現代朗読ではない朗読教室に通っていた参加者が、これまで朗読テキストにはびっしりと真っ黒になるくらい書きこみをしていたけれど、現代朗読を学ぶようになってテキストは真っ白のままになっているのがおもしろい、とおっしゃる。
テキストにびっしり書きこみをするのは「不安」を解消するためであって、不安を解消するために私たちはものごとを「固定化」してとらえようとする。
しかし実際にはものごとは流動的であって、偶然性に満ちている。
そもそも自分たちの存在そのものもたえず変化しつづけるものであって、朗読の練習をするにしても、
「本番でこのように読もう」
という設計図を緻密に作り、それをなぞる練習はできるけれど、それでは肝心の本番のとき「自分のいきいきとして生命現象を表現する」という行為が死んでしまうことになる。
目的が「伝達」ならばそれも有効かもしれないが、「表現」が目的ならばものごとや自分自身を固定化してとらえる癖は丁寧に取りはずしておいたほうがいい。
たとえ目的が「伝達」であったとしても、いきいきとその場での関係性を大切にしながら行いたいなら、変化しつづける自分をつかまえておくことは必須だ。
ものごとが流動的であり、自分が変化しつづける現象であるとしたら、ではどのような練習が有効なのか。
そのことについてあらためてゼミで確認し、みんなでエチュードをやってみる。
そんな話を前置きでしたせいか、今日は一段と注意深い稽古になった。
午後、元ゼミ生のシマムラがわざわざ私の見舞いをかねて遊びに来てくれる。
差し入れをたくさんもらった。
彼女がはじめてゼミに来たのはもう10年くらい前で、そのときまだ大学生だったのだ。
いまは就職も結婚もしていて、幸せに暮らしているとのこと。
人を喜ばすのが好きで、働くのが好きで、身体を動かすのが好きで、そんな若者だったけれど(いまも若いけど)、いまも変わらずそんな感じでうれしかったな。
シルクニットのヘアバンドがちょうどよかったので、あげることにした。
すこし休んで、夜は韓氏意拳の撃研こと技撃研究会に昭島スポーツセンターまで行く。
今回は岡山の野上教練も参加してくれたり、参加者も6人だったりと、活発な練習内容となった。
私もほぼついていくことができた。