2013年12月17日火曜日

「肉体総動員発声態――おどる声」を観てきた

今日、たまたま夜のスケジュールがあいていたので、案内をもらっていた徳久ウイリアム(ヴォイス)と菊地びよ(舞踏)のふたりによる即興パフォーマンス「肉体総動員発声態――おどる声」を観に行ってきた。
場所が近所の〈キッド・アイラック・アート・ホール〉だということもあったが。

徳久くんはともかく、菊地びよさんについてはまったくなんの予備知識もなし。
一度も観たことはないし、失礼ながら名前も知らなかった。
しかし、ダンスと声というのは私も関心があるところなので、楽しみにしながら行ってみた。
というのも、私は現代朗読の演出をするにあたって、いつも朗読者に「ダンサーのような身体意識をもって」というようなことをしつこくいいつづけているからだ。

19時半すぎ、開演。
なじみのあるキッドの暗闇からスタートした。
蓄光が私の位置からはふたつだけ光って見える。
菊地の息づかいからスタート。

奈落の蓋が開いて、ものすごい声を出しながら徳久登場。
いったいどこからどうやってこんな声を出すのだ、という驚きは、すでになじみのもの。
そして静かになったとき、エアコンの音が気になる。
彼らはこれを拾っているのだろうか、私なら拾うが。

声と身体表現によるパフォーマンスが進行していく。
前半部分は徳久も積極的に身体を使い、どちらがダンサーなのかわからないほどで、それはそれで狙っていたのかもしれない。
ダンサーとしてのヴォイスパフォーマー、ヴォイスパフォーマーとしてのダンサー、そんな区別は必要ない。

第1部の後半は、ヴォイスとダンスの区別が比較的くっきりしてきて、それぞれの得意分野での表現力が発揮されて迫力があった。
動けば動くほど、繊細な原初のあやうい生命に近づいていくような菊地びおの動き。
発声すればするほど、怖いほど荒々しい生命体の存在を感じさせるような徳久の声。
動きと声という究極の抽象表現が直接的に観客に突きつけられる。
徳久がときおり、日常的な言語表現を交えて意表をついてくるが、それすら、抽象表現のなかに投げ出された具象アイテムとしてクラスタ的な意味を排除した表現となっていて、こちらの感覚を揺さぶられる。

休憩をはさんで第2部。
トークがあって、来客からの質問を受けたりしていたのだが、それは必要だったろうか。
もし私が質問するとしたら、次の2点。

・動きと声のあいだにコミュニケーションはあったのか(もちろんあっただろう)。あったとしたらなにを手がかりにしていたのか。
・環境音(エアコンの音、観客のくしゃみや咳ばらい、ホールの外の人声や車の音など)とのコミュニケーションはあったのか。

トークと質疑応答のあとのパフォーマンスもおもしろかったが、時間が長いことが気になり、最後のほうは(私個人の問題ではあるが)集中がとぎれてもったいないような気がした。
もしやるとしたら、トーク内容ももうすこし密度の濃いものが期待できたように思う。
というような個人的感想はともあれ、おふたりさん、そして照明の早川くん(だよね?)、お疲れさまでした。
楽しませていただきました。