2016年3月31日木曜日

サーモンとほうれん草のミルクソース・パスタ

春スパゲティシリーズ、ふたたび。

【材料】二人分
・スパゲティ……180グラム
・サーモン……ひと切れ
・ほうれん草……軽く1束
・ミルク……100cc
・ニンニク……ひとかけ
・鷹の爪……1本
・オリーブ油、塩、コショウ、粉チーズ

大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかして、塩をいれ(お湯がしっかりと塩気を感じるくらい)、スパゲティをゆでます。
そのあいだに、フライパンを弱火にかけ、オリーブ油(大さじ1)とニンニクのみじん切り、種を抜いた鷹の爪を加えます。

ニンニクが香り立ってきたら、5mm強くらいの厚みでスライスしたしゃけ(サーモン)の切り身を入れます。
切り身は生でも火が通ったものでもかまいません。
表面の色が変わってきたら、3~4センチくらいにざくざくと切ったほうれん草を投入して、いっしょに炒めます。
火が通った切り身を使う場合は、切り身とほうれん草をいっしょにいれても大丈夫です。

炒めながら、塩とコショウを加えます。
サーモンに塩気が効いている場合は、塩はやや控えめにしておきます。
ミルクを加えます。
粉チーズを加えます。
好みに応じて、控えめにしたり、なしにしたり、あるいはたっぷり加えるなどしてください。

そこへゆであげたスパゲティをお湯を切って投入し、フライパンをゆすって全体を混ぜあわせます。
好みの皿に盛りつけて、いただきます。
色あいと香り付けで、あさつきの小口切りにしたものなどをトッピングしてもいいでしょう。

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2016年3月30日水曜日

本:長編小説『桟橋』(Kindle)発刊しました

かつてのケータイ公式サイト(いまもあるのかな?)「どこでも読書」で連載し、ご好評をいただいた長編小説『桟橋』を、このたびあらためて発刊しました。

自伝小説というわけでもありませんが、水城個人の青春時代の経験の多くが反映されている小説です。

時代背景も1977年前後、舞台は琵琶湖畔や京都です。
もちろん、インターネットもなければ携帯電話もない時代の話です。

Kindle版のみの発売となります。
価格339円です。
こちらからどうぞ(画像をクリックしてもジャンプします)。

アーティスト(表現者)とコミュニティ

長年、小説家とピアニストをやっているが、自分がそういう仕事をしていると伝えるとしばしば確認されるのが、
「プロなんですか?」
「それで食えてるんですか?」
ということだ。
多くの人にとっては、私が小説を書くことで生活が成りたっていたり、ピアノを弾くことで収入があることが、とても重要なことらしい。

前提として、小説家が小説を書くことで食えたり、ピアニストがピアノを弾くことで生活できるようになったのは、本当にごく最近のことであり、それもごくわずかな一握りの人であり、また現在をふくむ近い将来にはそのようなことはほとんど成りたたなくなっていくだろう、ということを踏まえておきたい。

多くの人に、本来自分にはなりたかったあこがれの職業があり、しかしどこかでそれをあきらめて現在の仕事につかざるをえなかったという無念さがある。
子どものころにはさまざまな夢を持っていて、プロ野球の選手になりたかった、Jリーガーになりたかった、小説家になりたかった、ミュージシャンになりたかった、漫画家になりたかった、パイロットになりたかった、そういったものをどこかであきらめた経験をほとんどの人が持っている。
なかには希望の職業につけた人がわずかながらいるかもしれないが、それとて思いえがいていたような生活とは違った苦難の連続だったりする。

私に「それで食えてるの?」と確認したがる人には、仕事にたいするなんらかの痛みがあるように感じられる。
彼らは私が本当にプロの小説家なのか、名前も聞いたことないじゃないか、ということで、その正当性を疑うのかもしれないし、また私が本当に小説家だとしたらあこがれの職業につけなかった自分とのあいだに不平等を感じるのかもしれない。
たぶん、正当性や平等などのニーズがあるのだろう。

私がピアニストとして生活をはじめた一番最初は、20代になったばかりのことだった。
また、職業小説家としてメジャーな出版社からデビューしたのは20代最後のときだった。
しかし、いまそれだけで「食えて」いるかというと、そうはいえないというのが正直なところだ。
文筆と演奏の仕事だけで生活が成りたっているわけではない。

前置きがずいぶん長くなってしまったが、ここからが本題だ。

近代になって、芸術家がアート表現の行為や作品を金銭価値と交換して生きていけるようになってから、ピアニストは演奏だけで、小説家は執筆だけで生活できることがなんとなく「正当」であるような雰囲気が広まっている。
たしかにそういう時代もあっただろう。
すでに前時代的な価値観だと私は思うけれど。

現代において、あるいは将来において、芸術家の役割が大きく変わりつつあると私は思っている。
たとえばピアニストは演奏だけでなく、自分自身の音楽というもののとらえかたや接し方を発信したり、場合によっては教育にたずさわったりすることも、あるいは芸術の立場から街づくりや行政や経済活動に関わったりすることも求められるようになっている。

そもそもピアニストが演奏によって対価を得ていた時代も、その対価を支払うのはそのピアニストのファンという、いわば一種のコミュニティを成すレイヤーであった。
小説家もそうで、彼の作品(大量に複製された本)を買ってくれるのは、小説家あるいは作品のファン層というレイヤーであった。

アーティストにつながるレイヤーがよりコミュニティの色合いを強め、同時に多様性を持ってきているのが現代なのだと思う。
アーティストは演奏や作品だけでなく、さまざまな情報や関わり方を求められるし、逆に積極的に提案しながら社会に貢献することもできる。

あるアーティストを核とするコミュニティは、さまざまな立場の人たちという多様性を持ちながらも、そのアーティストの演奏や作品、思想、ひいてはありようそのものに共感する人たちのコミュニティを形成し、そこからの支援、あるいはコミュニティそのものにたいする(場合によっては行政や企業からの)補助や支援によって、持続的に活動していくことになる。

いまやアーティストは、自分の表現活動というものを核にしつつも、それが発信される相手、人々、コミュニティ、世界へと視野を広げ、そのなかで自分の表現がどのような役割を持っているのか、あるいはどのような変革や影響の可能性を持ちたいのかを見極め、計画していくこともできる。
すくなくとも私は、自分の活動期の成熟期から晩年にむけて、そのようにコミュニティと関わりながら伝えきっていければ、と思っている。

自分という孤島にこもって、製作やトレーニングをおこたらないことも必要だが、ときには孤島から陸にあがって人々と関わることも大事にしたい。
そういうとき、あくまで自分らしく、いきいきと無防備でいられるための方法として、共感的コミュニケーションを身につけていることは、とてもありがたく思うのだ。




身体性にアプローチするという斬新な手法でテキスト(文章/文字)を使った自己表現を研究するための講座。オンライン(zoomシステム使用)のみのクラスで、単発参加も可。

2016年3月29日火曜日

映画:裏切りのサーカス

2011年公開のこの映画は、フランス、イギリス、ドイツの合作とのこと。
原作は私も大ファンのジョン・ル・カレの小説『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』で、映画とはまた別物の味わいがある。
ともあれ、小説はおもしろいんだけど、難解。

小説とはちがって、ストーリー性とビジュアルが打ち出される映画は、きっといくらかわかりやすくなっているだろうと思っていたけれど、裏切られた。
監督はトーマス・アルフレッドソンという知らない人。

私はつねづね「潜水艦映画に駄作はなし」という主張をしている者だが、スパイ映画についても半分くらいはそういってもいいかなと思っている。
この「裏切りのサーカス」もじつに切れのいい、見ごたえのある「絵」の連続する、複雑な、緊張感のある、引きしまった映画だ。

監督のことはよく知らないが、とにかく「絵」を作るのがうまい。
どのシーンをとってみても、「緩」は緩なりに、「急」は急なりに、ぴたりと決まる絵を作って、たたみこんでくる。
気持ちがいい。
しかし、ストーリーやカットバックが複雑に入れこんでいて、難解でもある。
この難解さは、小説の難解さを映画でも表現しようと試みているということだろうか。

俳優陣もなかなかすばらしい。
ゲイリー・オールドマン、コリン・ファース、トム・ハーディ、ベネディクト・カンバーバッチ、などなど。
いずれも渋い演技を見せてくれている。
そういえば、女優がほとんど出てこないな。

一度観たくらいではストーリーも理解できないし、見逃しているシーンやおいしい「絵」もたくさんあるはずなので、二度、三度と観たい映画だ。
複雑さ、わからなさを楽しめる人におすすめ。

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2016年3月28日月曜日

喫茶 茶会記イベント「5years」におけるパフォーマンス「繭世界」

2016年3月12日、四谷三丁目の〈喫茶 茶会記〉でのイベント「5years」で、野々宮卯妙と水城ゆうがおこなったパフォーマンス「繭世界」の全編を、主催者側の方に撮影してもらいました。

朗読 野々宮卯妙
テキスト・演奏 水城ゆう

使用テキスト「繭世界」は、水城ゆうによる著作使用権フリーの作品集である「水色文庫」で読めます。
こちら
映像はこちら(画像をクリックしてください)。

豚バラ丼

「ひらぼくさんげんとん」とかいうよい豚バラ肉を入手したので、料理してみた。
ところで「ひらぼく」というのは「平田牧場」のことで、「さんげんとん」というのは「三元豚」すなわち3種類の品種の豚を掛け合わせた食用豚のことらしい。
いずれもありがたいものらしいが、よくわからない。
たしかにおいしい気はする。

というようなことをぼんやり書いていると、どこかから叱られるような気がするので、豚肉事情について詳しい人がいたら、ぜひ教えてください。

今日はあまり時間がなかったので、非常に簡単に手早く作れるレシピに挑戦してみた。

【材料】二人分
・豚バラ肉……160グラムくらい
・ご飯……2杯
・白ネギ……10センチくらい
・京水菜……5、6本
・しょうが……ひとかけ
・サラダ油、塩、コショウ、みりん、醤油、ごま油

フライパンにサラダ油(大さじ1)と、みじん切りまたは薄切りにしたしょうがをいれ、弱火にかける。
しょうががジュワジュワいって香りが出てきたら、火を中火にして、斜め薄切りにした白ネギをいれる。
白ネギがしんなりしてきたら、薄切りにした豚バラ肉をいれる。

最初から薄切りになっているバラ肉でもいいが、薄すぎるきらいがあるので、かたまりのバラ肉を自分で薄く切ったほうがいい。
厚みも好みで調節する。

全体に塩、こしょうをして炒める。
つづいて醤油(大さじ1)、みりん(大さじ1)をくわえて、炒めあわせる。
最後にごま油(小さじ1)をくわえて香りをつける。
仕上がりの味つけがちょっと濃いめになるようにするのがコツ。

器にご飯を盛り、その上に具を乗せる。
生のまま2センチくらいの長さに切った京水菜を盛りつければ、完成。

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2016年3月27日日曜日

水城ゆう初春のピアノコンサート@福井県立病院

2016年3月23日、福井県立病院のエントランスホールで3か月ごとにおこなっている水城ゆうのピアノ演奏によるボランティアコンサートの模様を、やや長めの抜粋で公開します。

