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先日、共感的コミュニケーションの勉強会でちょっとした難問にぶつかったので、紹介したい。
参加者のひとりが家をリフォームするために業者を呼んだ。
ドアの取っ手を取り替える必要があったのだが、おなじような取っ手を業者は持っていないという。
どう見てもそのドアにフィットしないものを取りつけようとしているので、別の業者から取りよせるなりなんなりして、ドアにフィットしたものを付けてくれるように頼んだが、取りあってくれない。
そして工賃もとても高いように感じた。
ネットで調べてみると、業者が「ない」といいはった品物はちゃんと売られていて、取りよせることは可能のようだ。
業者に対する不信感でいっぱいになってしまった。
という話だった。
こういう場合、どのようにすればいいだろうか。
このケースではふたつの障壁があって、共感的に相手とつながることをむずかしくしている。
ひとつめは「この人は信用できない」というレッテル張りをこちら側がやってしまっている、ということだ。
ある人に「こういう人だ」というレッテル張りをしてしまうと、その人の素顔が見えにくくなる。
その人にも大切にしていること、ニーズがあって行動しているのだが、それが見えにくく共感しにくくなる。
ふたつめの障壁は、業者が一個人ではなく「業者」とか「社員」といった仕事をせおった「立場」でこちらに対応している、ということ。
業者でなくても、お役所の人とか、医者とか、ファーストフード店のアルバイトといった「立場」で動いている人間は、かならずしも自分自身のニーズにつながって動いているわけではないので、共感的につながりを持ちにくくなる。
したがって、こちらがやりたいことはふたつある。
ひとつはレッテル張りをやめること。
相手もひとりの人間であり、そうである以上かならずなんらかのニーズにしたがって行動しているのであり、彼が満たそうとしているいまのニーズはなんなのだろうかという点に興味を持ちつづけてみる。
もうひとつは、「立場」で動いている相手にもニーズがあり、「立場」を守ることでどんなニーズを満たそうとしているのか、その点に興味を持ちつづけてみる。
「立場」を守り、そのルールで動いている人は、その立場とルールを守ることで自分のなんらかのニーズを満たそうとしている。
とどこおりなく仕事を進める安心や、ルールに守られることによって得られる安全、職を失わずに生活が安定することの安心の持続といったことを大切にしているのかもしれない。
その部分に興味を向けつづけ、共感し、できればそれを訊いてみる。
相手のニーズに共感することによって、相手も立場ではなく個人としての顔を見せてくれるかもしれない。
共感的なつながりは個人対個人でしか生まれないのだ。
お役所や銀行になにかの手続きに行って、理不尽な対応にイライラしたことはないだろうか。
そういうとき、上記のようなことを思いだし、顔の見えない「立場の人」と共感的につながる練習をしてみるというのはどうだろう。
※1月の共感的コミュニケーション勉強会は1月30日(木)開催。
詳細とお申し込みはこちら。