2018年10月6日土曜日

水城ゼミ・朗読ゼミ・朗読カフェ(Verba Actus)

10月10日(水)夜は岐阜各務原の白狼澪さんち〈花寧香くらぶ〉で水城ゼミを、13日(土)午前は国立春野亭で現代朗読ゼミを、17日(水)午後は山梨北杜の桂さんの山荘〈あめのとりふね〉で共感朗読カフェ(Verba Actus)をそれぞれ開催する。
これ、それぞれどういう内容なの、なにがどう違うの、という質問を受けることがあるので、明らかにしておきたいと思う。

大きくいって、内容はほとんど変わりない。
基本的にすべて、朗読や音読を用いて表現について学んだり試みたりする場で、それを通じて自分自身のいきいきさやニーズにつながったり、マインドフルネスの体験を深めたりすることができる。

朗読・音読はだれもがすぐにやってみることができる表現行為のひとつだ。
日常的に日本語を話したり読んだりしている人なら、だれでもすぐにやってみることができる。
ただし、私のこれらの「ゼミ」では、それを意識的にやること、とくに「読んだり声を発している自分自身に注意を向け観察すること」を目的としている。

朗読にかぎらず、すべての表現のクオリティは、自分自身を把握すること、微細な変化に目を向けること、自分という存在に注目すること、そのクオリティに左右されると私はかんがえている。
だから、とても敷居の低い表現行為である朗読で、まずそれを体験してもらう。

やってみるとわかるが、これがなかなか難しい。
こうすればできる、という一般的な方法を、参加するすべての人にあてはめることができない。
参加者は「自分はどうなっているのか」というオリジナルな自分自身の身体や、自分というたえず変化しつづける存在現象をつかまえなければならず、それは個々人がちがっているので、こうすればいいという一般化できる方法はない。
私はただ、多くの経験をもとに、その人はどうなのか観察し、提案するだけだ。

このようなことをこれらのゼミでは共通してやっている。
水城ゼミではゼミ生という制度があって、定期的に参加することで表現のクオリティやマインドフルネスの深さを日常的に練習してもらう。
単発のゼミや朗読カフェでは、何人かで声を合わせたり動いたりしてみることで、自分自身のユニークさに気づいてもらったり、自分の行きたい方向性を見極めてもらったりする。

ベースには共感的コミュニケーションがあり、「こうしなければならな」とか「こうしてはならない」ということは一切ない。
だれもがその存在を受け入れられ、自分がやりたいことをやりたいようにやってみる自由と安心が保証されている。
とはいえ、そのクオリティを高める方向性を共有しているということでは、場の目的ははっきりしているが。

もし興味があれば、気軽に参加してみてほしい。
おそらく他のどこでもやっていない体験と、自分自身の未知の可能性に気づくことができるだろうと思う。