演奏曲目は「春の小川」「さくら」など、日本のメロディが中心で、即興による演奏とアレンジで60分程度のコンサートでした。
次回の同コンサートは6月21日(火)午後1時半からを予定しています。
詳細はこちら
演奏映像はこちら(画像をクリックしてください)。

北陸帰省、みつばち、ピアノコンサート

月曜日から北陸の実家に帰省していた。
日曜日が春分の日で、月曜日はその振替休日だったのだが、朝の山手線も京急線もかなり混んでいた。
羽田=小松便も満席だった。
私をふくめ大勢の人が行ったり来たりしている。

去年の夏、河川敷の近くの畑のかぼちゃの花に日本みつばちが来ているのを目撃していて、このあたりに日本みつばちがいるのはわかっていた。
羽根木の家の日本みつばちが全滅してしまったので、今年は野生の日本みつばちの分封群の捕獲を試みてみようと思いたった。
そこで、捕獲用の待ち箱をどこかに置けないか、調べてみた。

山に近いほうのうちの畑のわきに梅の木がある。
白梅で、いまちょうど満開をすぎようとしている。
なにげなくその花を見たら、なんと日本みつばちが十数匹たかっているではないか。
花に頭を突っ込んで、盛んに蜜を吸っている。
後ろ足には花粉団子もくっつけている。
このあたりで日本みつばちを飼育している人はいないはずなので、野生のみつばちだ。
つまり、うまくすれば、分封群を捕獲できるかもしれない。
試してみる価値はありそうだ。

この畑の脇と、もっと山のほうの山林に囲まれた知人の畑の脇にも置いて試してみよう。
山林は杉の植林が多いが、手付かずの雑木林もたくさん残っている。
そこのちいさな梅の木にも日本みつばちが来ているのが確認できた。

水曜日は福井県立病院のエントランスホールにあるグランドピアノを弾きに行った。
3か月に1回のペースでボランティアコンサートを開いているのだ。
病院に問い合わせてわざわざ聴きに来てくれる人も何人かいて、まずは知った顔にご挨拶する。

午後1時半、スタート。
まずは即興演奏、なにもかんがえずに、音が出てくるままに。
このホールは響きがよく、弾いていて気持ちいい。
聴衆も職員の方々もあたたかく迎え入れてくれる。

2曲め以降は日本の唱歌のメロディをモチーフにした即興演奏を、トークを交えながらおこなう。
みなさん、熱心に聴いてくれている。
なかには点滴のスタンドを脇に置いて聴いている入院患者の方も、何人かいて、付き添いの看護師さんもいっしょに聴いてくれていた。

1時間の演奏を終えると、さすがに集中していたものがほどけ、疲れを感じたが、聴いてくれていた何人かの人から声をかけられてうれしくなる。
この日はとくに、ピアノの先生で、子どもたちといっしょに音楽をやっているという女性が、「あまりにすばらしくてまだ帰りたくないです」といって、いろいろな話を聞かせてくれた。
越前市の高野さんという方だったが、またお会いできるといいなあ。

疲れたが、帰宅してから手打ちそばを作って食べる。
つなぎのない十割そばで、大根のおろし汁に醤油を割りいれたものと刻みネギだけでいただく。
絶品。

木曜日は朝からふたたび飛行機で、小松=羽田と飛び、東京にもどる。
今回、行きも帰りも、空からの景色がすばらしく、堪能した。

朗読生活のススメ全10回コース、スタート(4.2)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身の全10回講座です。

2016年3月26日土曜日

安心して暴力的表現ができる関係

「親密な関係における共感的コミュニケーション」の勉強会でいつもくりかえし確認することだが、親密な間柄であればあるほど、お互いに満たしたい/満たしあっているニーズは多い。
リストアップしてみればわかるが、おどろくほど多い。
親密な人ともっとも親密な関係の行動をとっているとき以外で、これほど多くのニーズを満たすことのできる行為を、私は知らない。

しかし、だからこそ、ちょっとしたすれ違いがあったり、ニーズを満たしあえなかったりすると、関係にヒビがはいってしまう機会も多いといえる。
お互いにとても大切にしている間柄だからこそ、ちょっとしたことでギクシャクしてしまいがちなのだが、それをたえず修復したり、メンテナンスしておくことが大事だ。

もしあなたがとても気にいった家に住んでいるとしよう。
その家にいることが大好きで、快適だし安心だとする。
きっとあなたはその家を大事にして、せっせと掃除したり、どこか壊れたところがあればすぐに修理したり、より快適にすごせるようにいろいろと工夫しようとするだろう。
親密な相手との関係も、それと似ているかもしれない。

いつも掃除して、修復して、より快適で安心なつながりを持てるように工夫する。
その掃除道具として、修理のツールとして、共感的コミュニケーションはとても役に立つ。

「こんなことをいったら彼は怒るんじゃないだろうか」
「こうしておかないと彼女の機嫌をそこなうかもしれない」
などと、お互いの顔色をうかがってすごすより、まずは自分のニーズや感情にもとずいてのびのびと表現したり行動できること。
その結果、相手のなんらかのニーズがそこなわれて、感情的に衝突したり、対立が生まれるかもしれない。
しかし、共感的コミュニケーションで修復をこころみればいい。

壊れた関係や失われたつながりは、かならず修復することができる。
そこに共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)は信頼をおいている。

安心して表現しあえる関係であること。
好きなように怒ったり、嘆いたり、ぶつかりあったり、ジャッジしあえること。
そしてそうしたあとは、共感でふたたびつながりあえること。
共感的にお互いのニーズでつながりなおしたとき、その関係性は以前のものにもどるだけでなく、よりよいクオリティを生みだしているかもしれない。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(4.23)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月23日(土)夜におこないます。

2016年3月25日金曜日

水マガ 2016.3.24 映画:インフィニ

2015年のオーストラリア映画。
監督はシェーン・アベス。
私はこの人のことを聞いたことがなかった。

ストーリーは「エイリアン」「イベント・ホライゾン」「28日後」「バイオハザード」といったSFホラー映画の系統に属するもので、真似、もしくはパクリ、ということもできるだろう。
もっとも、ひとつのジャンルとしてこの手のものが確立しているような気もする。

生活困窮のために主人公は身重の妻をおいて、地球から遠く離れた惑星に出稼ぎに行くことを決意する。
スリップストリームという技術で遠い天体まで瞬間移動する術が確立されていたが、それにはリスクも伴うため、低所得者しかその労働には応じていない。

転送というとスタートレックを連想するが、映像的にはオリジナルな工夫がされている。
主人公がいざ転送されようとしたとき、予想外の事態が起きて、大惨事となる。
主人公は大惨事の原因となった基地へと、ただひとり、転送されてしまう。

ただちに救出チームが編成され、有能な兵士たちが主人公の後を追うが、そこには予想もしなかった事態が待ちかまえている。

ゾンビ的な感染ホラー、密室ホラー、宇宙空間、未知の生命体、人間の狂気と暴力、不安、家族愛、そういった定番の要素が詰めこまれたストーリーだが、オリジナリティがあちこちに散りばめられているところが拾いものかもしれない。

エンディングは「え、これで終わりなの?」という、ハッピーエンドなのかアンハッピーエンドなのか、解釈をオーディエンスに丸投げするような意外なものだ。
私はアンハッピーエンドと受け取ったのだが、ハッピーエンドと思う人もいるだろう。
そこのところは実際観てもらうしかない。

設定に甘さがあるとか、使い古されたアイディアであるとか、回収されていない伏線があるじゃないの、とか、いろいろいいたいことはあるが、まあこの手の映画は好きで、つい見ちゃうんだよなあ。


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2016年3月24日木曜日

6月21日:水城ゆうピアノコンサート@福井県立病院

ご好評をいただいている福井県立病院でのソロピアノ・ミニコンサートのお知らせです。
どなたもよくご存知の日本の初夏の唱歌や童謡など、懐かしいメロディーを中心に、水城のオリジナル曲もまじえ、自由なアレンジでお送りする予定です。
どなたも自由にお聴きいただけます。

◎日時 2016年6月21日(火)13:30〜14:30
◎場所 福井県立病院受付ロビー(エントランスホール)
    福井市四ツ井2-8-1
◎料金 無料

福井は私のふるさとですが、活動拠点を東京に移して以来、福井で演奏する機会はあまりありません。
今回も貴重な機会を大切にしつつ、みなさんとのトークを交えた気軽で楽しいコンサートにしたいと思っています。

ちなみに水城ゆう最新CDはこちらから聴けます。


ダウンロードしなくても全曲試聴できます。

純粋に相手に共感するために役立つ練習

最近、しばしば、共感カフェの参加者から、私がだれかに共感し話を聞いているその様子やありようそのものが学びになる、といわれる。
とてもうれしいことだが、どうすればそんなふうに純粋に相手に共感しつづけることができるんですか、練習法はありますか、と訊かれることがあったので、ちょっとかんがえてみた。

「練習法」と意識してやってはいなかったが、たしかに純粋な共感に役に立つことがあって、これは練習だったのかもしれないと思いあたるものがいくつかあったので、ふたつだけシェアしたい。
どちらも「マインドフルネス」という身体と意識の状態が関係している。

 1. 自分の経験を相手の経験に重ねない

だれかの話を聞くとき、私たちはほとんど無意識に、その話とおなじようなことを自分も経験したことがないかどうか、記憶をさぐりにいく。
似たような経験を引き合いに出して、ついて相手もおなじような気持ちにちがいないと決めつけてしまうのだが、そうではなく、自分はこうだったけれど、いま相手のなかにはどんな気持ちやニーズが息づいているのだろうと、新鮮な目を向けてみる必要がある。

そのための練習として、自分の好みではないこと、苦手だと思っていることにあらためて挑戦してみる、というのがある。
たとえば好きではない食べ物があったとする。
この食べ物は苦手だ、という体験記憶があなたのなかにあって、実際に食べてみるときもその体験記憶を重ねているので、苦手意識から逃れることができない。
記憶から自分を切りはなし、マインドフルにいまこの瞬間自分がなにを受け取っているのか、どんな感じがするのかに注目して食べてみる、味わってみる。
それでも苦手かもしれないが、ひょっとしていまこの瞬間のあらたな発見があるかもしれない。

 2. いまこの瞬間のニーズにつながって手放さない

共感を相手に向け、感情とニーズを聞きつづけていくとき、自分自身のニーズをついおろそかにしがちだ。
自分の側にもニーズがあり、そのために相手の話を聞きたくなっているわけだ。
こちら側のニーズは、たとえば相手の役に立ちたいとか、相手のなかにどんなニーズがあるのか知りたい、好奇心がある、といったものだ。
そこにつながってニーズを手放さず、ただ相手に純粋に共感しつづける。
それが相手にもニーズにつながる手助けになる。

いったんつながったニーズにつながりつづけて手放さないために、自分の身体に気づくという練習がある。
いつでもどこでもいいのだが、いまこの瞬間の自分自身に共感してニーズにつながったとき、そのときの自分の身体に目を向ける。
そのとき、身体はどんな感じになっているだろうか。
どこか緊張しているだろうか、それともなにかみなぎったような感じがあるだろうか、うずうずと動きたい感じがあるだろうか、それともどこかに痛みやこわばりを感じるだろうか。

