できればトラブルは回避したいし、ストレスフルなことはやりたくないし、困難な事態にもなるべく直面したくない。
こう思うのは当然だろうし、私もそのように思ってこれまですごしてきた。
しかし、生きているとこういうことは避けがたく、トラブルやめんどうなことに直面するのはしょっちゅうだ。
そのつど、いやいや対処したり、避けたり逃げられるときにはそうしてきた。
先日、韓氏意拳の稽古のとき、指導者から、
「韓氏意拳とはなんですか?」
という難問をつきつけられた。
この手の質問ほどやっかいなものはない。
なぜなら、ひとことで答えられるものではないし、どう答えてもそれは正解ではなかったりする(あるいはすべて正解だったりする)。
私はピアニストで小説家だが、
「あなたにとって音楽とはなんですか?」
「あなたにとって小説とはなんですか?」
と問われて、正面から答えるのはむずかしい。
ことばにするとしたら、それは「うまいこという」方向に行ってしまいそうな気がする。
「私にとって音楽とは、生きることそのものです」
それでは答えにならない。
難問を突きつけられる、あるいは、どう対処していいかわからないようなトラブルに直面したとき、とても困ってしまう。
しかし、先日の韓氏意拳の稽古のとき、私のなかでおもしろいことが起こった。
難問を矢継ぎ早に突きつけられて、追いつめられていくうち、自分がむずかしい問題に直面していることを楽しんでいることに気がついたのだ。
それは、解けるかどうかまったく自信がないむずかしい数学の問題に取りかかろうとしているときみたいな感じだった。
なにかむずかしい問題を解こうとしているとき、あるいは将棋などで勝てるかどうかわからない相手に立ちむかおうとしているとき、そこには危機感と同時に、なにかわくわくした感じがある。
それは自分の能力・生命力をこれから最大限に発揮するぞ、という危機と背中合わせの活力のようなものだ。
そのとき、危機感のほうにばかり目がいってしまうと、怖くて逃げ出したくなってしまう。
しかし、自分の活力に注目できたとき、直面している難問は自分の力を試すための山に見える。
山が見えたら、一歩さがって俯瞰してみる。
困難を突っぱねるのではなく、むしろそれを歓迎するようにして両手を広げるのだ。
この方法はじつは韓氏意拳の稽古ではふつうにやっていることで、なにか自分のなかにとどこおりがあったり、動けない感じがあったときは、それを無理にどうにかしようとするのではなく、全体性のなかからそこに注目し、なにが起こるかただ見るのだ。
すると、自分に未知のことが起こる。
なかなかむずかしいことで、だからこそ普段の心がけや稽古が必要なのだが、困難を避けたり逃げたりするのではなく、むしろ迎え入れるくらいの気持ちで活力を持って対処したい。
そのためには、いつでも自分のなかにある活力を呼びおこせるようにしておきたいのだが、この部分はまさに共感的コミュニケーションにおける自己共感なのだ。
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