なにごとかを突き詰めて探求していくと、しだいに理解者の少ない世界へとはいっていく。
たとえば、骨董品の世界はどうだろう。私にはどう見ても、ただの古ぼけた欠けた茶碗にしか見えないものが、何百万円という価格で売買されていたりする。私にはわからないが、骨董品を探求しその価値がわかる人にとっては、貴重なものらしい。
私にわかるのはせいぜい、日用品の世界。これは使いやすい茶碗だね、とか、模様がいいね、とか、軽くてしかも割れにくいね、といったレベル。
表現の世界でもおなじようなことがいえることがある。たとえば音楽の世界では、だれもがわかる歌謡曲やポップス、童謡や唱歌がある。ある曲が演奏されれば、それがだれがどのように演奏されていたとしても、聴き手はまず「知っている曲」として受け取る。たくさんの聴衆に受け入れられる。
その音楽も突き詰められていくと、難しい構成、聴いたこともないサウンド、よほどの聴き手でなければわからないスリリングなコミュニケーションや偶然性を求める即興演奏など、理解者はピラミッド構造の頂点にちかづいていくように少なくなる。
表現をしていると――いや、なにごとをやっていても、自分はどの世界をめざすのか、という選択をたえず迫られる。多くの人に受け入れられる、わかりやすくて平易で表面的な世界をめざすのか、あるいは、だれもが到達しえないような孤高の世界をめざすのか。
それは両立しえないものなのか。
このジレンマに直面している表現者を見るとき、私はその苦しさと正直さに共感する。