繊細に自分の身体をとらえ、その感覚をできるだけながくホールドしてみる。
よけいな思考やジャッジを捨て、ただ自分の身体のようすや感覚に注目しつづけてみる。

この身体感覚のホールドの練習は、だれかに共感するときに自分のニーズを手放さないことの役に立つ。
自分がホールドしているのは身体感覚であるが、そこにはニーズが息づいており、その場所から相手に興味を向けて共感しつづけるのだ。


3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。

2016年3月22日火曜日

「次世代作家養成ゼミ」が参加しやすくなりました

かつて、パソコン通信のニフティサーブの時代にもの書き養成の虎の穴「小説工房」を率い、多くの作家、ライターを輩出した実績を持つ水城ゆうが、さらに経験と研究を積んでさらなる高みをめざしているのが、このテキスト表現研究の場である次世代作家養成ゼミです。

扱うテキストは小説、随筆、詩、シナリオ、評論、ブログ記事、メール、ツイッター、フェイスブックメッセージなど、ジャンルを問いません。
しかしめざすは、真のオリジナリティを持つテキスト表現。
キーワードは身体性。
書き手の身体性と感覚、即興性と、文体、ストーリー表現というテーマに毎回するどく切りこみます。

月3回のオンライン講座(60〜90分)は、自宅にいながらにして、あるいは遠隔地からも参加しやすくなっています。
月に1回のスクーリング(リアルゼミ)も世田谷「羽根木の家」で開催。

魅力的な作品が集まりしだい、機関誌『HiYoMeKi』が随時発刊されます。

◎受講料 2,000円/オンラインゼミ費月額5,000円(カード決済可)
    オンラインゼミ生はテキストゼミを含むすべてのゼミに
    オンラインで好きなだけ参加できます。
◎使用システム zoomというオンライン会議システムを使います。
    ご用意いただくもの:
    カメラとマイクがインストールされたパソコン
    またはタブレットかスマートフォン
    (iOSでもアンドロイドでも可)

※機関誌『HiYoMeKi』はこちらを参照。

◎時間 ほぼ日曜日18:00〜(約60〜90分)

直近の開催スケジュールはカレンダーを御覧ください。

※その他の詳細とお申し込みはこちらから(クレジットカード使用可)。

料理:しらすとほうれん草のスパゲティ

春っぽいスパゲティシリーズ。
先日は菜の花とエビを使ったけれど、今日はしらすとほうれん草。
ほかにもこのシリーズでは、あさりとブロッコリ、なんてのもいけるかな。
春らしい食材といえば、ほかにも青のりとか、ふきのとうとか、たらの芽とか、ホタルイカとか、いろいろ応用がきくよね。

【材料】二人分
・スパゲティ……160〜180グラム
・しらす……小1パック
・ほうれん草……軽く1束
・ニンニク……ひとかけ
・鷹の爪……1本
・オリーブ油、塩、コショウ

大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかして、塩をいれ(お湯がしっかりと塩気を感じるくらい)、スパゲティをゆでます。
そのあいだに、フライパンを弱火にかけ、オリーブ油(大さじ1)とニンニクのみじん切り、種を抜いた鷹の爪を加えます。

ニンニクが香り立ってきたら、3〜4センチくらいにざくざくと切ったほうれん草を投入、炒めます。
炒めながら、塩とコショウを加えます。
あとで塩気の効いたしらすを加えるので、塩はやや控えめにしておきます。

ほうれん草がしんなりしてきたら、しらすを加えて、混ぜあわせます。
そこへ、固めにゆであげたスパゲティを、お湯を切って加えます。
よく揺すりながら、全体を混ぜあわせたら、完成。
お好みの皿に盛りつけて、いただきます。
大変簡単かつおいしい、春のパスタです。

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2016年3月21日月曜日

社会的に悪とされることを行なっている人に向きあう

もしあなたが、だれかから、社会的に「悪」であるとされている行為をその人がやっていると告白されたら、どうするだろうか。

たとえば、覚せい剤を常用していてやめることができない、とか。
たとえば、妻や子どもに暴力をふるってしまう、とか。
たとえば、不倫をつづけている、とか。

そういう話を聞くと、通常、私たちは「やめなさい」といいたくなる。
そんなことをしている相手が自分とつながっていることにたいして不安になったり、危険を覚えたりするからだ(こちらには安心・安全のニーズがある)。
そのために相手にその行為をやめてほしい、「やめなさい」という要求・命令が出てくる。
しかし、そんなふうに相手に命令したとして、それは効果があるだろうか。

共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の根底にある考え方として、すべての人はなんらかのニーズにもとづいて行動している、というものがある。
その人の行為がたとえ反社会的なものであっても、またこちらにとって都合の悪いものであったとしても、相手はかならずなんらかの切実なニーズに突き動かされてそういうことをしている、という理解が必要だ。

覚せい剤を常用している、と聞かされたら、その相手には「すぐにやめたほうがいい」といいたくなるだろうが、そこで踏みとどまって相手のニーズに興味を向けることができるかどうかが重要だ。
相手がそんなことをしているのは「なんの必要にせまられているからか」に目を向けてみる。

覚せい剤をやめられないのは、なにかから逃げたいからだろうか。
だとしたら、安心できる場所や心のゆとりが必要なのだろうか。
だれかに受け入れてもらったり、安心して表現できるつながりを必要としているのだろうか。
ジャッジされたり、攻撃されたりしない、信頼関係が必要なのだろうか。
ただ深い休息を必要としているのだろうか。

彼のニーズに目を向け、それに純粋な興味を持って聞きつづけ、彼に自分のニーズの目を向けるためのサポートをし、最後には自分のニーズに気づいてもらう。
ニーズにつながったとき、そのニーズを満たす方法として覚せい剤を用いるということがふさわしいかどうか、あるいはなにか別のよりよい方法を見つけることができるかどうか。

だれかがおこなっているなにかを「悪だ」と断じることは簡単だが、それがどんな切羽詰まった必要性から生まれているおこないなのか、そこに目を向けられるかどうか。
相手のなかにあるニーズには善も悪もない。
ただそれを見て、尊重できるかどうか。
こちらの人間性が問われている、といってもいいかもしれない。

共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。

2016年3月20日日曜日

映画:イベント・ホライゾン

1997年公開のアメリカ映画。
お、けっこう前の映画なんだな。

極私的映画ベストテンのなかに「エイリアン」と「エイリアン2」がはいっていて(念のために別の監督です。それぞれリドリー・スコットとジェームズ・キャメロン)、ホラー宇宙SF映画もしくはサスペンスSF映画が大好きなのだ。
この「イベント・ホライゾン」は、宇宙もの、未来もの、ホラー・サスペンスもの、ということで、わくわくしながら見はじめた。

7年前に消息をたったイベント・ホライゾン号が、ふたたび姿を現したことで、その調査に救助船が向かうところから話がはじまる。
イベント・ホライゾン号の設計者であるウェア博士役を、サム・ニールが演じている。
これがちょっと微妙。

サム・ニールという俳優の顔を見ると、つい反射的にジュラシック・パークを思いだしてしまう。
この役と、イベント・ホライゾンでの狂気がかなりはいったシリアスな科学者役とにずれがあって、なんとなく違和感を覚えてしまう。

そんな違和感をかかえながら観ていくと、イベント・ホライゾンという映画はエイリアンのようなかなりの危機的状況を演出しつつ、人間の知恵を超えた何者かに遭遇するホラーなインパクトを持っていることがわかってくる。
そりゃーもう怖い。
気の弱い人は観ないほうがいい。
そしてかなり、スプラッタなシーンが出てくる。
そこがちょっと残念。

スプラッタがスプラッタすぎて、度を超しているのだ。
怖さも度を超すと、かえって鮮度が落ちる。
その点、エイリアンの怖さとスプラッタの度合いは、じつによく計算されていて、度を超していない。
ぎりぎりの、もっとも怖さとサスペンスの緊張が高まる一線をねらって、絵が作られているのだ。
もちろん美術のすばらしさもあったけれど。

というところで、監督をチェックしてみたら、監督はポール・W・S・アンダーソン。
そうか、バイオハザードの監督なんだ。
あと、エイリアンVSプレデターとか。
なるほどね。

しかし、ストーリーはなかなか練られている。
いきなり、自分たちが乗っていった救助船が失われる。
大ピンチだ。
しかも、イベント・ホライゾン号のほうにもなにやらホラーチックで危機的な状況が迫ってくる。
お約束の爆破タイマーもある。
これははっきりいって、エイリアンのぱくりだな。

危機に次ぐ危機で、ホラーなシーンもたっぷりあり、最後まではらはらドキドキと緊張しっぱなしで観ることができるので、この手の映画でストレス発散したい人にはおすすめだが、ちょっとばかり「雑」で「度を超した」感じのところが、いかにも昨今のやりすぎハリウッド的な感じがする。


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一方的に話し続ける人をさえぎる

共感的コミュニケーションでは、人の話を聞くとき、基本的にそれを「さえぎらない」ことを心がけるが、それは「さえぎってはならない」を意味するものではない。
人の話をさえぎらないのは、自分が「さえぎりたくない」と思っているからで、そこにはいきいきしたニーズがある。
この人の話を聞きたい、この人のなかにはどんなニーズがあるんだろう、どういう命のいきいきさがあるんだろう、という興味をもっているから、さえぎりことなく最後まで話を「聞きたい」となるわけだ。

世の中にはさまざまな「人の話を聞く方法」があるが、「相手の話をさえぎってはならない」ということをいわず、「さえぎりたくない」という自分のニーズにつながりつづけながら聞く、というところが、共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の特徴的な積極性といえる。

とはいえ、一方的に長々と自分の話ばかりする相手を聞きつづけていると、疲れたり飽きてしまって、もう聞きたくなくなることがある。
あるいは予定の時間が押してしまっているとか。
そういうとき、どうしても相手の話をさえぎり、中断してもらう必要が出てくる。

そんなとき、
「もう聞き疲れたんでやめて」
とか、
「用事があるんで、これ以上聞けない」
というふうに話を無理に中断すると、相手は「まだ全部話しおわっていない」とか「聞いてもらえなかった」という不満や怒りを覚えることがある。
お互いの関係の質が低下する。
場合によっては壊れる。

共感的コミュニケーションでは「お互いの」ニーズを「おなじくらい」大切にする。
疲れたので休息が必要だという自分のニーズを大切にして相手をさえぎるのでもなく、話を聞いてもらいたいという相手のニーズが大切なので自分のニーズを棚にあげて無理に聞きつづけるのでもなく、どちらのニーズもおなじように大切にする方法を取りたい。

そんな方法があるのだろうか。
こちらには相手に話を中断してもらって、休みたい、というニーズがある。
それを相手に伝える必要がある。
しかし、相手にはまだそれを聞く準備ができていない。

