐させ、いくつかのキーをカスタマイズしてある。

このような特殊入力方法なので、どうせテキスト入力がメインなんだからiPadなどにBluetoothキーボードを使って打ちこめばいいじゃん、といわれてもだめなのだ。
もちろん、臨時ではそちらをしばしば使う。
英字入力もできるのでそのときはローマ字変換を使うし、それでもかなり速度は速いと思うが、思考とタイプの間にワンクッションはさまっている感じがどうしてもいまいちなのだ。
カナのじか打ちがいい。

iPadは持ちあるいているけれど、私の場合、楽譜用とお絵描き用、読書用に特化している。

iPhoneでも読書できないことはない。
そしてiPhoneにはいろいろなアプリがはいっているので手放せない。
人前でいちいちMacBookをひらくのははばかられるので、出先ではiPhoneですむことはiPhone単体ですませてしまう。

 しかし、どうしても MacBook Pro は持ち歩きたいのだ!

いつでもどこでも書くために。
調べものの必要があるときは、iPhoneでテザリングしてネットにつなぐこともできる。
ただし、執筆するときはMacBookをネットから切りはなしておく。
電話やメールなど、緊急の連絡がはいったとしても(そんなことはめったにないが)、iPhoneが知らせてくれる。

ただ、問題がひとつあって、

 けっこう重いよね。

新発売の iPad Pro とキーボードを合わせて持っても、MacBook Pro よりははるかに軽い。
リュックサックにすべての荷物をいれて、背中にしょって歩いているのだが、リュックサックの良否は体調にまで影響する。
気にいったものに出会うと、ボロボロになるまで使いこむ。

ちょっとした旅行でもリュックサックですませるのだが、さすがに重くなる。
ときには八キロくらいになることもある。
しかし、仕事道具のほとんどがラップトップとタブレットとスマホに収束されてしまったので、昔にくらべればはるかに楽だし、生産性も確保できている。

リュックにはいっているそのほかのものといえば、わずかなサニタリー類とカード入れ、老眼鏡、予備のバッテリーくらいだ。
MacBookのACアダプターも持ちあるくことがあるが、もっともコンパクトなタイプのものを使うし、実家などりよく行く場所には常備してある。

本も持たない、雑誌も新聞もノートも持たない、筆記用具もなし、財布もなし、カメラもなし、時計も万歩計も双眼鏡もなし。
さっぱりしたものだ。
これでネットがつながっていれば、世界中どこでも仕事できる。
この身軽さを活用して、今年はもうすこし出かけてみようか。

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2016年1月4日月曜日

イキイキさ(活力)を受け取る

だれかがこちらになにかを伝えようとする。
なんらかの態度を取っている。
感情をあらわにしている。

怒り、悲嘆、攻撃、要求、命令、いらだち、無視、拒絶、喜び、穏やかさ、親しみ、ふれあい、思いやり、気づかい、クレーム、決めつけ……

これらの奥にはすべて、相手のイキイキした生命活動がある。
相手はただ、自分の生命活動の必要にせまられ、それを表現しているだけだ。

その相手の表現が、こちらに都合の悪いことだったり、攻撃的だったり、暴力的だったりしたとき、こちらもそれに応じようとする。
こちらにも身を守るとか、平和でいたいという必要がある。
おたがいの表現が不幸にもぶつかりあうとき、そこにはさらに大きな暴力が生まれたり、紛争が生じる。

表現や行動やことばは、自分の必要を満たすための手段であり、手段のレベルで紛争が生まれるのだということをわかっていれば、紛争を生まないコミュニケーションとはニーズのレベルでつながり、理解しあうことだということがわかる。
これがNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)であり、共感的コミュニケーションの根本にある考え方だ。

相手のニーズを受け取る、とは、相手の生命活動そのものに目をむけるということだ。
相手が怒りくるっている、あるいは泣きわめいている、こちらを拒絶している、など、いずれにしても相手の闊達《かったつ》な生命活動の表出にほかならない。
こちらはただそれに目をむけ、受け取る。
生命の活力をよろこんで受けいれる。
相手の命を歓迎する。

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2016年1月3日日曜日

マインドフルになるためにすべてを書きだす

有名なライフハック技のひとつに「GTD」というものがある。
ネット検索してみればわかると思うが、ビジネスマンのあいだなどで大変有効とされ、そのための書籍やセミナーがたくさん出ている、アメリカ由来のスキルだ。
私がかんがえた「マインドフル手帳術」もそれに似ている部分があるが、内容は共感的コミュニケーションを使っているという点でかなり異なる。

2015年に何度か「マインドフル手帳術」のワークショップを開催して、大変ご好評をいただいた。
またやってほしいという要望をたくさんいただいているのだが、つぎはこれを本にまとめた上で、セミナーとして開催したいという希望があった。
なかなか執筆する時間を取れなくてずるずると年が明けてしまったのだが、メルマガで連載すればいいねと思っている。

ちょっとだけ説明しておくと、私たちは日常生活のなかで、あるいは仕事中に、さまざまな「気がかり」を抱えていて、それがたえず念頭に浮かんできてしまうので、いまやっていることに集中することができない。
つまり、自分の本来持っている能力、パフォーマンスをいちじるしく低下させたままやりくりしている。
できるだけもやもやのない、「いまここ」に集中できる状態に自分をもっていきたい。
そのための方法のひとつが「マインドフル手帳術」だ。

