日本に二か月以上滞在して、旋風を巻き起こして去っていったホルヘ・ルビオが冗談まじりでいっていたことだ。
人間のことを「ホモ・サピエンス」というが、「ホモ・ゴシップ」といったほうがいい。
つまり、人間は他人にたいする好奇心のかたまりで、ゴシップ好きなことといったらそれだけで巨大マーケットが成立していることからもわかる。
私もそれには同感で、しかし私たちは幼いころからその好奇心をむやみに人に向けないように教育されてきた。
それは社会性であり、静かで安全で大人しいコミュニティを成立させるためにはある程度必要なことだ。
逆にいえば、そのように教育されなければ私たちの好奇心は野放図に肥大し、やたらと他人のことを知りたがるうざったい存在になってしまうという面はたしかにある。
共感においてはこの好奇心こそ原動力となる。
子どものころから人間が自然に、本能的に持っている他者にたいする好奇心を純粋に発動できるかどうかで、その共感が純粋で、つながりを作ることに有効性があるかどうかが決まる。
このところ参加者が多めの勉強会やワークショップがつづいた。
そういう場では、ファシリテートする私がだれかに共感を向け、共感的につながる過程を、参加者がじっと観察することになる。
私は自分がだれかに共感している姿を見たことがないので(あたり前だ)、あとでその感想を聞くのはうれしい。
先日、参加者のひとりから、初めて実際にファシリテーターがだれかに深く共感する過程を見せてもらってとても参考になったし、希望を感じた、といってもらえた。
なるほど、ワークショップでは共感の「練習」はするけれど、実際に本気で共感的にだれかとつながる過程を見ることは少ないかもしれない。
また先日のオンライン共感カフェでも、ひとりひとりと向きあうことができたので、そこでも実践的な共感の過程を見ていただくことができた。
私の勉強会では、ワークもするけれど、参加者がなんらかの気がかりを持っているとき、できるかぎりその人に実際の共感を向け、その過程をほかの参加者とも共有することを心がけている。
そのために、NVCのワークショップでよく使われるエンパシーカードや人形などのツールを、私はほとんど使わない。
私が留意しているのは、自分が純粋なエネルギーをもって相手に向かえるかどうか、ということだ。
このときに武術の稽古や体験が役に立つ。
相手を倒すための「武」と、相手を生かすための「共感」の世界が、ある部分でつながっていることに、興味深さをおぼえている。
人は純粋な好奇心を持っている。
その好奇心はいわば飢えた猛獣のようなものだ。
猛獣はつねに獲物をねらっている。
獲物というのは、相手のニーズのことだ。
相手のニーズをねらいすまし、すきあらば一瞬にしてつかまえて味わおうとしている。
これが最近の私の共感のイメージだ。
いったん共感の体勢にはいったら、私は獲物をねらう猛獣モードになる。
暴力的なまでに相手をねらいすまし、一瞬にしてニーズをつかまえてつながる。
まどろっこしいプロセスも長い時間も必要ない。
すべてにおいてこの方法がうまくいくとは思っていない。
しかし、うまくいくことが多いと感じている。
この方法は自分のなかではすでに熟成の段階にはいっていて、私に話を聞かせてくれる多くの人が、安心して獲物になってくれるようになってきた。
つまり、ニーズハンターとしての私に信頼を感じてくれているようなのだ。
私はこれからもますますニーズハンターとしての暴力性をみがきあげていきたい。
たぶん一度も人から共感されたことのないような人にも襲いかかって、あっという間に味わってしまおうと舌なめずりをしている。
人間のことを「ホモ・サピエンス」というが、「ホモ・ゴシップ」といったほうがいい。
つまり、人間は他人にたいする好奇心のかたまりで、ゴシップ好きなことといったらそれだけで巨大マーケットが成立していることからもわかる。
私もそれには同感で、しかし私たちは幼いころからその好奇心をむやみに人に向けないように教育されてきた。
それは社会性であり、静かで安全で大人しいコミュニティを成立させるためにはある程度必要なことだ。
逆にいえば、そのように教育されなければ私たちの好奇心は野放図に肥大し、やたらと他人のことを知りたがるうざったい存在になってしまうという面はたしかにある。
共感においてはこの好奇心こそ原動力となる。
子どものころから人間が自然に、本能的に持っている他者にたいする好奇心を純粋に発動できるかどうかで、その共感が純粋で、つながりを作ることに有効性があるかどうかが決まる。
このところ参加者が多めの勉強会やワークショップがつづいた。
そういう場では、ファシリテートする私がだれかに共感を向け、共感的につながる過程を、参加者がじっと観察することになる。
私は自分がだれかに共感している姿を見たことがないので(あたり前だ)、あとでその感想を聞くのはうれしい。
先日、参加者のひとりから、初めて実際にファシリテーターがだれかに深く共感する過程を見せてもらってとても参考になったし、希望を感じた、といってもらえた。
なるほど、ワークショップでは共感の「練習」はするけれど、実際に本気で共感的にだれかとつながる過程を見ることは少ないかもしれない。
また先日のオンライン共感カフェでも、ひとりひとりと向きあうことができたので、そこでも実践的な共感の過程を見ていただくことができた。
私の勉強会では、ワークもするけれど、参加者がなんらかの気がかりを持っているとき、できるかぎりその人に実際の共感を向け、その過程をほかの参加者とも共有することを心がけている。
そのために、NVCのワークショップでよく使われるエンパシーカードや人形などのツールを、私はほとんど使わない。
私が留意しているのは、自分が純粋なエネルギーをもって相手に向かえるかどうか、ということだ。
このときに武術の稽古や体験が役に立つ。
相手を倒すための「武」と、相手を生かすための「共感」の世界が、ある部分でつながっていることに、興味深さをおぼえている。
人は純粋な好奇心を持っている。
その好奇心はいわば飢えた猛獣のようなものだ。
猛獣はつねに獲物をねらっている。
獲物というのは、相手のニーズのことだ。
相手のニーズをねらいすまし、すきあらば一瞬にしてつかまえて味わおうとしている。
これが最近の私の共感のイメージだ。
いったん共感の体勢にはいったら、私は獲物をねらう猛獣モードになる。
暴力的なまでに相手をねらいすまし、一瞬にしてニーズをつかまえてつながる。
まどろっこしいプロセスも長い時間も必要ない。
すべてにおいてこの方法がうまくいくとは思っていない。
しかし、うまくいくことが多いと感じている。
この方法は自分のなかではすでに熟成の段階にはいっていて、私に話を聞かせてくれる多くの人が、安心して獲物になってくれるようになってきた。
つまり、ニーズハンターとしての私に信頼を感じてくれているようなのだ。
私はこれからもますますニーズハンターとしての暴力性をみがきあげていきたい。
たぶん一度も人から共感されたことのないような人にも襲いかかって、あっという間に味わってしまおうと舌なめずりをしている。