結果的には、ピアノレッスンとブラスバンド部をやめたことで私は好き勝手に音楽を楽しむ自由を手にいれたといえるかもしれない。
中学、高校と、私は弾きたい曲の楽譜を買ってきては我流で練習し、難しい部分はすっとばしたり、勝手に簡素にアレンジしたりして演奏を楽しんでいた。
その間に父のオーディオ機材もグレードアップして、家の居間には立派なステレオセットがやってきた。
レコードを聴くことはもちろん、FMラジオの高音質な放送を聴けるようにもなった。
また、これは高校になってからかもしれないが、カセットデッキが導入され、レコードやラジオ放送を録音して何度も繰り返して聴けるようになった。
これは私にとって大きなことだった。
音楽にしても本にしても、気にいったものを何度も繰り返し聴いたり読んだりする。
子どものころはだれもが、気にいった絵本を親にねだって何度も読んでもらったりするものだが、その繰り返しが学生時代までつづいていたのは、私の大きな影響を残したと思う。
本も乱読といってもいいくらいたくさんむさぼり読んだが、たくさんの本を読むと同時に何冊かの気にいったものを繰り返し読みつづけてもいた。
SFではロバート・ハインラインが気にいって、ほとんど読破すると同時に、とくに気にいった話は何度もリピートした。
アシモフの『銀河帝国の興亡』(ファウンデーションの話)も気にいっていた。
日本の作家でも小松左京や半村良の小説をリピートした。
高校生くらいになるとだいぶ難解なものにも手を出すようになって、安部公房の小説も繰り返して読んだ。
両親の本棚にならんでいた文学全集も端から順に読んだ。
とくに海外の翻訳ものは大好きで、一時はヘルマン・ヘッセにどはまりしていた。
小説だけでなく、旅行ものや動物もののノンフィクションもたくさん読んだ。
日本では畑正憲の一連の作品、海外ではコンラート・ローレンツの『ソロモンの指輪』など、あげだしたらキリがない。
■ジャズを発見する
高校生になってしばらくしてから、NHKFMに「ジャズフラッシュ」という週一の番組を発見した。
ジャズという音楽との出会いだった。
田舎にはもちろん、ジャズ喫茶などないし、あったとしても高校生の身分ではそんなところに出入りもできない。
生演奏というものにもほとんど接したことがなかったくらいだ。
中学生のとき、市民会館にNHK交響楽団がやってきたことがあって、そのときはじめて生のオーケストラの音を聴いた。
レコードで聴くのとまったく違う音色におどろいたり、楽団員のズボンや上着の裾がてかてかとすり切れて光っているのを見たりした。
ジャズは衝撃的で、それまで私が接してきたどの音楽とも違っていた。
最初は王道どおり、ビバップやモダンジャズの演奏をエアチェックしながら必死に追いかけていたが、曲名も演奏者もたくさんありすぎてとても覚えきれない。
ジャズという音楽の全貌を一度に全部把握しようとしたのが無茶だった。
途方に暮れていたある日、おなじジャズ番組からそれまでとまったく違う感じのサウンドが流れてきて、耳を奪われた。
それはウェザーリポートというグループで、いまでいうフュージョン、当時は電気ジャズだのクロスオーバーといわれていたサウンドだった。
「これがおなじジャズ?」
びっくりした私は、さっそくウェザーリポートを追いかけはじめた。
自分でも耳コピしてピアノでまねしてみたりした。
しかし、いかんせん複雑なバンド音楽をピアノ一台でコピーすることは難しい。
それならと、ピアノソロの演奏を探してコピーしてみた。
マル・ウォルドロンなどの大変暗い曲をコピーした記憶がある。
それが私のジャズ演奏のまねごとの最初だった。
それからはいろんなスタイルの演奏をまねしてピアノで練習したが、すべて我流だった。
学校にもジャズを聴く同級生はひとりもいなかった。
じつは小説の書き方も、ちょうどおなじころに私は「まねごと」をしていたのだった。