国立の治療師・藤田俊紀さんと瞑想やマインドフルネスの話をしているとき、ふと藤田さんから、
「水城さんは白隠禅師を読んだことがありますか?」
といわれたのです。
名前は聞いたことがありますが、読んだことはありません。
白隠は「白隠慧鶴」といって、江戸時代中期の禅僧で、臨済宗中興の祖と称される人です。
臨済宗において坐禅のときに唱える白隠の「坐禅和讃」は、多少有名なので聞いたことがある人はいるかもしれません。
私ですら、その文言を読むと「ああ」とうなずく箇所があります。
白隠には著書も多いのですが、なにしろ漢文、古文ですから、とっつきにくい。
藤田さんにすすめられて、とりあえず入門書のようなものはないかと探したところ、これがありました。
『白隠禅師の読み方』栗田勇/祥伝社黄金文庫
副題に「今に甦る「心と体の調和――内観法」の極意」とあります。
ちなみに栗田勇は非常に著書の多い多彩な著述家です。
読んでみると、白隠は若いころ、禅に打ち込むあまり「禅病」と呼ばれる難病で瀕死の窮地におちいるも、白幽という実在が疑われる(実際には実在したらしい)仙人からさずかった「内観の秘法」で健康を回復し、仏法の悟りを完成するにいたったとのことです。
そして、厳しい修行で似たような病気におちいる若い僧侶を、自分が体得した秘法でたくさん救い、人望を集めたというのです。
その「内観の秘法」とはどういうものか。
どうやら呼吸法の一種らしいのです。
そしてその呼吸法がめざすのは「いまここのありのままの自分に気づきつづける境地」らしいですから、まさにブッダの「ブッパサナー瞑想」であり、めざすは「サティ」の境地ということでしょう。
私に引きつけるのもなんですが、私がおこなっているマインドフルネスのワークや音楽瞑想も、まさにこれをめざすものです。
そして私自身、この本の著者の栗田勇氏のように、呼吸法や瞑想によって病弱からみごとにいまの心身の安定的健康を得たと、自信をもっていえます。
もうひとつ、白隠禅師について興味を感じたのは、もともとインドから中国を経て日本に渡ってきた禅仏教が、いつしか形骸化してしまったとき、日本古来の修験道や土着の信仰をも取れいれつつも禅の原点に立ちかえり、日本の禅仏教として独自の再生を実現した、という点です。
たとえば、欧米に広く禅を紹介した鈴木大拙が、白隠禅師を紹介している文章に、このようなものがあります。
「白隠以前にありては、まだ支那の禅を学んでをるという感じが抜けていないかしらんと想われる。ところが、白隠になると、禅は元から日本のものであったというような心持ちが出る。すなわち禅がわがものになってきた」
私はこの境地を、NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)に応用できないかとかんがえているのです。
マーシャル・ローゼンバーグが提唱し、体系化したNVCのスピリッツと方法を、日本本来の精神性や文化を取りいれつつ、こなれた形で日本語化できないものか。
もちろん私など白隠禅師にはおよびもつかない非力な者ですが、方向としては白隠の生涯に心強さを感じているのです。