相手にこちらのニーズを聞く準備をしてもらうためには、まず相手のニーズを先に聞いてあげる必要がある。
「ちょっと待ってね。いったん聞いてみたいんだけど、きみは私が話を聞くことで落ち着いたり、安心したり、理解してもらうことを大切にしているのかな?」
というふうに、相手のニーズに目をむけながら問いかけてみる。
すると相手は、自分のニーズがどのようなものなのかに目を向け、答えてくれるだろう。
もし相手のニーズが確認できたとしたら、相手にはそのとき、こちらのニーズを聞く準備ができる。

人は、自分のことを聞いてくれた相手のことしか聞くことができない動物だ。

相手が自分のニーズにつながり、こちらがそれを受け取ったとき、こちらはそのニーズを尊重しながら、はじめて自分のニーズも伝えることができる。
相手にも、こちらに休息にニーズがあることを理解し、尊重する「余地」が生まれる。

こちらは、相手の話を聞きつづけたいというニーズもあるけれど中断することを残念に思っていることを伝え、なにか提案(リクエスト)をする。
たとえば、この続きをまた日時をあらためて聞かせてもらってもいいかな、というふうに。
お互いにニーズレベルでつながっているいま、相手がそれを受け入れてくれる可能性は高まっているだろう。
そして実際に、日時をあらためて話のつづきを聞き、一時タイムアウトをとっていたお互いのニーズを、今度は完全に満たす機会をふたたび作ればいい。

共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。

2016年3月18日金曜日

料理:菜花とぷりぷりエビのスパゲティ

春になると、花粉症はおいとくとして、急に春のレシピで料理をしたくなります。
今日は井の頭線の脇に菜の花がたくさん咲いていたので、それを摘んで使ってみました……というのは嘘で、菜の花を見て食べたくなったので、近所の八百屋で買ってきました。
エビは井の頭線の脇で獲れないので、これも近所のスーパーで買ってきました。

【材料】二人分
・スパゲティ……160〜180グラム
・菜の花……小1パック
・むきエビ……100グラムくらい
・ニンニク……ひとかけ
・鷹の爪……1本
・マヨネーズ、オリーブ油、塩、コショウ

大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかして、塩をいれ(お湯がしっかりと塩気を感じるくらい)、スパゲティをゆでます。
そのあいだに、フライパンを弱火にかけ、オリーブ油(大さじ1)とニンニクのみじん切り、種を抜いた鷹の爪を加えます。
ニンニクが香り立ってきたら、いったん火を止めておきます。

スパゲティをゆでている鍋に菜の花を食べやすい大きさに切ったものを投入し、2分くらいゆでたら、ざるに取ります。
ふたたびフライパンに火をいれ、お湯を切った菜の花を投入。
塩、コショウで味を整えます。

スパゲティがゆであがる直前(表示時間の1分強が目安)に水を切り、むきエビといっしょにフライパンに投入。
マヨネーズをひとまわしかけ入れ、フライパンを揺すりながら全体を混ぜあわせたら、完成。

ポイントは、エビに火が通りすぎないことと、麺をゆですぎないこと、塩気はゆで汁で調整することです。
菜の花はブロッコリや水菜、ほうれん草、小松菜に変化させることもできるでしょう。


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2016年3月17日木曜日

ここに至っていることに気づいて感謝しかない

ジブリの映画監督・宮崎駿を取材した「創作の秘密」というNHKスペシャル番組で、宮崎駿のアトリエが出てきた。
小金井の緑が多い住宅街のなかにたたずむ木造の建物。
一階はちょっとしたホールのようになっていて、ミーティングやパーティーができそう。
グランドピアノもある(いいなあ)。
ちょっとしたキッチンとカウンターがあり、番組では宮崎駿がそこでコーヒーを飲んだり食事する風景が出てくる。

二階は彼の仕事場とプライベートスペースになっているらしい。
書斎のようなところにこもって、ひとりで漫画を描いたり、ストーリーボードを描いたりしていたが、映画製作がはじまるとそこに動画監督と美術監督の机も持ちこまれ、3人で仕事していた。
二階の奥には寝室があるらしく、昼寝のためにそちらに消えていったりもしていた。

仕事する環境として理想的で、うらやましいなあ、私もこういう環境で仕事したいなあ、と思っていた。
具体的には、ものを書いたり音楽や映像を作るのは孤独な作業で、ひとりなれるスペースが必要だが、同時に仲間と交流する場所もほしい。
アーティストや製作者は、その活動を支えてくれる仲間やコミュニティが必要だというのが、私のかんがえだ。

孤高の表現者というのは、いまの時代、非現実的なのだ。
これについてはあらためて書きたいが、アーティスト・製作者はコミュニティとつながり、支えてもらったり、あるいは逆に伝えていったり、体験や学びの場をともに作りあげていくことも、大切な仕事だとかんがえている。
振り返ると、私はそれをめざしてやってきたようにも思える。

なんてことを思いだしていたら、ふと、いま現在の私の環境って、すでにそれが実現されているではないか! ということに思いいたった。

私の現在の活動拠点は羽根木の家という、定期借家ではあるけれど緑にかこまれ、野鳥がたくさんおとずれる古民家である。
ここにはNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)・共感的コミュニケーションの仲間や、現代朗読協会のメンバー、音読療法協会のメンバー、ほかにもトランジションやみつばち部の仲間もひんぱんに集う。
いずれも私にとってとても大切なコミュニティだ。

キッチンもあって、みんなでここで料理をしたり、お茶を飲んだりできる。
また、座敷や庭ではちょっとしたワークショップや勉強会、ゼミを開催することもできる。

同時に私にはひとりになれるスペースが必要なのだが、羽根木の家の二階には仕事場がある。
ここでは孤独に、自由に、好きなように仕事に集中できる。
まさに宮崎駿のアトリエのような環境が実現しているではないか(グランドピアノはないけれど)。

私がいまもっとも幸せを感じるのは、自分がテキストを書き、仲間にそれを読んでもらい、そのライブの現場に私も音楽演奏で立ちあうこと。
自分が書いたテキストというただの記号が、人の声によって実体化し、即興のライブコミュニケーションによって立体化する。
それをその場に参加してくれた人たちに受け取ってもらえる。
私にとってこれほど豊かな場は、ほかに想像できない。

私はなんてめぐまれた人間なんだ!
あらためていまこの状況にたどりついていることに感謝の気持ちがわいてくる。
この状況にたどりつくまでには、もちろん私ひとりの力でできるはずもなく、多くの人の協力や尽力があったし、いまもそれはつづいている。

これまで「ないもの」ばかりを追いもとめ、不満をもらしつづけてきたが、これからは「あるもの」により注目し、それを生かしていきたい。
たしかにいまだに経済的にはとても苦しいし、好きな旅行に行く時間もかぎられている。
パスポートはついに10年の期限が切れてしまった。
しかし、「あるもの」はより豊かにここにあるではないか。
かわいい猫もいる。

この感謝を表現として伝えるには、私は自分の仕事にもっと集中し、さらによいものを作りだしていきたいと思う。

朗読生活のススメ全10回コース、スタート(4.2)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身の全10回講座です。

2016年3月16日水曜日

映画:トロピック・サンダー/史上最低の作戦

2008年公開のアメリカ映画。
自分ではけっして観ない種類の映画だと断言できるが、たまたま遊びに来ていた友人の安納献くんと映画の話をしていて、この「トロピック・サンダー」のことに話が及んだ。
いいから観てみて、といわれて観はじめた。

オープニングから凝っている。
戦争映画を撮影するために俳優たちを含む映画のチームが東南アジアのジャングルに来ている、という設定なのだが、その俳優たちが過去に出演したことになっている映画のトレーラーが、オープニングで次々と流れる。
このトレーラー自体が作るのに手間ひまがかかっただろうと思わせるが、本編はさらに込みいっている。

撮影がどうもうまくいかず、出資者や原作者がそれにからんで、撮影をやりなおすことになった。
俳優たちをジャングルのなかに放りこんで、本物の戦争みたいに迫力のあるリアクションを撮影するというアイディアだったが、そこはなんと本物の戦場で、現地のゲリラたちに遭遇し、そして捕虜になってしまうという展開。

戦争映画のパロディ、戦争映画に出ている俳優やスタッフのパロディ、本物のゲリラのパロディ、舞台裏映画のパロディと、あらゆるものがパロディ構造になっていて、笑えるのだが、その笑いはストレートなものではない。
かなり残虐なシーンや、うむむとうなってしまうようなシーンもたくさんある。

ベン・スティラーが監督だが、主演男優としても怪演を見せている。
ほかにも、ロバート・ダウニー・Jr、ニック・ノルティといった大物俳優も出ていて、興行収入も記録的なものだったらしい。

ちょっと日本人としては引いてしまうような部分もあるが、かなり楽しめるし笑える。
そして最後にはちょっとかんがえさせられる部分もあって、この手の映画は決して自分では触手を動かされない身としては、献ちゃんにちょっと感謝なのだった。


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2016年3月15日火曜日

喫茶茶会記でのイベント「5years」に出演してきた

2016年3月12日、土曜日。
四谷三丁目の〈喫茶 茶会記〉でおこなわれたイベント「5years」に、
現代朗読の野々宮卯妙とともに出演してきた。

このイベントは役者でダンサーの金野泰史くんたちが主催で、私は彼から誘われて、喜んで参加することにした。
朗読と組んでいいかと尋ねたら、快く歓迎してくれたので、野々宮といっしょに出ることになった。

金野くんは私の共感カフェに何度か来てくれていて、最初に会ったときはえらいイケメンの人が来たな、と強く印象に残った。
イケメンなだけでなく、ユーモアもあり、また私と共通の関心事も多く(とくに身体表現について)、この縁は大事にしたいなと思っていた。
なので、彼のほうからイベントに誘ってくれたのはありがたかった。

私と野々宮は前日の3月11日に明大前で「沈黙[朗読X音楽]瞑想」を終えたばかりだった。
が、演目は別のものをやることにした。
沈黙の朗読の演目は、あたえられた25分という時間には長すぎたので、311を題材に含む「繭世界」というテキスト(http://mizro.blogspot.jp/2011/05/blog-post_31.html)を使うことになった。

「5years」は午後16時半すぎにはじまった。
開けてみるとお客さんがいっぱいで、客席はぎゅう詰めだ。
私と野々宮は自分の出番前に客席を来客にゆずるために控え室に移動して、最初のグループの3番目のダンス・パフォーマンスを見ることができなかったくらいだ。

演目が押し押しで、予定されていたグループごとのアフタートークの時間は取れず、私たちは最初のグループのすぐ後にやることになった。

茶会記のピアノはアップライトで、本番まで一度も触っていなかったので、「やりましょう」という時間になって初めて、ピアノを触った。
調律のあんばいを調べるふりをして、そのまま演奏にはいる。
つなぎのBGMとしてなにかロック音楽がかかっていたのにかぶせて、演奏をはじめる。
この、お客さんをだまし討ちにする感じが、私にはけっこう楽しい。
音響担当の人も気付かなかったのか、なかなかBGMが落ちなかったが、そのうちBGMが消え、そのままパフォーマンスへと突入。

