横浜のシェアハウス〈ウェル洋光台〉を訪ねてきた。
こちらでオーナー代行をされている戸谷浩隆さんとは、今年5月にガイアエデュケーションの講師で鈴鹿に行ったとき、初めてお会いした。
お名前は存じあげていて、戸谷さんも私のことを気にしてくれていたようで、初めてお会いしたときは共感的コミュニケーションについてうれしい質問攻めにあったのを覚えている。
そのときの戸谷さんの話もおもしろくて刺激に満ちていた。
なので、近いうちにウェル洋光台に遊びに行きますと約束して別れたのだが、ようやくいまになってそれが実現した。
事前の情報や戸谷さんの話から、ウェル洋光台はとても素敵なところなんだろうなと想像していたのだが、想像以上に素敵なところだった。
かつてある会社の女子寮だったという建物をシェアハウスとして使っているのだが、戸谷さんたちが古道具屋でみつくろってきたさまざまな調度品がすばらしく素敵で、居心地のいい空間を作っている。
とくに私が気にいったのは、一階の公共スペースとなっているリビングとキッチンだ。
ともに広々としていて、しかし古道具などの調度品でほどよく生活感のある落ち着いた雰囲気になっている。
住民はそこで思いおもいにつどい、自分の好きなことをしたり、話をしたり、子どもをあやしたりする。
キッチンには大きなテーブルがあり、また過去の住人も含むいろんな人が持ちこんだ調理器具がそろっていて、どんな調理もできるようになっている。
大きな鍋や巨大なオーブンがあるのも、シェアハウスならではだろうか。
そのテーブルに向かって調理したり、食材の準備をしたり、あるいは調理とは関係のない手仕事をしたりして、ただそこにいるだけでも居心地がいい。
私がめざす「縁側的共感空間」が実現している。
私が住人だったら、きっと一日中キッチンにいりびたっていることだろう。
料理をしたり、編み物をしたり、本を読んだり、だれかと話をしたり。
居眠りしたくなったら、隣のリビングに行って、ソファに横になる。
リビングは庭に面していて、庭の外側は崖になっている。
まさに陽光が降りそそぎ、風が通りぬける。
畑があり、野菜やハーブが育てられている。
また烏骨鶏が二匹放し飼いになっていて、これがまたかわいいんだ。
卵も産んでくれるらしい。
私はこの庭に日本みつばちの養蜂箱を置きたくなった。
絶好の立地だと見た。
この庭もそうだが、見渡したところこのあたりはそこそこ、緑地が点在しているようで、蜜源もおそらく充実しているだろう。
そういうこととは別に、戸谷さんは私が来るのを待ちかまえてくれていたようで、さっそく最新のアイディアを、ノートを広げて教えてくれた。
人が自由に、安心して、お互いに共感しあい、そしてクリエイティブになれるための具体的な方法が示されていて、私もインスピレーションを受けてわくわくした。
このアイディアはぜひとも本に書いてもらいたいと思い、そう伝えると、
「まっ先に読んでもらいたい」
といってくれたのがうれしかった。
ウェル洋光台にはまたちょくちょく遊びに行きたいし、戸谷さんのアイディアが熟成していく経過話をさらに聞いてみたいと思っている。
今回はみじかい訪問だったが、あらためてゆっくりと。
歓迎してくれたウェル洋光台のみなさん、そして戸谷さん、ありがとうございました。
近いうちにまたお会いしましょう!
