2018年5月8日火曜日

責任ということば

「ほんとうはニーズにつながって喜びをもってやりたいと思っているのに、どうしても責任ということばが出てきてしまうことがあります。どうしたらいいんでしょう」
と聞かれることがある。
たとえば、子どもが学校の宿題を忘れたり、忘れ物をすることが多いとする。
担任から、
「宿題をさせたり、忘れ物をしないように注意するのは、親の責任ですよ」
といわれたりする。
いわれなくても自分でそのように思ってしまったりする。

「責任」ということばは、それ自体、なんらかのニーズを満たそうとしているときに出てくるのだが、多くは社会的な制約であったり、自分のなかの「教育者/指導者」が持ちだしてくることばだ。
なにかにたいして「責任」をはたすことをかんがえているとき、そこには「……せねばならない」「……してはならない」という一種の強制がはたらいている。
外部からにせよ自分の内側からにせよ、その強制がはたらくのはなぜだろうか。

そこにはなんらかのニーズがあるからだ。

責任をはたしたいと自分が思っていて、なんらかの強制の感じが生まれているとき、その奥にあるのは、なにかを守りたいとか、人から責められたくないとか、もっと役に立ちたいという思いだったりする。

子どもに学校の宿題をさせることが親の責務だと思っているとき、その奥にあるあなたのニーズはなんだろうか。
子どもの安全だったり成長だったり、それをあなたが守ってあげたい、子どもにそれを確保してあげることで自分が安心したりするかもしれない。
あるいは、子どものすこやかな成長に寄与したい、そのことを親として楽しみたいのかもしれない。

責任ということばを、そのような自分のニーズという身体感覚に置きかえることで、あなたはとたんにいきいきとしてくるだろう。
自分のニーズにつながっていきいきとしている親がそこにいるとき、子どもはどれほど安心でのびのびできることだろう。

結局のところ、責任などという社会的なことばの制約を受けているあなたのふるまいは、だれにもなんのよいことももたらすことはない。
そのことばが聞こえたら、さらにその奥にあるいきいきとしたいのちの声に耳をかたむけ、それにしたがえるかどうかが、あなたとあなたのまわりの人たちのよき人生をもたらすのではないだろうか。


5月13日:朗読と共感のコラボWS@名古屋天白アロマファン
朗読と共感的コミュニケーションを両方体験し、実践を深めることができるワークショップを、午前と午後にそれぞれ、名古屋市天白区の古民家スペース〈アロマファン〉で開催します。