BGMを引っ張った私のピアノ演奏の、ちょっとゆるんだ隙をねらって、野々宮がすかさず「繭世界」のテキストではいってきた。
いきなりトップスピードだ。
昨日、明大前で濃密な公演を2回、いっしょにやっているので、その延長をやっているような気もする。

ところで「繭世界」というテキスト(http://mizro.blogspot.jp/2011/05/blog-post_31.html)は、ふたりで朗読するように書かれているものだ。
見ればわかるが、上下二段(左右二段)にテキストがそれぞれ書いてある。
野々宮がひとりで読むときは、それらの行をつなげて書かれたとおりに順に読んでいくので、聴いているほうはふたつのストーリーが分断されてなにがなんだかわからなくなってしまう。
それがまたおもしろい効果を生む。

聴いてくれている人たちがものすごい集中を向けてくるのを感じながら、私も存分に「いまここ」を味わいながら即興演奏と野々宮とのやりとりを楽しませてもらった。
昨日につづいて幸せな時間だったが、昨日同様、それが特別な時間というわけでもなく、ただ起きるべきことが起こっているという安定感のなかにいつづけることができた。

それはそれとして、私がこのイベントでもっとも感銘を受けたのは、主催者の金野くんとそのお仲間のパフォーマンスだった。

日下部泰生という人のペインティング・パフォーマンス。
身体性がすばらしく、舞踏のような動きで壁面に抽象的なイメージを描いていく。
水で濡らすと黒く変色する特殊な紙を使っていたようで、乾かすと白くもどる。
最後の、ドライヤーを使ったり、自然に乾いて白くもどっていくイメージがとても美しくて、涙が出そうになるほどだった。

そのあと定方まことという人の朗読と金野くんのダンスパフォーマンスがあったのだが、これが心打たれた。
辺見庸の震災詩を読む定方さんの、飾らない、真摯で正直で、エネルギーのこもった感じと、金野くんの全身全霊を使った動き。

あとで気づいたのだが、金野くんといっしょにやっている人たちは、みんなイケメンで、すばらしく肉体派で、ただそこにいるだけで優越性があるような男たちだ。
しかし、そんなことをひけらかさず、まじめで、正直で、控えめで、しかしパワフルで、とても魅力的だ。
これから間違いなく活躍していく人たちだろうと思う。

現代朗読体験講座(3.20)
朗読をはじめてみようと思っている方、すでにやっているけれど物足りなさや壁を感じている方、その他表現に興味のある方、まずは進化しつづける現代朗読を体験してみませんか。3月20日(日/春分の日)午前、羽根木の家にて。

2016年3月14日月曜日

「沈黙[朗読X音楽]瞑想」2回公演が終了

2016年3月11日。
東日本大震災からちょうど5年めの日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースで、3か月ぶりとなる「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演をおこなった。
今回ははじめて、昼と夜の2回公演だった。

14時前に羽根木の家を出て、明大前までてくてく歩く。
寒い。
真冬にもどったような寒さだが、さいわい、朝方まで降っていた雨はあがった。

14時すぎにキッド・ギャラリーに到着。
ホールスタッフの工藤くんと相談しながら、会場セッティング。
ギャラリーは3階と4階の吹き抜けになっていて、階段で行き来できる。
ピアノは3階にあって、そこに椅子を7、8脚セット。
4階にもおなじくらいの席をセットできるが、手すりから下を見下ろせるような形にならべる。

農大出身のさきちゃんがちょっと早めに来る。
彼女はNVC合宿のIITのときにおこなった「キリンくじ」の当選者で、賞品のひとつとして私が出した「水城を読んでホームコンサートをおこなう権利」を獲得していた。
その権利の代わりとして、この公演に招待させてもらった。
結果的にとてもおもしろがってくれて、夜の公演もつづけて参加してくれたほどで、うれしかった。

コンビニでおにぎり、サンドイッチを買ってきて、かるく食事して、開場。
げろきょゼミ生や共感カフェ参加の方のほかにも、ネット告知で興味を持ってくれた人が来てくれた。

15時、昼の部開演。
ピアノの即興演奏からはいって、すぐに野々宮卯妙の朗読がそれにからむ。
私はこの公演のためにオリジナルの新作テキスト「世界が眠るとき、私は目覚める」を2日前に書きあげたばかりだった。
この作品には新聞配達をする若者の日常からはいって、海、震災、空、星、夜明け、時間を超えることなど、最後は多層的なイメージが含まれている。
読むのはむずかしい作品と思われるが、もちろんそこは野々宮への信頼があって手を抜くことなく書いたものだ。
実際にテキストが音声化され、実体化して予想外のイメージを作りあげていくのを、私は共演しながら楽しむことができた。

沈黙パートではホールの外からのさまざまな音がはいりこんできて、複雑にからまりあった表現空間を作りあげているのがおもしろかった。
それに呼びこまれる形で、私の演奏もいつになく音が多くなり、フロー状態が深くなってゾーンにはいっていくのがはっきりとわかったほどだ。

16時すぎに終演。
お茶とお菓子を出して、みなさんと歓談。
この時間がまた楽しい。

17時にいったん会場を出て、さきちゃん、野々宮と駅前のドトールで休憩。
そのあと、私は個人的に話を聞いてあげたい人と約束をしていたので、駅でその人をピックアップしてドトールにもどり、共感的に話を聞かせてもらう。
みじかい時間だったが、ニーズを聞かせてもらえたし、私がその人になにをしてあげたいのか、なにが必要なのかも明確になった。

18時すぎに会場にもどる。
さきちゃんがもどってきて、iPad Pro とペンシルでお絵描き。
19時すぎ、想さんが早めに来られたので、会場やこのイベントの説明をすこしする。
そのあと、夜の部開場。

夜に部にもゼミ生が何人か来てくれたし、カルメン・マキさんがわざわざ来てくれたり、ひさしぶりに川橋さんのお顔を拝見できたり、先日の想さんのイベントにも参加してくれたカメラマンの伊藤さんや、三木くん、野々宮のつてで朗読を自分のライフワークにすると決めている方が来てくれた。

少人数ではあるが、なんとなく満席に近い感じのなか、20時開演。
さて、今度も私の演奏からはいろうとしたら、野々宮に先を越されて朗読からスタート。
お互い即興なので、昼の部とはまったくちがう展開、音になっていく。

とはいえ、私は昼の部とおなじ試みをやってみた。
ピアノから離れ、手拍子や足踏みで音を出したり、水筒を使って階段の手すりを叩いたり、上り下りしたり。
口笛を吹きながらピアノを弾く、というようなこともやってみた。
楽しかった。
いつものことだが、一番楽しんでいたのは私だったろうと思う。

21時すぎに終演。
ワインとつまみを出して、みなさんと歓談。
マキさんから、
「水城さん、ほんとにピアノを弾いていたの?」
と聞かれたのにはちょっとびっくりした。
どういうことかというと、真っ暗ななかでピアノの演奏が聞こえてきたとき、本当は私は弾いていなくて、あらかじめ録音した演奏を流しているんじゃないかと思ったそうだ。
もちろんそんなことはなく、マキさんも冗談半分でそういうことをおっしゃったのだろう。
私は最大の賛辞と受け取って、うれしかった。

今回の公演では、昼も夜もみなさんからとても好意的なことばを共感的に伝えてもらって、豊かな気持ちになった。
ありのままの正直で無防備な、いきいきとした私たちの生命活動である表現を、そのまま全部受け取ってもらえた感じがして、とても幸せだ。

私自身も自分がいまこの瞬間にいきいきしているものを全部表現しきったという感じがあったけれど、同時になにか特別なことをしたという感じはなく、日常の連続した時間のひと区切りを通過したという、ごくあたりまえな気もしている。

終わってからのぞみさん・野々宮と3人で近くの安い中華料理屋に行って、軽く打ち上げたのだが、隣の席に想さんと伊藤さんがいてびっくりした。
気分よく飲み食いして、また歩いて羽根木の家まで帰った。


「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演@明大前キッドギャラリー(6.18)
ともに深く、ことば、静寂、音、そして空間とご自分の存在そのものをあじわうこと。ご来場いただいたみなさんにある種の「体験」を提供する試みです。14時からと18時からの2回公演。

2016年3月13日日曜日

水色文庫新作「世界が眠るとき、私は目覚める」

水色文庫の新作「世界が眠るとき、私は目覚める」を登録しました。

このテキストは2016年3月、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉のギャラリースペースでおこなった「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演のために書きおろした作品です。

自分のニーズに深くつながる(自己共感する)と身体が変わる

共感的コミュニケーションの勉強会で、まったくの初心者や、まだあまり学習が進んでいない人から、
「どうやったらニーズにつながったということがわかるんですか?」
という質問を受けることがある。

ニーズというのは文字通り、その人がいま必要としていることだったり、大切にしている価値観だったり、いくつかの表現があるけれど、そこから行動や感情が生まれる人の根源的なモチベーションのようなものといえるかもしれない。
あるいは活力の燃料/原動力のようなものといってもいい。

これにつながったとき、つまり「自分にはいまこのニーズがある」と実感したとき、人はいきいきと活動をはじめることができる。

どうやったら自分がニーズにつながったとわかるのか。
答えは、
「ただわかる」

ニーズにつながる経験を一度すると、それははっきりとそうわかるのだ、ということが体験としてわかるだろう。
ニーズにつながったとき、多く人がはっきりと身体のありようの変化があらわれる。

緊張が解けたり、あるいは逆に脱力していた身体に活力がみなぎってきたり、ハッとなったり。
昔の人はなにかを深く理解することを「腑に落ちる」と表現した。
まさにそのようなことがニーズにつながったときにも起こる。
「腑」というのははらわた/内臓であり、自分の身体の内のことだ。
そこにものごとの理解が文字通り「落ちる」のだ。
すとんと身体になにかが落ちてくるような感覚、これはだれしも経験があるだろう。
ニーズにつながったときも、そのようなことが起きる。

自分自身がニーズにつながったときも身体の変化としてそれがわかるが、他人がそうなったときにもそれは視覚的変化としてくっきりとわかる。
「あ、この人、いま、ニーズにつながったな」
というのが、見ていてわかる。
逆に見ていてわからないようなら、言葉でいくら「つながった」といっていても実際にはつながっていないかもしれないと疑ったほうがいい。

問題がひとつあって、我々現代人は非常に利便性の高い現代生活のなかで、自分自身の身体や他人の身体をとらえたり観察する「目」を失ってしまっていることが多い、ということだ。
自分の身体をわかっているつもりでいて、それはたんなる「脳内イメージ」にすぎなかったりする。
実体として、実際の感覚として、実感として、自分の身体の「いまここ」のありようをマインドフルにとらえられるかどうか。

ニーズに深くつながるためには、自分の身体をどれだけ実体として見ているかが重要になってくる。
幸い、そのために有効な練習法はたくさんあって、ワークや勉強会でおこなわれている。


共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を3月20日(日/春分の日)夜におこないます。

2016年3月12日土曜日

自分の痛みに向かいあう、そのことが教えてくれること

共感カフェではとても深い痛みを抱えた人の話を聞くことがある。
その痛みがあまりに深く強いので、その人は自分でもどうしていいかわからず、またそのことがさまたげとなって自分のニーズを満たす行動を取れずにいることがある。

