2019年11月26日火曜日

いまここにいるということ「身体・表現・現象」(末期ガンをサーフする2(14))

咳と息切れと腰痛と、ときには微熱が1か月近く全然おさまらないので、病院に電話をかけて診療放射線科の担当医に臨時に診てもらうことになった。
血液検査とレントゲン撮影。

検査結果は「異常なし」。
肺炎の「影」もなく、しつこい咳はおそらく、治りがわるい気管支炎だろうとのこと。
免疫力や回復力が低下しているのは事実。
しかし、肺炎ではないとしたら、ちょっと動くと息切れしてしまう「酸欠感」の理由がよくわからない。
まあ、体力回復を待ってみるか。

血液検査では「炎症」の値が赤になっているが、極端な数値ではなく、長引く気管支炎によるものだろうとのことだ。
腰痛もおそらく、これに関連している。
もともと腰痛持ちではないので、あまり心配はしていない。
痛み止めがよく効いているのと、眠くなったりだるくなったりという副作用が出ないので、つづけて処方してもらうことにした。

いずれにしても、なんらかの悪性のものではなくて安心した。
なるべく静かにして、身体を冷やさず、充分に栄養をとり、自然な回復を待つことにしよう。

■京都撤退

バンドマンの仕事がほとんどなくなってしまった私は、生活費にも困窮しはじめていた。
家賃が滞納しはじめて、引っ越しをかんがえなければならなくなってきた。
そのとき私は、市街地の北のはずれにある岩倉地区に住んでいたのだが、かなり贅沢に買いそろえた演奏機材を置けるだけの余裕がある、広々とした部屋を借りていて、家賃もかなり高かったのだ。

引っ越すとなると、京都にいること自体がなんとなくいやになってしまった。
京都という街は学生には大変寛容で、適度な刺激や歴史もあり居心地のいい場所だが、社会人として住みつづけるとなるといろいろ面倒なこともある。
社会的慣習もややこしく、なじむには相当の忍耐が必要だ。
もともとフリー体質の私にとって、京都という風土に自分をなじませるのはきつい面があった。

いったん「京都がいやだ」と思いはじめてしまうと、もうすぐにでも逃げだしたくなった。
私はいったん、福井の実家に「撤退」することにした。
両親もまだ健在で、私の「帰郷」を歓迎してくれた。
それはそうだろう、京都の大学に行ったはいいが、卒業もせずにバーテンダーだのバンドマンだの、わけのわからない風来坊のような将来の見通しもたたない生活をしていたのだ、親にとっては大きな気がかりだったにちがいない。

いったん決めたら、早かった。
ほとんど仕事もなく、切れて困る人間関係もなかった私は、さっさと引っ越しの手配をして、福井の実家に戻った。
1982年の秋だったと記憶している。