水城ゆうブログ
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2018年11月30日金曜日
2018年11月28日水曜日
水城式タイムブロックで毎日やりたいことを着々とこなす
最近「タイムブロック」ということばをちょくちょく聞くようになってきていて、そのようなアプリも出ているらしい。
時間管理術のひとつだが、私の場合、自分なりに(ひょっとして拡大解釈して)工夫して使っている。
それがうまく回っていて、このところとても気分がいいので、内容と方法をシェアしたい。
といっても、そう難しい話ではない。
私が提唱している「エンパシーノート」というものがある。
共感的コミュニケーション(NVC)の手法を応用した手帳術で、自己共感によってニーズを明確にすることで日々の行動をパワフルにするという方法だが、水城式タイムブロックはその延長線上にある手法といっていい。
ここでいう「ブロック」は「ブロックする」のブロックではなく、煉瓦とかコンクリートのブロックのような「かたまり」の意味だ。
タイムブロックは時間のひとかたまりのこと。
カレンダーを使うのだが、カレンダーはGoogleカレンダーでも紙の手帳のカレンダーでもなんでもいい。
ただし、月間カレンダーのようなものではなく、一日のタイムラインが書きこめるデイリーやウイークリーをおすすめする。
スマホアプリでも使い勝手のいいもの、かわいいもの、さまざまなアプリが出ているので、お好みでどうぞ。
エンパシーノートでおこなったように、自分のやりたいこと、やらなければならないと思っていること、人から頼まれたこと、仕事や家事のTODOなど、あらゆることをニーズベースで分類していると思うが、それらのなかで「ひとかたまり」にしてまとめて実行できそうなことをピックアップする。
一日のはじまりの家事や身だしなみのルーティン
自分の成長のための勉強
健康維持のための時間
これらをひとかたまりにして、手順化してしまう。
たとえば健康維持のための時間に一日のうちのいくらかを使うと決める。
私の場合、
ジョギング/ウォーキング
筋トレ
意拳の稽古
音読体操
などがある。
これに時間を割り振る。
00分 ジョギング/ウォーキング
20分 筋トレ
25分 意拳の稽古
35分 音読体操
だいたい45分の所用時間だ。
この45分をひとつのタイムブロックとしてまとめておく。
名前をつけてもいいだろう。
「ヘルスブロック」とか、あるいは自分にだけわかるようなオリジナルな名前でも。
このブロックを1日のうちのどの部分に置くか、前日の夜、就寝前にスケジュールに書きこんでおく。
肝心なのは、当日その時間になったとき、なにもかんがえずにただ自動的に集中してそのタイムブロックの手順を進めていく、ということだ。
あれこれかんがえない。
マインドフルに雑念は追いはらい、この瞬間のおこないに集中する。
このようなブロックをふたつかみっつ、作っておいて、毎日スケジュールのなかに配置するのを習慣化する。
毎日こなすブロックだけでなく、隔日におこなうブロック、週2回おこなうブロック、毎週1回のブロックなどがあってもいいだろう。
それぞに自分でわかる名前をつけておくといい。
とてもシンプルだけどすぐれた方法なので、もし毎日がごちゃごちゃとしていてやりたいことがなかなか手につかないというような人がいたら、やってみることをおすすめする。
なにか質問があればいつでもどうぞ!
2018年11月23日金曜日
映画:大統領の料理人
二〇一二年公開のフランス映画。
なにげなく、どうというきっかけもなくなんとなく見はじめた映画だったが、これは拾いものだった。
いい映画だなあ。
一九八〇年代にフランスのミッテラン大統領に二年間仕えた実在の料理人であるダニエル・デルプシュさんをモデルにしているらしい。
映画ではカトリーヌ・フロという女優が演じている。
この人がまたいいんだな。
中年女性なのだが、自然体でしかしこだわりがある自信に満ちた人物を演じていて、魅力的だ。
映画は「現在」の彼女をオーストラリアのテレビ局スタッフが追いかけはじめる、というシーンからスタートしているのだが、そこは南極基地なのだ。