たとえば、とても大切な人と別離したことが痛みとなり、だれかと親密になったり、その人のことを大切に思いはじめたとき、またおなじような別離がおとずれるのではないかという怖れが生まれ、行動をにぶらせてしまったり、ゆがませてしまったりする。
たとえば、心をこめて表現したことが、だれかの気にさわり、攻撃されたり非難されたりこきおろされたりした経験が、ふたたびのびのびと無防備に表現することを妨げたりする。

そのような痛みや怖れはだれもが多かれ少なかれ抱えているといっていい。
私のなかにももちろんある。

痛みや怖れがあったとき、私の経験では、それをなかったことにして無視したり、強引にねじふせようとして強い行動に出たり、それに触れないように行動を迂回させたり、逃げたり、といったことをやってしまう。
当然、行動はねじれ、すっきりしない。
いつまでももやもや感が残る。

しかし実は、その痛みや怖れは、私にとってなにが大切なのか――私のニーズを教えてくれる指標なのだ。
その痛みや怖れを受け入れ、向かいあってみたとき、その奥にあるニーズに気づくことがある。
自分がなにを大切にしているのか、痛みや怖れが教えてくれるのだ。

自分のなかに痛みや怖れがあることに気づいたとき、むしろそれを喜んで迎えいれてみるといい。
自分のニーズが現れてきたら、今度はそのニーズを満たすためになにができるかもわかるかもしれないし、満たす方法が見つからない場合はそのこと自体を悼みきる。
悼みきれていない痛み(unmoaned pain)はずっと私に悪さをしつづける。
悼みきる、嘆ききることが必要なのだ。
そのことに時間がかかることもあるが、ここに手を抜かずにしっかりとやる。

痛みや怖れが現れたとき、自分がそれにどのように対峙し、どのように応じようとしているのか、それをしっかりと見極めていく練習は、あとあととても役に立つだろうし、自分の人生をパワフルにしてくれるだろう。


共感カフェ@羽根木の家(3.25)
3月の羽根木の家での共感カフェは、3月25日(金)19〜21時です。

2016年3月10日木曜日

Shining wings 企画「マインドフルネスと共感のライブセッション」終了

3月6日(日)は西麻布いきいきプラザというところで、Shining wings が企画した「マインドフルネス&共感的コミュニケーションLIVEセッション」のゲストスピーカーとして話とワークをしてきた。

Shining wings の代表の安倍想さんが年明けから精力的に準備をしてくれて、ほかにも何人かの方のご協力をいただいて今回の実現にいたった。
初回は少人数での開催だったが、とても暖かな雰囲気で、安心できるつながりのあるコミュニティの芽が生まれたのを実感して、私としてもいくらかでもお力になれたことをうれしく思っている。

会は午前10時半すぎにスタート。
内容はマインドフルネスや共感的コミュニケーションについてのレクチャーを、いくつかのワークや実例をまじえてすすめていったほか、マクロビオティックの料理人・越澤彩子さんによるランチを使った「食べる瞑想」の体験などもおこなった。

少人数だったので、参加のおひとりおひとりと向かい合うことができたように感じて、集まりの初回としては理想的な面があったように思う。
今回参加されたみなさんと、また Shining wings の企画イベントでお会いできればうれしいし、今回残念ながら参加できなかったけれど興味を持ってくれている方々ともおいおいお会いできるとうれしい。
そしてあらたな出会いもこれから生まれてくるだろう。

ともあれ、共感的コミュニケーションとマインドフルネスをベースにした、お互いに尊重しあう安心できる関係性といきいきした創造性を大事にした場として育っていってくれればと願う。
私もそのことに貢献したいと思っている。

ぜいたくな希望をいえば、さらにこの場に「音楽瞑想」のコンサート(ピアノ演奏)のチャンスがあれば、より充実した感じになるかな、私としては。
もっとも、それは会場の制約があるので、必須条件というわけではない。

次回は5月の連休の終わりのほうになるのかな?
あらためて詳細についてのアナウンスが近くできるときを待っている。

そして明日・金曜日は、私自身のマインドフルネスと共感的コミュニケーションにおけるとくに「表現」の実践の場としての「沈黙[朗読X音楽]瞑想」の公演がある。
みなさん、どうぞおいでください。
詳細はこちら

2016年3月9日水曜日

In Memory Of Yukki(福井県立病院でのオープニング即興ピアノ演奏)

2016年3月9日、本日、私の大切な友人(私よりずっと若い)であるゆっきー(Yukki)こと石井佑都杏が天に召されました。
私もいずれ、そう遠くないうちにそちらに行くよ。

すこし前の演奏だけど、福井県立病院で数か月おきにやっているピアノコンサートから、ゆっきーのことを思いながら編集してみました。
ゆっきーの朗読映像とともにご覧ください。
「5つのマインドフルネス・トレーニング」
演奏映像はこちら(画像をクリックしてください)。

映画:デビル(The Devil's Own)

1997年公開、アメリカ映画。
主演はブラッド・ピットとハリソン・フォード。
とくれば、私の好物の「お金のかかったバカ映画」のにおいがプンプンする(笑)。

と予想して、わくわくしながら観はじめたのだが、「バカ」とジャッジをくだすには微妙だった。
まず、テーマというか設定がかなりシリアス。

ブラピは指名手配中のIRAの大物工作員で、もう何人も殺しているやり手だが、まだ一度も臭い飯を食ったことがない。
彼は幼少時に、漁師でありながらIRAのシンパだった父親を、家族の面前でイギリス兵にぶち殺されたという過去を背負っていて、自分の危険をかえりみない復讐心に燃えている。

そんな彼はヘリコプターを撃ち落とせるスティンガーミサイルを入手するために、(なぜか)ニューヨークに乗りこみ、IRAのシンパであることを隠してIRAのために資金調達に動いている判事の紹介で、ごく普通のまじめな警察官の家に下宿することになる。
その実直な警察官がハリソン・フォード。

フォードの側にもストーリーがあり、相棒があやまってこそ泥を撃ち殺してしまったり、思春期の娘たちに手を焼いていたりする。
そこへブラピがやってきて、はじめは平和なのだが、プラピのミサイル取引のトラブルからフォード一家にも危険が及んでくる……
という、後半はそれやりに錯綜したストーリー展開になっていく。

せっかくの練られた設定とストーリーにもかかわらず、映画的というか、興行収入のためというか、カーアクションとか銃撃戦とか、無駄な殴り合いとか爆破シーンとか、それがけっこう映画のクオリティを台無しにしているというのは私の個人的感想なのだが、そもそもそういうお金のかかったバカシーンをこちらはなんの痛手も感じずにお茶の間で無責任に楽しんでいることも確かで、きっと作り手の現場ではいろいろと大変なこともあったに違いない、どんな映画であれ最終的一本の作品としてまとめあげられて私たちのところに届けられる形にしてくれてありがとう、というのが私の正直な気分なのである。

あ、そうそう。
ブラピにかんしてひとつ気づいたことがあって、彼は感情が微妙なシーンになると、意識的なのかそうでないのかわからないけれど、口をひらいてわずかに頭を揺らす癖がある。
癖なのか、ねらってやっているのか、それはわからない。
ひょっとして、アレクサンダーテクニークを駆使しているのかもしれない。


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2016年3月8日火曜日

人にとって「表現すること」が必要な理由

広くとらえれば、どんな人も生きている以上、かならず表現しているともいえるが(仕事したり話したり歩いたり料理したり)、狭義のいわゆる「表現行為」といわれるものにチャレンジすることでさまざまな気づきがあったり、世界の見え方そのものが変わってしまうことがある。
すべての人が表現行為をおこない、表現者をめざすとき、ひょっとして世界は大きく変わるのではないか、というのが私の持論だ。

表現行為のなかでももっとも敷居が低く、かつ奥行きも深いのが、「朗読」という表現行為だ。
ここで強調しておきたいのは、「伝達」としての朗読ではなく、現代朗読に代表されるような「表現行為」としての朗読に注目している、ということだ。

音楽が楽譜を伝えることが表現の目的ではないように、あるいは絵画が対象のモデルや静物や風景を伝えることが表現の目的ではないように、現代朗読もお話を伝えることそのものを目的とはしていない。
他の表現行為の目的がそうであるように、現代朗読も自分自身のいきいきとした生命存在を表現し、そのことで他者とつながりあうことを目的としている。

このような表現行為にはいっていくとき、必然的に表現者は自分自身をどのようにとらえるかという問題に直面する。
自分自身とはなんなのか、いまどんな感じなのか、ここにある生命はいまどのように動きたがっているのか、あるいはなにを必要としているのか。

ひょっとしてそのことを直視することに怖さや恐れを感じる人もいるかもしれない。
むしろ多くの人がそのことから目をそむけて、日々のルーティーンや社会的役割を演じることで表面的に生きているといってもいいかもしれない。
しかし、忘れたくないのは、私たちはたった一度きりの自分自身の人生を、いままさにこの瞬間に生きているのであり、そのことに気づきつづけていることこそ自分の人生を生きることにほかならない、ということだ。

表現行為ではまさに、いまこの瞬間の自分自身を見つめ、把握し、気づきつづけ、そして表現することをおこなう。
自分自身の人生を生きるということのエッセンスが、表現行為をおこなっている瞬間にあらわれるのだ。
エッセンスを強烈につかみつづけることで、表現行為を離れた日常の時間においても生活のクオリティが劇的に変質していく。
そのことは私自身の実感として、ここにある。

とはいえ、私も最初からそのような実感があったわけではない。
表現が社会的に規定された技術的優位性や情報伝達の効率をもとめるものではなく、自分自身の生命の闊達さにアクセスし、それを取りだし、そこに提示する行為であるということに気づいたのは、遅まきながら年齢にして50歳をこえるあたりのことだった。
以来10年近く、ようやくこのごろ、自分自身のなかにどのような闊達さがあり、輝かしい生命の働きがあり、それがどのように表出されたがっているのかに、わずかながら気づけるようになってきた。
これをさらに深め、もっともっとのびやかな表現を進めていけたらと思っている。

そのような世界にすべての人がはいってみればいい。
自分自身のありようをふくめ、風景と時間の感覚ががらっと変わることがわかるだろう。
それは朗読という、非常に簡便な、だれにでもできる表現行為でも、もたらされる感覚だ。
その感覚をつかまえたら、自分の人生がいかに貴重ですばらしいものであるか、同時に他者の人生も、すべての人々の存在も、それぞれ貴重でかけがえのないものであるか、だれもが気づくだろう。

朗読生活のススメ全10回コース、スタート(4.2)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身の全10回講座です。

2016年3月7日月曜日

直近のおすすめイベント(共感、オンライン、瞑想、沈黙)

イベントがつづくので、いつもお知らせはちょくちょく流しているけれど、直近のものをまとめてご紹介。
よければ付き合ってね。

共感カフェ@下北沢ステイハッピー(3.7)
下北沢の旅カフェ〈Stay Happy〉の共感カフェ、夜開催は3月7日(月)午後20時から。だれでも参加できるオープンで気楽な雰囲気の勉強会です。参加費1,000円+1オーダー。