マインドフルというのは、いまここの自分自身のありようや自分が受け取っていることに(判断や思考抜きに)気づきつづけているイキイキとした状態のことをいうのだが、そのためにはできるだけ「気がかり」にとらわれないことが大事だ。
なにかやっていても、
「あ、例の件はどうなっていたっけ」
「今日は帰りがけに頼まれた買い物を忘れないようにしなきゃ」
といった、いわば「雑念」が浮かぶたびに、マインドフルはそこなわれてしまう。

そのような雑念のもとになる「気がかり」を、すべて書きだしてしまおう、というのがマインドフル手帳術で最初にやることだ。
そして書きだしたものをどのように処理していくか、そのプロセスにおいて共感的コミュニケーションを用いるのがミソとなっている。

私はこれでずいぶん助かっている。
毎日の行動が明確になり、これを書いているいまも、このことだけに集中できている自分がいる。
気がかりはたくさんあるのだが、それらはすべて忘れないように書きだされていて、なおかつ処理する方法も日時も場所もすでに決まっている。

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2016年1月2日土曜日

親兄弟との関係におけるファーストエイド

お正月で帰省している人も多いことだろう。
私もそうだが、両親や兄弟、親戚とつどってすごしている人がたくさんいると思う。

ひさしぶりの再会を祝って楽しくすごしているのはいいが、そのうち親から、
「おまえはまだそんなことをやっているのか」
「あなたはこうしたほうがいいよ」
「私たちもいつまでも元気じゃないんだからね、あんたたちがしっかりしてくれなきゃ困る」
といったような話にだんだんなっていって、ちょっとうんざりしてしまうという人もいるかもしれない。

親兄弟とのこのようなぎくしゃくした関係は、共感的コミュニケーションをもちいて自分自身と相手に共感し、つながりの質を変えていくことで、もう一度深くつながりなおすことを試みることができるのだが、いまはそれほど辛抱つよくない、いまはのんびりしていたい、という場合、なにか緊急措置としていい手はないだろうか、とかんがえてみた。

こちらにはせっかくの正月、実家でのんびりと気楽に、ゆったりとすごしたいというニーズがある。
同時に親兄弟との関係も落ちついていないと安心できない。
そこで、あらかじめ想定できる親兄弟のニーズを推測しておくわけだ。

たとえば、親にはこちらが成人し、立派な社会人として生活していたとしても、あくまで「子ども」としてのイメージが手放せず、「自分が助けてやらないとまだまだちゃんとできない」という潜在意識があったりする。
「そろそろ子どものひとりも作って家でも買ったらどうだ。おれがおまえの年齢のときには、おまえはもう小学校に行ってたし、この家だって建てていたぞ。一人前の社会人としてそれが当然だろう」
「まだ結婚しないのか」
「子どものしつけもろくにできないのか」
など、さまざまなことをいわれたり、押しつけられたりする。
そのニーズはなんだろう、ということをあらかじめ推測しておく。

「お父さんは私に子どもができて、家も買って、安定した家庭を築くことで安心できるかな?」
「お兄ちゃんは私が結婚して、家庭を持つことで安心できるのかな?」
「私たちの子どもが私たちのいうことをよく聞いて、人に迷惑をかけないような人に育っていくことを大切にしているのかな?」

多くの場合、親兄弟のあなたにたいする不安や不満は、自分の「安心」がそこなわれているという思いこみから生まれている。
そこをただ推測し、共感的に聞いてみる。
共感的な質問ひとことでいい。
ファーストエイドとして試みたとき、どんなことが起こるだろうか。

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2016年1月1日金曜日

2016年は統合の年(にしたい)

最近の私には「自分の命を使いきりたい」というニーズが強まっている。
人からよく「水城さんの活動はどれがメインなんですか?」と聞かれることが多いが、どれも自分のなかではつながっていることだ。
音楽も朗読も小説も、音読療法もマインドフルネスも瞑想も、韓氏意拳も共感的コミュニケーションも、すべて私のなかではひとつのこととしてつながっている。
しかし、外から見るとそうは見えないらしく、それぞれバラバラに、気まぐれに手を出しているように見えるようだ。

ところで、最近の私は、自分でも大変確固たる感じがしている。
なにが「確固」なのかというと、体調、体力、感受性、活力、精神的安定、表現、コミュニケーションなどについて、不安をおぼえることがなくなってきたということだ。
これは長年かけてつちかってきたものであって、一朝一夕で獲得したものではない。
とくにこの十年くらい、自分でもめざましい気づきと学びがあったと感じている。

私の気づきと学びはどこから来たかというと、マインドフルネス、瞑想、現代思想、表現活動、NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をベースとした共感的コミュニケーション、韓氏意拳といったものからだ。
今年はこれらを統合した形でみなさんにお伝えすることができないかとかんがえている。

長年つちかってきた自分のなかにあるものを、このまま墓場に持っていくのはもったいなさすぎる。
全部だれかに伝えきってから、おさらばしたい。
これらのノウハウを身につけることで、自分の人生が楽になり、イキイキと輝きはじめ、本来その人が持っている能力を全開にできる人が、きっとたくさんいるにちがいない。

これまで朗読、音読、瞑想、共感的コミュニケーションなど、それぞれ独立した形でゼミや講座、ワークショップを開催してきたが、今年はこれらを統合したワークショップができないかと企画している。
それは、私の能力と知見を全開にした、すべてを伝えきるためのワークショップだ。
そのことをかんがえると、年頭からたいへんワクワクする。
みなさんにも興味を持ってもらえるとうれしい。

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