テレビ局は南極地方にある島の研究基地の取材に来たのだが、そこに女性の料理人がひとり働いているのを見つけ、追いかけようとする。
しかし、彼女はテレビを嫌がり、逃げまわりながらも、基地で料理する二年間の契約の最後の日をすごそうとしている。
テレビ取材を嫌がる理由を明らかにするかのように、大統領のシェフとしてエリゼ宮で働きはじめる日々へとシーンがカットバックしていく。
以後、島の基地とエリゼ宮を時間を超えて行ったりきたりしながら、物語が進んでいく。
最後のシーンで、基地の荒くれ男たちからいかに彼女が愛され、そして別れを惜しまれているのかが描写されるシーンがあって、カトリーヌ・フロという女優の魅力とそれが重なって、ちょっと胸が熱くなる。
昨今の合衆国発の娯楽映画を見慣れている身としては、最初はやや冗長に感じるが、きちんと見ているとそれも計算され、必要があってそうなっているのだということがわかってくる。
演出がじつに丁寧で、緻密なのだ。
たとえば、主人公がエリゼ宮の厨房に初めて入っていくシーン。
すでにたくさんの、ほとんどは男の料理人たちが忙しく立ち働いていて、しかし女料理人がやってくると興味しんしんで視線を注ぐ。
彼女を目線で追う男たちの演出が、画面のすみずみにまで行き渡っていて、その丁寧さが映画全体の空気を引き締めている。
南極基地とエリゼ宮を行ったり来たりする構成も、前半は冗長に感じていたのに、終わりのほうになるとちゃんとそれも必然性があってのことだとわかってくるし、むしろ南極基地での「現在」のほうに、この映画の「いいたいこと」が表現されているのだと判明する。
いい時間をプレゼントされた感じだ。
晩秋の夜にぴったりの映画だった。
なにげなく、どうというきっかけもなくなんとなく見はじめた映画だったが、これは拾いものだった。
いい映画だなあ。
一九八〇年代にフランスのミッテラン大統領に二年間仕えた実在の料理人であるダニエル・デルプシュさんをモデルにしているらしい。
映画ではカトリーヌ・フロという女優が演じている。
この人がまたいいんだな。
中年女性なのだが、自然体でしかしこだわりがある自信に満ちた人物を演じていて、魅力的だ。
映画は「現在」の彼女をオーストラリアのテレビ局スタッフが追いかけはじめる、というシーンからスタートしているのだが、そこは南極基地なのだ。
テレビ局は南極地方にある島の研究基地の取材に来たのだが、そこに女性の料理人がひとり働いているのを見つけ、追いかけようとする。
しかし、彼女はテレビを嫌がり、逃げまわりながらも、基地で料理する二年間の契約の最後の日をすごそうとしている。
テレビ取材を嫌がる理由を明らかにするかのように、大統領のシェフとしてエリゼ宮で働きはじめる日々へとシーンがカットバックしていく。
以後、島の基地とエリゼ宮を時間を超えて行ったりきたりしながら、物語が進んでいく。
最後のシーンで、基地の荒くれ男たちからいかに彼女が愛され、そして別れを惜しまれているのかが描写されるシーンがあって、カトリーヌ・フロという女優の魅力とそれが重なって、ちょっと胸が熱くなる。
昨今の合衆国発の娯楽映画を見慣れている身としては、最初はやや冗長に感じるが、きちんと見ているとそれも計算され、必要があってそうなっているのだということがわかってくる。
演出がじつに丁寧で、緻密なのだ。
たとえば、主人公がエリゼ宮の厨房に初めて入っていくシーン。
すでにたくさんの、ほとんどは男の料理人たちが忙しく立ち働いていて、しかし女料理人がやってくると興味しんしんで視線を注ぐ。
彼女を目線で追う男たちの演出が、画面のすみずみにまで行き渡っていて、その丁寧さが映画全体の空気を引き締めている。
南極基地とエリゼ宮を行ったり来たりする構成も、前半は冗長に感じていたのに、終わりのほうになるとちゃんとそれも必然性があってのことだとわかってくるし、むしろ南極基地での「現在」のほうに、この映画の「いいたいこと」が表現されているのだと判明する。
いい時間をプレゼントされた感じだ。
晩秋の夜にぴったりの映画だった。
2018年11月20日火曜日
韓氏意拳の個人レッスンで鍛えられる
