2015年9月28日月曜日

外部評価・自己評価と学び・成長

人が「学びたい」というモチベーションを発動させ、成長のきっかけになるものとして、2種類あると私はかんがえている。
ひとつはおなじみの方法で、これは私も長らく(人生のほとんどの時間をそれに費やして)やってきた。
自分がやりたいことでまだできないことがあると、そのお手本を探しもとめる。
見つかったら、それをお手本に、自分もできるようになるまでただひとすら、苦しい反復練習に取りくむ。

私の場合は、たとえばピアノ演奏だった。
子どものころはクラシック音楽を、大人になってからはジャズを、私は独学で身につけた。
すぐれた教師がいればもちろんその教えを請い、いわれたことを忠実に守ってひたからそのとおりに練習する。
なにしろ、その方法で先生はそのように弾けるようになったのだから、自分もその方法を実践すれば先生とおなじように弾けるようになるはずだ。

私にはとくに教師がいなかったので(田舎で育ったということもある)、レコードやラジオを聴いてそれをお手本にした。
あるいは有名な演奏のコピー譜を弾いてみたりした。

もちろんそれでどんどん上達するし、上手に弾けるようになる。
しかし問題がひとつあって、この方法ではお手本や先生を超えることはできない、ということだ。
逆にお手本に近づけば近づくほど、オリジナリティは失われていく。
お手本を練習しながら、どうじにオリジナリティを獲得していける表現者がいたとしたら、それは生まれつきの天才であろう。
そもそも彼にはお手本など必要ないにちがいない。
オリジナリティをもとめられる表現の世界では、この方法はかなり致命的だ。
その悪い例を、音楽の世界を見回してみると、いくらでも見つけることができる。

もうひとつの方法は、自分の外側にお手本を求めない、というものだ。
どうするのか。

人間は自分の可能性をまったくもって使いきれていない、ということに、3年前からはじめた韓氏意拳という中国拳法を練習する過程で私は気づいた。
そもそも韓氏意拳では、だれか達人の型や動きをなぞって反復練習するということはしない。
とても深く、緻密に自分自身の身体と向かいあい、その声を聞く。
一回一回、そのつどあたらしく、聞く。
とくに站椿《たんとう》という稽古では、自分の身体がどうなっているのか、どのような可能性があるのか、質の高い全体性を持った運動がどこから生じるのか、といったことを、そのつど注意深く見ていく。
その過程で多くの人が(すくなくと私は)、自分が自分の身体をまったく使いきれていない、能力の何割かも使えていないことに気づくのだ。

ピアノ演奏のように楽器などの道具を使う表現については、話はそう単純ではないかもしれないが、拳法や朗読、ダンスといった、自分の身体を直接使う運動や表現では、自分の能力がどこまで使えているのか、あるいはどのくらい使えていないのか、稽古のやりかたによってはかなりダイレクトに実感できる。
つまり、自分の至らなさが稽古によって浮き彫りになってくるのだ。
もともとすでに持っているすばらしい能力を、まったくもって使いきれていない、ということがわかってくる。

その「至らなさ」はだれかと比較してのものではない。
外部基準に照らしあわせてのものでもない。
あくまで自分基準の至らなさだ。
それに気づいたとき、学びが発動し、自分の伸びしろがくっきりと見えてくる。

現代朗読でもこのような稽古をおこなっている。
お手本がない、外側に基準がない、あくまでも自分自身と向かいあう稽古だ。
当然、ひとりひとり内容が異なる稽古となるし、あらわれてくるものもまったくちがったものになるだろう。
結果的にオリジナリティの高い表現をひとりひとりがめざすこととなる。
このようにして、現代朗読の表現者たちには多様性が生まれている。

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