昨日、キッド・アイラック・アート・ホールのギャラリーまで、工藤大輔くんの絵画展「すばらしてん」を観に行ってきた。
何日か前からやっていたのだが、なかなかタイミングが合わなくて、昨日の最終日になってしまったのだ。
しかし、最後になったが、行けてよかった。
工藤くんはキッド・アイラックでアルバイトしていて、私たち現代朗読協会も公演のときには大変お世話になっている早川くんのサポートをしているようだ。
それとは別に、絵を描いていることは知っていて、1年ちょっとくらい前だったか、ホールを道側に開放してオープンペインティングのイベントをやっているのを観に行ったことがある。
そのときの作品が2点、今回も展示されていた。
工藤くんも会場にいたので、話が聞けた。
ここ数年の作品を集めたということで、作品のモチーフはだいたい一環して、つるんとした感じの少年や少女があるシチュエーションのもとで描かれている。
表情はあるが、わざと作られたような、自然で生々しい表情ではない。
全員が作られた人形の表情のようなものをまとっている(例外の2作をのぞいて)。
メッセージ性を感じる作品が多い。
たとえば、紛争の記事が掲載された新聞に直接描かれている、ロケット砲を抱えてすわりこんでいる少年、といった具合。
どの作品も強くて直接的なメッセージではなく、かすかな皮肉とユーモアにいろどられている。
これらのなかで、今回、はっきりと感触のちがう2つの作品があった。
少女の顔の正面と横顔を描いた2点。
ほとんどがボードに描かれているのに対して、この2点だけどちらもキャンバスに描かれている。
そのせいか、作品の感触がちがう。
感触がちがうばかりではなく、テーマ性も感じられない。
テーマ性が消えている分、より描き手の内面や身体性、動きそのものが表出しているように感じる。
これでいいじゃないか、と私などは思ったりもする。
テーマ性を追うことで身体が置き去りにされることがある。
そうなるくらいなら、テーマなど捨ててしまえばいい。
ただ身体が要求するまま、筆が動くまま、走らせてみればいいのではないか。
たぶん自分自身がいやおうなく出てくるし、そこにはおそらく描き手がいいたいこともあぶり出されてくる。
展示の準備をしているとき、キッド・アイラックのスタッフの全員がこの2点を「一番ほしい作品」と一致したそうだ。
私もそう感じる。
工藤くんもそのあたりに手応えを感じているらしく、他作品に比べて「早描き」であるこのようなアプローチを、もうすこしつづけてみて、来春にはもう一度、別の個展をやってみたいといっていた。
どのような変化が描き手におとずれるのか、どんな作品が観られるのか、とても楽しみだ。