いつものステハの夜共感カフェ。
前回はなぜか参加者が多かったけど、今回はたぶんいつもどおり少人数。
ゆったり、気楽に、でもしっかりとつながりの勉強をしよう。

水城ゆうのオンライン共感カフェ(3.8)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会です。3月8日(火)20時から1時間。

先月からスタートしたオンラインミーティングを利用した勉強会。
これ、参加してくれた人にはみんな好評なんだよね。
なので、ぜひ参加して。
とっても気楽なオンライン参加だし。

「沈黙[朗読X音楽]瞑想」公演@明大前キッドギャラリー(3.11)
ともに深く、ことば、静寂、音、そして空間とご自分の存在そのものをあじわうこと。ご来場いただいたみなさんにある種の「体験」を提供する試みです。14時からと20時からの2回公演。

ひさしぶりにやってきたよ。
あらたな作品を投入するよ。
パワーアップしてるよ(きっと)。

少人数の共感カフェでは実践練習する(草加Jugem)

3月1日(火)の夜は、毎月開催している草加市の天然石ジュエリーのお店〈Jugem〉で、店長の川崎実雪さんが主催してくれる共感カフェに行ってきた。

都内ではないことと、スペースがこじんまりしていることとで、新規の参加者がしばしば来るわけではないのだが、この夜は2名の方が初めていらした。
男性と女性。
ふたりとも草加にアクセスがよいとのことで、また来てくれそうでよかった。

女性の方は共感的コミュニケーションはほとんど初めてに近いということで、最初にNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の創始者であるマーシャル・ローゼンバーグのことや、共感の定義、その原理などを手短に説明させてもらった。

私には自分のオリジナルな表現とプレゼンス(いまこの瞬間のいきいきさ)のニーズがあって、人に共感的コミュニケーションの説明をするとき、いつもその時々のいきいきした表現につながっていたいと思う。
つまり、毎回、いうことがちがう(笑)。
なるべくちがう角度からの説明をこころみたり、言葉を変えたり、ちがった比喩をもちいたりと、チャレンジのニーズもある。
それがうまくいくときもあれば、うまくいかないこともある。

うまくいかなくてもしまったとは思わない。
なぜなら、そのあとにつづく実際の事例を取りあげてのワークや実践的な練習のなかで補完できるからだ。
とにかく、毎回おなじことをいうのは、死ぬほどいや。

最初の説明のあとは、実際の事例を取りあげてのワーク。
相手がなにかいったことですぐにカッとなって、自分や相手を責めてしまって喧嘩になってしまう、という例とか。
こういう例はもう本当に多くて、ほとんどの人がそのような性質というか反応を身につけてしまっている。
そういう私ですら、たまにそういう反応があらわれて、相手と衝突してしまうことがある。

自分のいったことやおこなったことがきっかけで、相手がなにか反応したりこちらを評価したり、攻撃したり、あるいはただ感想を伝えてきただけなのに、それが自分のニーズに触れて感情がトリガーされることがある。
そんなとき、まず緊急処方箋として「それはあなたがそう思っているということなのね?」と、相手の反応を自分から切りはなし、相手の反応は相手のニーズにもとづいたものなのであるという、ちょっと距離を置くための言動が有効だ。
そうやってスペースを確保しておいて、すばやく自己共感する。
自己共感して落ち着いたら、相手のニーズに興味を向けてみる。
この一連のプロセスが有効で、練習してみるといいと思う。

べつの事例として、自分が歯をみがくのがとてもめんどくさく感じている、というところからみんなで共感していって、じつは生活の安定や安全、平和、居場所といったものをとても大事にしているのだ、というニーズまでつながっていったりして、興味深かった。

実雪さんの娘で、げろきょのゼミ生の満里菜は、ほとんど毎回この共感カフェに出てくれているのだが、そのニーズを教えてもらって、私は彼女への感謝の気持ちがたくさん生まれた。

来月4月のJugem共感カフェは、4日(月)夜の開催予定となった。
興味のある方、お近くの方はどうぞ。
詳細はこちら

2016年3月5日土曜日

オンラインで名古屋、九州、東京を結ぶ(共感カフェ)

今月にはいって最初のオンライン共感カフェを開催した。
先月、野々宮卯妙の代打でファシリテートしてきた名古屋のワークショップの参加者が参加してくれたほか、北九州でのイベントで小笠原春野さんがファシリテートしたNVCのワークショップの参加者や都内の自宅からの参加者など、今回もオンラインならではの気楽さでおこなうことができた。
(ここ数年で急速に普及したスマホやタブレットなどネットにつながっている機器は、こういうふうに活用もできるよね)

昼開催で、16時からスタートして60分間という時間枠だったが、私はそのあとすぐに草加のJugem共感カフェに移動する予定があった。
そんなスケジュールでもオンラインだとさっと切りあげて次の予定に移れるという気楽さがある。
この気楽さは、多くの人に利用してもらいたいところだ。

自分の満たされたニーズのお祝いや、満たされなかったニーズの嘆きを聞いたりした。
ニーズについて共感的に聞く人に語るとき、人は涙を流すことが多いが、その涙はお祝いや嘆きの甘美さとともに充分に味わいつくす必要があり、またそのことを自分が喜んでいることにも気づくことができる。

オンライン共感カフェは時間枠を60分と限定していて、それはできるだけ解説をはぶき、ダイレクトに実践的な練習にはいっていきたいというねらいがあるからだ。
だから、共感的コミュニケーションをまったく知らない人ではなく、一回以上なんらかのワークショップに参加したり、私の勉強会に参加したことがあったり、あるいは私の本『共感的コミュニケーション』を読んだことがある人などを対象にしたいと思っている。
とはいえ、限定しているわけではない。
とにかく気楽なので、まずは参加してみてほしいという気持ちがある。

また、オンラインだけでなく私の勉強会はいずれもそうなのだが、できるだけナチュラルな日常言語(もちろん日本語)を使って共感できるようになるための練習をしている。
理想は、共感的コミュニケーションを知らない、暴力的な日常を生きている人たちに、それと気づかれずに共感し、つながりを作る方法をこちらが身につけることだ。

ホルヘ・ルビオはこれを「シークレット・エンパシー・コマンドー」と呼んでいたな。

水城ゆうのオンライン共感カフェ(3.15)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会です。3月15日(火)20時から1時間。

2016年3月4日金曜日

三鷹〈おんがくのじかん〉で遊んできた

初めて行く店。
三鷹の南口の商店街をしばらく南下した、小さなビルの地下にあるこじんまりした店。
J-POP中心のようだがインディペンデントの音楽レーベルもやっているらしく、たくさんの自主制作CDが展示されているほか、興味深い品揃えの蔵書やウイスキー各種がならべられ、趣味的な要素を感じる独特の雰囲気の店だ。

ここでオープンマイクイベントをおこなっているというのを、ゼミ生のみぞれちゃんとてんちゃんから聞いて、私もちょっと出てみたくなって、エントリーしてみた。
オープンマイクとはいえ、出演枠は30分あり、またリハーサル時間もそれぞれ20分しっかり取れるという、いわゆる対バンライブと同等のあつかいで出られる。

ピアノ演奏だけでなく、ゼミ生の川崎満里菜を誘って朗読パフォーマンスとの組み合わせで出ることにした。
ほかに、てんトコラ、山田みぞれ、そして弾き語りの女性がふたり(坂口沙子とおかありな)が出演。

16時からリハーサルスタートということだったが、私と満里菜のリハーサルは最後、そして出番は最初だったので、17時半ごろに行って、さっくりとピアノとマイクのテストをして、すぐに食事に出た。
すでに来ていたみぞれちゃんと夫のたかさんが近くのファミレスで食事していたので、合流(ここからすでに楽しい時間が……)。

開演の19時すこし前に店にもどる。
てんちゃんが一昨年から連続長編朗読に挑戦していた『武装せる市街』の最終回ということで、てんちゃん関係の応援隊がいらっしゃってにぎやかになった。
ゼミ生のKATや恵子さん、千代さん、梓や、若手朗読者の飯干くん、パフォーマーのふくおかくんらも来てくれた。

私と満里菜はしょっぱなの出演で、19時ちょうどにスタート。
まず私がすこしお話をさせていただき(まあ雑談ですが)、即興ピアノ演奏でスタート。
しばらくピアノを弾いていなかったので、まあ指が動かないこと!
しかし、弾いているうちにだんだん調子が出てきた。
前半を自分のウォーミングアップに使ってみなさんには失礼であった(でも後半の満里菜との共演はおかげでとても集中できた)。

持ち時間の半分くらいで満里菜登場。
私のテキスト「初霜」(http://mizro.blogspot.jp/2009/10/blog-post_12.html)を椅子にすわって読む。
途中の「死ね、女」というセリフで立ちあがって、台本をバーンと床に叩きつけて、いったん退場。
私の間奏のあと、ふたたび登場して、最後まで読む、という構成であった。

それにしても、満里菜はとても音をよく聴いていて、いいパフォーマンスだったと思う。
いつもいうことだけれど、共演していると、朗読者がこちらの音をどのくらい聴いているかどうかは、手に取るようにくっきりとわかる。
こちらも朗読者の声と音を全部受け取っている。
お互いに反応しあう、というレベルを超えて、ノンバーバルなコミュニケーションがそこに生まれている。
楽しかったな。

朗読のもようをYouTubeで公開したので、よかったらご覧ください。
映像はこちら

私たちのあとはてんちゃんが最後の『武装せる市街』を読んだ。
構成が工夫されていて、最後にふさわしいおもしろさだった。
そしてステージが終わったときは、なんとなく感無量。
おめでとう、そしてお疲れさまでした、てんちゃん。

弾き語りの女性をはさんで、山田みぞれの朗読パフォーマンス。
萩原朔太郎の「ウォーソン夫人の黒猫」というテキスト。
私は初めて聴いたが、おもしろかった。
そして先日の「とてもまじめな朗読会」につづいて、みぞれちゃんの多彩でおもちゃ箱のような朗読を楽しませてもらった。

ふくおかくんから「げろきょオープンマイクをまたやらないんですか?」と聞かれたんだけど、5月くらいにまた四茶でやろうかと計画している。
まだ決定ではないけれど。

現代朗読体験講座(3.5)
朗読をはじめてみようと思っている方、すでにやっているけれど物足りなさや壁を感じている方、その他表現に興味のある方、まずは進化しつづける現代朗読を体験してみませんか。3月5日(土)午前、羽根木の家にて。

2016年3月3日木曜日

カルメン・マキさんのライブに行ってきた(下北沢)

2月28日、日曜日の夜。
下北沢の〈レディ・ジェーン〉にカルメン・マキさんを聴きに行ってきた。

7時半開演のところを、7時20分くらいに行ったら、入場待ちの人が行列を作っていて、びびった。
先日、予約をいれるためにビッグトリィに電話したら、大木さんからあやうく断られるところだったのを思いだした。
名前を告げてなんとか受け付けてもらったんだった。

