2019年11月10日日曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(5))

■せせこましい年功序列がいやになる

当時の中学校——いまから50年近く前のことだ——というのは、とくに田舎はそうだったと思うのだが、年功序列式の先輩・後輩関係がやかましかった。
生まれたのがほんの1年しか違わないのに——人によっては数日しか違わないということもある——学年が1年違うだけで先輩・後輩とうるさく、形式的な礼儀を重んじることを強要された。
それが私には嫌でいやでしかたがなかった。

ブラスバンド部も例外ではなかった。
ひとりでは作れない大きなサウンドを、自分もその一部になってみんなで作るのは楽しかったが、音楽とは関係のないところで儀礼的なことをうるさく強要され、また教師からも強圧的な態度で接せられるのが、本当に不快だった。

先にも書いたように、私はそのころ、学校活動とはべつに読書に夢中になっていた。
とくに同級生や先輩など、学校というせまい世界での人づきあいの必要性を、まったく感じていなかった。
友だちは何人かいたけれど、べつにいなくても不自由はないと思っていた。

ブラスバンド部での活動がすぐに嫌になってしまった。
音楽だって、ピアノレッスンはやめたけれど、家にはピアノがあって——学校にもあった——好きな曲を好きなように弾くことができた。
強要されて不自由なパートを四角く演奏する活動をつづける必要性を、まったく感じなくなってしまった。

学年が変わるのを待たずに、私は退部届けを部長に出した。
つよく慰留されたが、私の気持ちはもうすっかりブラスバンドから離れてしまっていた。

■音楽の先生と英語の先生にかわいがられた

当時の私は反抗心がかなり芽生えていたようで、先輩・後輩関係だけでなく、教師にたいしても一種の「権力者」だという認識があって、とくに理不尽に強権的だと感じる教師にはかなり反抗的な態度をとっていたようだ。
最近になって当時の学校関係者から聞いたことだが、いまだに私のことを忌み嫌っている教師や同級生がいるらしい。

それはそうかもしれない、と思う。
読書好きのおかげだったといまでは思われるが、当時の私はとくに勉強などしなくてもかなりいい成績だった。
授業中は反抗的な態度を取ることがあり、試験勉強もろくにしないのに、成績だけはいいというのは、秩序を重んじる教師にとってはかなり扱いづらい存在だったろうと思う。

しかし、私のことをおもしろがっている教師もいた。
たとえば、音楽の先生もそのひとりだった。
とても優しい先生だったので、反抗的な私にたいしても強権的な態度を取れなかっただけかもしれないが、ピアノが弾ける私を合唱部のピアノ伴奏をやってみないかと誘ってくれた。

合唱部は全員が女性徒で、べつに女性合唱部というわけではなかったが、「男が女といっしょに合唱なんて」という変な風潮が当時の田舎町にはあって、男子生徒はひとりも参加していなかった。
そこに私ひとり、ただしピアノ伴奏者として参加することになった。

これはなかなか楽しかった。
おなじ集団表現でも、私はひとり、別枠といっていいポジションにいて、そのポジションが居心地よかったのだ。
私の伴奏も部員や指導の先生に好評で、歓迎されたのもよかった。
そしてなにより、変な先輩・後輩という序列があまりなかった。

その先生は何年か前に、自宅で転んで怪我をして入院したことがきっかけで認知症をわずらい、急に弱って亡くなってしまった。

音楽の先生以外に、私を1年生のときだけ受け持ってくれた英語の先生がいた。
とても気概があり、教師でありながら平等や反権力の意識が強く、過激な言動にびっくりさせられることもあったし、私も厳しくしかられることが多かった。
しかし、彼女の論理は私には納得できるもので、しかられたとしても理不尽を感じることはなかった。

その先生とはいまだに付き合いがつづいていて、もうかなり高齢だけれどいまだに市民運動に積極的に参加されていたりして、たまに私がたずねていくと歓待してくれて話がはずむ。