2016年3月21日月曜日

社会的に悪とされることを行なっている人に向きあう

もしあなたが、だれかから、社会的に「悪」であるとされている行為をその人がやっていると告白されたら、どうするだろうか。

たとえば、覚せい剤を常用していてやめることができない、とか。
たとえば、妻や子どもに暴力をふるってしまう、とか。
たとえば、不倫をつづけている、とか。

そういう話を聞くと、通常、私たちは「やめなさい」といいたくなる。
そんなことをしている相手が自分とつながっていることにたいして不安になったり、危険を覚えたりするからだ(こちらには安心・安全のニーズがある)。
そのために相手にその行為をやめてほしい、「やめなさい」という要求・命令が出てくる。
しかし、そんなふうに相手に命令したとして、それは効果があるだろうか。

共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の根底にある考え方として、すべての人はなんらかのニーズにもとづいて行動している、というものがある。
その人の行為がたとえ反社会的なものであっても、またこちらにとって都合の悪いものであったとしても、相手はかならずなんらかの切実なニーズに突き動かされてそういうことをしている、という理解が必要だ。

覚せい剤を常用している、と聞かされたら、その相手には「すぐにやめたほうがいい」といいたくなるだろうが、そこで踏みとどまって相手のニーズに興味を向けることができるかどうかが重要だ。
相手がそんなことをしているのは「なんの必要にせまられているからか」に目を向けてみる。

覚せい剤をやめられないのは、なにかから逃げたいからだろうか。
だとしたら、安心できる場所や心のゆとりが必要なのだろうか。
だれかに受け入れてもらったり、安心して表現できるつながりを必要としているのだろうか。
ジャッジされたり、攻撃されたりしない、信頼関係が必要なのだろうか。
ただ深い休息を必要としているのだろうか。

彼のニーズに目を向け、それに純粋な興味を持って聞きつづけ、彼に自分のニーズの目を向けるためのサポートをし、最後には自分のニーズに気づいてもらう。
ニーズにつながったとき、そのニーズを満たす方法として覚せい剤を用いるということがふさわしいかどうか、あるいはなにか別のよりよい方法を見つけることができるかどうか。

だれかがおこなっているなにかを「悪だ」と断じることは簡単だが、それがどんな切羽詰まった必要性から生まれているおこないなのか、そこに目を向けられるかどうか。
相手のなかにあるニーズには善も悪もない。
ただそれを見て、尊重できるかどうか。
こちらの人間性が問われている、といってもいいかもしれない。

共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。