会場は超満員で、ぎゅう詰め。
私の近くに詩人の条田瑞穂さんがいらして、私のことをおぼえていてくださった。

ちょっと窮屈ななか、遅れめでライブスタート。
バイオリンの太田惠資さんとピアノの清水一登さんがこの夜の楽器隊。
ふたりによる即興演奏からスタート。
まあその音楽会話の自在なこと、スリリングなこと。

たっぷり堪能させたあとに、マキさんがおもむろに朗読でスタート。
なんと、いきなり私の「眠らない男(人)(He Never Sleeps)」を読んでくれて、びっくりする。
それにしても、楽器とのからみが美しい。
朗読というより歌、歌というより声、そして音楽。
私が書いたテキストではあるけれど、内容なんてどうでもいいもんね(笑)。

というようなことはなく、このテキストはこれなりに意味の多重性をふくむ立体的な世界を提示しているつもり。
マキさんはそこのところを十全に読みこんでおられることは、聴いていればわかる。
オーディエンスの何人くらい、そのことを受け取ってくれているだろうか。

そのあとにつづけて歌。
どこまでが朗読でどこからが歌で、とか、音楽的構成がどうとか、そういうものをすべて超えて、カルメン・マキの世界としかいいようのない表現空間がそこにあらわれてくるように感じて、わくわくした。

ファーストステージではさらに私の「Bird Song」も読まれた。
まったくドキドキする時間だった。

セカンドステージもその延長ではじまった、と思ったのだが、さらに大きな展開があり、のりのりの曲あり、予測不能の即興あり、メッセージ性の強い朗読ありと、さらにスリリングな時間となった。
マキさんのライブはひさしぶりだったが、本当にこの人は日々動きつづけ、努力をおこたらないアーティストなのだな、と思った。
追っかけてみるに値する歌い手のひとりにちがいない。

藤沢で先生方に共感的コミュニケーションを紹介してきた

神奈川県で環境教育の研究をされているグループの先生方に共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をレクチャーしに、藤沢まで行ってきた。

羽根木からは下北沢もしくは世田谷代田から小田急線一本で行けるので、そこそこ遠いけれどアクセスは楽。
海は見えなかったけれど、湘南の海沿いの空気を感じて、海のニーズに欠乏している私はすこし幸せな気分になった。

前提として、いま学校教育が直面している課題や問題についてお聞きする。
現場の生の声を直接聞けるのはとても貴重で、ありがたい。
そこにさまざまな葛藤、窮屈さ、悩み、つらさ、悲しさ、喜びなどがあることを、肌で直接聞かせてもらえた。

その上で、おひとりおひとりに共感を向けながら、コミュニケーションの話をする。
定時制高校で教えておられるひとりの先生は、やはりやる気のない生徒や、教室の秩序を乱すような生徒をどうあつかっていいのか、コントロールしきれないことがあって悩まれているという。

別の先生はものをこわす子ども、教科書を平気でビリビリ破ってしまうような子どもをどうあつかっていいのか、悩みを感じたという。

いずれにしても、いまの学校教育の現場では、生徒たちを「評価」するシステムががんじがらめにできあがっていて、ひとりひとりとゆっくり丁寧につながる時間がとても持てないという。
しかも教師側にも、生徒たちをなんとかコントロールしたい(それは自分が不安だったり怖かったりするからだが)とか、教室の秩序をたもつために懲罰制度を駆使しようという、パワーオーバーの欲求がある。

共感的コミュニケーションでは、なにかしでかしてしまっただれかとつながるのに、報復的な方法ではなく修復的な方法をもちいる。
教師と生徒という関係でもそうで、もしこちらが生徒の立場だったら、なにか罰を持ってこちらをコントロールしようとしている教師を信頼することができるだろうか、という話だ。

先生がたは共感的コミュニケーションのかんがえかたと方法にとても興味を示してくれた。
おどろいたり、いまの現状を嘆き悔やんだりして痛みを表現される方もいた。
私はそこに大きな希望を感じた。
先生方の痛みや悔しさ、悲しさ、窮屈さは、生徒たちと本当につながる必要があることを示している。
そこに希望を感じるのだ。

現場の学校のシステムを急激に変えるのはとてもむずかしいし、ひょっとして絶望的かもしれない。
しかし、生きる手段としてそのシステムのなかに踏みとどまりつつ、子どもたちを心から尊重したり信頼することによって人と人としてのつながりを作ることは不可能ではないと思うのだ。

また私を呼んでくれると約束してくれた。
よろこんでまた出かけるつもりだ。
学校教育の現場に行き、共感的コミュニケーションをシェアする意味は大きいと感じている。
現場で、学んだそのすぐあとから使える方法を、いっしょに勉強し、練習したい。


マインドフルネス☆共感的コミニュケーションLIVEセッション(3.6)
西麻布いきいきプラザにて3月6日(日)、瞑想やボイスセラピーや共感的コミュニケーションのオーガニックランチを交えたイベントで講師をつとめます。Shining wings主催。

2016年3月2日水曜日

2月の羽根木共感カフェは職場での悩み

2月26日(金)夜は、毎月恒例の羽根木の家での共感カフェをおこなった。
直前になって体調不良やら都合がわるくなったやらで、バタバタとキャンセルが4人も出たので、とっても少人数でやれるかと思いきや、結局私もいれて7人での勉強会となった。
なので、掘りごたつには入りきれず、ふつうに座敷の畳の上でやった。

まったく初めて共感的コミュニケーション(NVC)に接する人が2人、ほとんど初めての人が1人だったのだが、スタートアップの説明は全部はぶいて、実際の共感のプロセスを共有してもらうことにした。

こちらはサービス提供側、相手はそれを受ける側(つまりお客さん)というやりとりのときに、こちらが丁寧に対応しているつもりがお客さんの側が横柄だったり、客なんだからサービスされるの当然だろ的な態度に接して、ぷちっと切れそうになってつい乱暴な対応をしてしまうことがある。
その結果、相手も切れて上司へのクレームに発展してしまう、というようなケースがあって、そういう場合、どうすればいいのだろうという話。

共感していくと、たとえ相手がお客さんであってもこちらには平等のニーズがあるということが明らかになった。
また、相手に共感するという発想になれなかったため、相手にもニーズがあるという点に意識が向かなかった。
しかしもちろん相手にもニーズがあり、そのことを推測したり、実際に聞いてみることで、まったくちがう対応になったかもしれないし、結果もちがったものになった可能性はある。

失敗したとしても、その失敗から学べることがたくさんあって、つぎにおなじようなことが起こったとき、共感的に相手とつながることを試してみることができるだろう。

また別の方は、おなじ社内でも部署がちがうと利害ややり方がぶつかって、敵・味方みたいな感じにつながれないことがあるという。
そういう場合も、ニーズレベルで話をすれば、かならずおたがいに大事にしている共通のニーズがあり、そこから問題解決の方法をいっしょにかんがえれば、おなじチームとして創造性が生まれるはずだ。

3月6日(日)に西麻布いきいきプラザで私のマインドフルネスと共感的コミュニケーションのライブセッションを主催してくれる Shining wings の安倍想さんも来てくれた。
会場を春の森みたいなあたたかでさわやかな雰囲気にしたいとがんばってくれていて、私もとても楽しみにしている。
こちらでも共感的コミュニケーションの学びの機会をたっぷりと作る予定なので、都合がつく方はどうぞおいでください。
オーガニックな野菜調理人である越澤彩子先生によるランチもついて、とてもお得なイベントとなってます。

マインドフルネス☆共感的コミニュケーションLIVEセッション(3.6)
西麻布いきいきプラザにて3月6日(日)、瞑想やボイスセラピーや共感的コミュニケーションのオーガニックランチを交えたイベントで講師をつとめます。Shining wings主催。

そして3月の羽根木共感カフェは25日(金)夜に開催します。

2016年3月1日火曜日

川崎満里菜&水城ゆう「初霜」@三鷹〈おんがくのじかん〉

2016年2月29日、三鷹〈おんがくのじかん〉のオープンマイクイベントでおこなった朗読パフォーマンス「初霜」のもようを、抜粋でお送りします。
抜粋ですが、朗読部分は全部収録してあります。

 川崎満里菜 朗読
 水城ゆう  テキスト/ピアノ演奏

朗読に使用したテキスト「初霜」こちらで公開しています。
映像はこちら(画像をクリックしてください)。

山田みぞれ「ありふれた朗読会 Vol.2」

現代朗読・ゼミ生の山田みぞれの朗読会に行ってきた。
会場は阿佐ヶ谷の〈オノマトペ〉というこじんまりしたギャラリー。

あとで聞いたら、みぞれの夫のたかさんのアイディアだそうだが、ステージにあたる場所には布が垂らしてある。
2枚の大きな、やや透ける接着芯の布で、真ん中で軽くとめて1枚になるようにして吊るしてある。
その奥の、部屋のコーナーにあたる低い位置に、照明がひとつ。

山田みぞれはその照明と布のあいだにはいって、オーディエンスに姿を見せない状態で朗読する。
テキストは宮沢賢治の「貝の火」。

みぞれは動きながら読むが、布の向こうからは出てこない。
透ける布なので、照明で逆光になった姿がぼんやりと見える。
そしてその身体が作る影が布に映って動く。

照明、朗読者、その影が予測できない動きを作り、複雑な表現になる。
朗読者から発せられる声はその実体とシンクロしているが、声が思ったより反響するギャラリー空間で音がまわってこちらに届いてくる。
そして、影の動きとその音とはずれがあり、いささかエキサイティングな効果を生んでいる。

ギャラリーは幹線道路に面しており、通りを歩く人の足音、話し声、車やバイク、バスの通過する音、発車する音、救急車やパトカーのサイレンといった、いわば日常空間に直結する音がたえず侵入してくる。
その日常の音と、宮沢賢治のテキスト、空間をまわる朗読の声、影の動きが複雑に交錯して、いわば前衛的なインスタレーション空間をかもしだしている。

ごくたまに、布の端や隙間からみぞれの本体が覗くことがある。
それが驚くほど生々しい瞬間的な効果を生む。

みぞれは外から侵入してくる音にも反応している。
反応というより、受け取っている。
朗読者が外から侵入してくる音を受け取っているかどうかは、私のような専門家でなくてもオーディエンスには(たとえ無意識であっても)わかっているはずだ。
外からの音や刺激をシャットアウトし、感覚を閉じている朗読者と、感覚を開いて表現している朗読者とでは、その表れがまったく違うものとなるのは、すこし想像してみればわかることだ。

とても刺激的な朗読ライブだった。
朗読演出をやっている身として、山田みぞれにさらに伝えたいことがある。
現代朗読ゼミで伝え、試してみる機会があるといいなと思う。
山田みぞれには、空間と時間を操作するスキルを今後身につけていってもらうと、さらにすごい朗読表現者になるのではないかと想像している。

現代朗読体験講座(3.5)
朗読をはじめてみようと思っている方、すでにやっているけれど物足りなさや壁を感じている方、その他表現に興味のある方、まずは進化しつづける現代朗読を体験してみませんか。3月5日(土)午前、羽根木の家にて。