2016年3月30日水曜日

アーティスト(表現者)とコミュニティ

長年、小説家とピアニストをやっているが、自分がそういう仕事をしていると伝えるとしばしば確認されるのが、
「プロなんですか?」
「それで食えてるんですか?」
ということだ。
多くの人にとっては、私が小説を書くことで生活が成りたっていたり、ピアノを弾くことで収入があることが、とても重要なことらしい。

前提として、小説家が小説を書くことで食えたり、ピアニストがピアノを弾くことで生活できるようになったのは、本当にごく最近のことであり、それもごくわずかな一握りの人であり、また現在をふくむ近い将来にはそのようなことはほとんど成りたたなくなっていくだろう、ということを踏まえておきたい。

多くの人に、本来自分にはなりたかったあこがれの職業があり、しかしどこかでそれをあきらめて現在の仕事につかざるをえなかったという無念さがある。
子どものころにはさまざまな夢を持っていて、プロ野球の選手になりたかった、Jリーガーになりたかった、小説家になりたかった、ミュージシャンになりたかった、漫画家になりたかった、パイロットになりたかった、そういったものをどこかであきらめた経験をほとんどの人が持っている。
なかには希望の職業につけた人がわずかながらいるかもしれないが、それとて思いえがいていたような生活とは違った苦難の連続だったりする。

私に「それで食えてるの?」と確認したがる人には、仕事にたいするなんらかの痛みがあるように感じられる。
彼らは私が本当にプロの小説家なのか、名前も聞いたことないじゃないか、ということで、その正当性を疑うのかもしれないし、また私が本当に小説家だとしたらあこがれの職業につけなかった自分とのあいだに不平等を感じるのかもしれない。
たぶん、正当性や平等などのニーズがあるのだろう。

私がピアニストとして生活をはじめた一番最初は、20代になったばかりのことだった。
また、職業小説家としてメジャーな出版社からデビューしたのは20代最後のときだった。
しかし、いまそれだけで「食えて」いるかというと、そうはいえないというのが正直なところだ。
文筆と演奏の仕事だけで生活が成りたっているわけではない。

前置きがずいぶん長くなってしまったが、ここからが本題だ。

近代になって、芸術家がアート表現の行為や作品を金銭価値と交換して生きていけるようになってから、ピアニストは演奏だけで、小説家は執筆だけで生活できることがなんとなく「正当」であるような雰囲気が広まっている。
たしかにそういう時代もあっただろう。
すでに前時代的な価値観だと私は思うけれど。

現代において、あるいは将来において、芸術家の役割が大きく変わりつつあると私は思っている。
たとえばピアニストは演奏だけでなく、自分自身の音楽というもののとらえかたや接し方を発信したり、場合によっては教育にたずさわったりすることも、あるいは芸術の立場から街づくりや行政や経済活動に関わったりすることも求められるようになっている。

そもそもピアニストが演奏によって対価を得ていた時代も、その対価を支払うのはそのピアニストのファンという、いわば一種のコミュニティを成すレイヤーであった。
小説家もそうで、彼の作品(大量に複製された本)を買ってくれるのは、小説家あるいは作品のファン層というレイヤーであった。

アーティストにつながるレイヤーがよりコミュニティの色合いを強め、同時に多様性を持ってきているのが現代なのだと思う。
アーティストは演奏や作品だけでなく、さまざまな情報や関わり方を求められるし、逆に積極的に提案しながら社会に貢献することもできる。

あるアーティストを核とするコミュニティは、さまざまな立場の人たちという多様性を持ちながらも、そのアーティストの演奏や作品、思想、ひいてはありようそのものに共感する人たちのコミュニティを形成し、そこからの支援、あるいはコミュニティそのものにたいする(場合によっては行政や企業からの)補助や支援によって、持続的に活動していくことになる。

いまやアーティストは、自分の表現活動というものを核にしつつも、それが発信される相手、人々、コミュニティ、世界へと視野を広げ、そのなかで自分の表現がどのような役割を持っているのか、あるいはどのような変革や影響の可能性を持ちたいのかを見極め、計画していくこともできる。
すくなくとも私は、自分の活動期の成熟期から晩年にむけて、そのようにコミュニティと関わりながら伝えきっていければ、と思っている。

自分という孤島にこもって、製作やトレーニングをおこたらないことも必要だが、ときには孤島から陸にあがって人々と関わることも大事にしたい。
そういうとき、あくまで自分らしく、いきいきと無防備でいられるための方法として、共感的コミュニケーションを身につけていることは、とてもありがたく思うのだ。




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