その体験が大変印象深かったので、書きのこしておく。
このところ、韓氏意拳では、光岡先生が提唱する「歴史的ジェネレーションギャップ」という、いわゆる時代や世代によって変化してきた身体観の変遷を見ながら、現代人である我々にどのような稽古ができるかを問うていく流れがある。
とても興味深くて、光岡先生にかぎらず講習会では多くの発見があり、スリリングだ。
今回も身体観、身体の捉え方、身体を通して見ている世界観の相違などの話からはいって、100年以上前の人たちがどのような身体観を持って武術に取りくんでいたのかの考察からはじまった。
身体観の相違といっても、なかなか実感しにくいものがあるし、じゃあ具体的になにがどう違うんだ、結局我々はどうすりゃいいんだ、という曖昧模糊としたつかみどころのない稽古におちいってしまいがちなのだが、今回は非常にすっきりと腑に落ちる経験をさせてもらった。
かつて武術家が書きのこした指南書のようなものを読んでも、身体観が異なっていたり、おなじ体験を共有していなかったりすると、いったいなにをいっているのか、あるいは「こうだろうな」と想像することがまったく違っているということが起こる。
そのために、その時代の身体観までさかのぼって推理するという方法が必要になってくる。
その時代の身体観を経験するとはどういうことなのか。
それを今回、具体的に経験させてもらったのだ。
細い棒を一本使う。
それを、筆を持つように、といっても和式の持ち方ではなく、中国式の持ち方で持ち、垂直を見る。
身体のあちこちにそれを写し、垂直を見ていく。
手首をすこし持ちあげるようにすると、自然に下半身が反応して、身体がやや沈んでいく。
現象としては、膝がすこし曲がる。
その姿勢で自分の身体を丁寧に、ゆっくりと見ていく。
やっていると、だんだん膝ががくがくしてくる。
太ももの筋肉がぷるぷるしてくる。
我々現代人は膝をまっすぐにのばして立つという姿勢・生活に慣れきってしまっている。
そのせいで、下半身が見えていない。
100年以上前の、生活が機械化・電化していなかった時代の人々は、武術家でなくても膝や肘、腰が自然に曲がり、つまり身体のまとまりを保ったまま生活していた。
いわば手足がちゃんと存在する生活だ。
実際に膝をすこし曲げて身体を見ているとわかってくるのだが、自分の手足、とくに下半身が発生してくる感じがある。
ああ、ここに足がある、膝が見えてきた、腰が発生してきた、という感覚が、実感として生じてくる。
これはいままでにない体験で、自分の身体とあらためて「こんにちは」するみたいな、新鮮な経験だ。
と書いても、読んでいる人はおそらくなにをいっているのかわからないだろうと思う。
経験してみなければわからないだろう。
しかし、経験してみればきっとはっきりとそうとわかるはずだ。
この経験を経たうえで、最後はいつもの韓氏意拳の站椿の稽古をおこなった。
自分の身体が発生したうえでおこなう站椿は、まったく違う味わいがあって楽しかった。
もっとも、非常に疲れた。
前半の垂直から自分の身体を見ていく稽古は、気がついた1時間半が経過していた。
それだけの時間、ひたすら自分に身体と向かいあい、いわばマインドフルネスの世界にどっぷりとつかりきっていたのだ。
とても深くて質の高い瞑想をしたときのような余韻があった。
その稽古の余韻は数日たったいまでも残っている。
いつでもこの自分の身体にもどってこれる、という感覚は、いままでにない自分自身の存在への安定感と自信のようなものにつながってきているような気がする。
◎身体表現者のための韓氏意拳講習会(2.14)
羽根木の家で「身体表現者のための」という切口で、内田秀樹準教練による韓氏意拳講習会を2月14日(日)に開催します。身体表現をおこなっている方、関心のある方など、どなたも参加できます。