たとえば、私が専門としていることのひとつの朗読の世界では、
「それでは自分が出すぎ。もっと作品の世界を大切にするように」
といったアドバイスを受けることがあります(私ではありませんよ)。
「作品や作者の思いに寄りそって、自分はあくまで控えめに」
という態度がよしとされる世界があり、またそのことに美徳を感じる人たちがたくさんいます。
もちろんそれはそれでいいと思います。
そのようなアプローチもあって当然のことですし、そちらに価値を感じておられる方々がいることも尊重したいと思います。
それはそれとして、私は朗読という表現行為を「自分をあらわす」手段としてもちいるアプローチを研究・実践してきました。
ピアニストが「月の光」(ドビュッシー)を弾く目的は、それがどのようにすばらしい曲なのか聴き手に伝えることではなく(そんなことはとっくにみんな知っています)、自分という弾き手はその曲をどのように演奏する人間なのか、ひいては自分はどういう人間なのかを聴き手に提示すること、でしょう。
絵描きがひまわりの絵を描くのは、ひまわりがどんな花なのかを人に知らせるためではなく、自分はどのようにひまわりを描く絵描きなのかを知ってもらうためですね。
表現行為は、自分自身という唯一無二のユニークで貴重な存在である生命現象を、その行為をつうじて外側に提示すること、と私は定義しています。
朗読においても、朗読者は朗読という表現行為をつうじて、自分自身の存在を提示するのです。
そのときにもちいるのはテキストであり、それはたまたまだれかが書いたものですが、その内容は読みあげればいやがおうでも伝わります。
あるいは内容を知るだけなら、聴き手はそれを自分で読めばいいのです。
それをわざわざ朗読者が音声化して伝えるということの意味を、よくかみしめてみたいと思います。
ところで、ひとつやっかいな問題があります。
朗読が自分を表現する行為ととらえたとして、では自分とはなんだろう、という問題です。
自分とはいったいなにか。
どこからどこまでが自分なのか。
この目の前のテキストをこのように読みたいと思っている自分は自分本体なのか。
ひょっとしてこのように読みたい、という思いこみはどこか自分の外からやってきて刷りこまれているものなのではないか。
本質的でまったくオリジナルな自分の本体と、社会生活をいとなんでいく過程でさまざまに刷りこまれ与えられてきた、いわば「我執」とを、どうやって見極め、分けることができるのか。
たいへんやっかいで、難しい問題ですが、ここへの挑戦がじつはものすごくおもしろいのです。
自分自身を知るための挑戦といっていいでしょう。
もちろん、世の中にはそんなめんどうなことからは遠ざかっていたい、毎日気楽に生活できればそれでいいのだ、という人はたくさんいますし、それはそれでいいと思いますが、なかには私のように自分自身を深く知りたい、その生命活動を表現してみたい、と思っている人もいるのではないかと思います。
もしそういう人がいたら、ぜひ会って、話したり、挑戦したり、試したりしてみましょう。
◎10月開催:朗読生活のススメ「朗読本の世界」編全3回(10.8/15/22)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、3回完結の講座です。2016年10月は「朗読本の世界」というテーマで8日/15日/22日の3回、それぞれ土曜日の午後6時半から、世田谷区内某所にて開催します。