2017年1月29日日曜日

テキスト表現の必要性と可能性

文章を書く、文章で自分を伝える/表現する、文章でコミュニケートする、といったことの必要性や必然性が、インターネットの普及によって劇的に変化しました。
かつては文章を書くというと、仕事とか手紙とか、作文とか報告書とか、そのようなある一定の「型」や「場面」における必要性があったり、その方法があったりしたんですが、ネット社会ではそのような「型」がどんどん崩れつつあります。

いつ、どんな場面で、どのような方法でテキストを書かなければならないか、まったく予測つかない世界になっています。
その予測不能は、逆にいえばテキスト表現の無限の自由さと可能性を示唆しています。
つまり、どんな人もことばを使って自分をさまざまな手段で伝えることができるようになったともいえます。

たとえば、詩や小説、エッセイといった、かつてはある特殊な人々や業界に囲いこまれていた手段も、いまや万人のものとなっています。
どんな人も好きなように書いて、好きなだけ全世界に向かって発信できるのです。
なんだったらそれを紙の書籍をふくむコンテンツにして、収益を得ることも可能です。

そんな世界でクローズアップされてくるのは、いかに文章がうまいか、ではなく、いかにユニークでオリジナリティのある表現力があるか、ということです。
そしてそれはテクニックをろうしたり、たくらみをでっちあげることではなく、自分に嘘をつくことなく正直に誠実に自分のことばを使って表現することが求められている、ということです。

テキストだけでなく、世界は言語でおおわれていて、そこには国家主義、資本主義、効率主義という成長プログラムにもとづいた対立と競争のためのことばがあふれています。
政治や経済の世界を見るまでもなく、人々は対立と競争のことばをたがいにぶつけあって、疲れきっています。
そこで疲れていない、消耗していない人は、繊細さとはかけ離れた鈍感さを武器にしていたりします。

しかし、いまや私たちは、行き詰まりがわかりきっているそちらの世界に行きたいのではなく、対立と競争の代わりに共感と対話の世界に行きたいのです。
そのためのことばを獲得する必要があるのです。
それにはまず、自分自身にも共感し、自分自身との対話からスタートしなければなりません。
いま、従来の方法とはまったくちがったテキスト表現の可能性をさぐることは、自分自身との共感と対話の方法とそのことばを探すということでもあります。

自分自身につながる、自己共感するための方法はさまざまにあります。
私もいろいろ試行してきました。
マインドフルネスをベースにした瞑想や呼吸法、共感的コミュニケーション、ヨガやアレクサンダー・テクニークなどのボディワーク、そしてさまざまな武術、とりわけいま取り組んでいる韓氏意拳。
いずれもたくさんの気づきがあり、有効性がありました。
そのひとつとして、私の専門分野ともいえる「ことば」を使ったテキスト表現による練習も、大変有効ではないかと気づいたのです。

収益を得るための商業行為としてのテキストライティングではなく、自分を伝え表現するためのテキストライティング。
自分につながり、相手にもつながり、共感し、対話するためのテキストライティング。
これが可能であり、有効だろうと思っています。

単純に昔から、多くの人が日記をつけていたでしょう。
多くの人がだれに読まれるともわからない文章を書いていたでしょう。
いまは書けばそれは、その気がありさえすれば、かならずだれかに読まれることは可能になっているのです。
日常のなかに「書く」という自己共感の習慣を置き、自分自身とつながる。
そしてそれを世界に向けて放つことで対話を作る。
その対話は対立的ではなく共感的であり、持続可能なつながりをめざす。

なにかを書いて発信する、というシンプルな行為が広まりつながっていったとき、ひょっとしてなにか社会変革につながるようなムーブメントが起きる可能性もあるんじゃないか、と私は思っています。

自分とつながるテキストライティングWS(3.11)
いまの時代こそ表現の根本である「ことば」が重要であり、私たちは自分自身を語ることばを獲得する必要があります。それを模索するワークショップを3月11日(土)に国立で6時間にわたって、じっくりとおこないます。