毎月、駒井雅和中級教練をお招きして、国立春野亭で韓氏意拳の講習会を開催している。
グループ講習なのだが、今回は講習会のあとに個人レッスンをお願いした。
受講機会の比較的すくない中級教程を、まずは入口だけでもちゃんとやってみたい、という希望をお伝えしたら、こころよく応じていただいた。
中級講座は駒井先生をはじめ、日本の代表である光岡英稔先生や何人かの中級教練、あるいは韓競辰導師が開催しているが、遠方だったり、土日だったり年に一回だったりと、なかなか参加機会にめぐまれなかった。
そこで個人レッスンをお願いしたのだ。
中級教程は当然のことながら、初級教程がひととおり「できている」という前提になっている。
今回は教程の最初にある中級形体訓練の、さらにその前半部分を習ったのだが、要求される状態や集注の深さが(あたりまえに)レベルが高くて、気を抜けなかった。
しかし「やりかた」すらちゃんとおぼえていないので、動作に気がそれてしまって、状態どころではない。
さんざんだったのだが、練習すべき方向や注目ポイントはしっかり教えていただいたので、今後の自主稽古のなかですこしずつ消化していくしかない。
道のりはまだまだ遠し、という感じだ。
前提となる体力や身体観にも高い要求がある。
私のような年齢であらたにこれまで経験のない運動に挑戦するというのは、なかなかきついものがあるが、まだなんとかがんばれるところもあるのではないかという(希望的)観測もある。
それにしても、へろへろになってしまった。
なさけないけれど、明日は使いものにならないかもしれない(わからないけど)。
きついけれど、毎日積みかさねていくことで、自分がすこしずつでも前に行き、昨日とはちがう風景が見えるようになるかもしれないということに、希望と好奇心をかきたてられる。
駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級&養生功講習会を12月17日(月)14時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。
2018年11月19日月曜日
映画:キング・コング
「・(中グロ)」のはいっている「キング・コング」、2005年公開のニュージーランドと合衆国の合作映画。
なぜニュージーランドかというと、監督がピーター・ジャクソンだからだ。
うかつにもそのことを知らずになにげなく観はじめた。
すでに一度観ていると思いこんでいて、出だしはどんなだっけなと観はじめたところ、まだ観たことのないことがわかった。
最近観たと思っていたのは、このあとで公開された別のキングコング映画「キングコング: 髑髏島の巨神」を観ていたからだろう。
こちらは今年の6月にレビューを書いているので、気になるかたはこちらをどうぞ。
出だしだけ確認するつもりだったが、観はじめたら止まらなくなった。
さすがにピーター・ジャクソン監督。
「ロード・オブ・ザ・リング」「ホビットの冒険」「第9地区」、全部好きだ。
非常に緻密なCGと画面構成、ストーリー展開、いうことない。
そして主演女優のナオミ・ワッツのきれいなこと。
公開当時、37歳のヒロインと、話題になったらしい。
ナオミ・ワッツはイングランド生まれだが、14歳のときにオーストラリアに家族と移住し、シドニー時代にニコール・キッドマンと知り合い、いまでも交流があるという。
二コール・キッドマンはいちはやく売れてスターダムにのしあがったが、ナオミ・ワッツは陽の目を見るまでに時間がかかった。
ほかの役者陣もたくみで、もちろんバリバリのエンタテインメント映画なので繊細さは押し出されていないが、こまかなところでかいま見ることができる。
ストーリーはいまさら説明する必要もないだろうが(1933年の最初の映画にのっとっている)、キャラクターや設定にはかなりの工夫がされている。
とくにコングだけでなくたくさん登場する恐竜や巨大昆虫など、凶暴な巨大生物とのバトルは、「ロード・オブ・ザ・リング」をほうふつとさせるものがある。
すこし前の映画ではあるが、かなりおすすめだ。
なぜこれをいままで観ていなかったんだろうと不思議なくらいだ。
そういえば、コング映画は好きで、なぜなんだろうと思っていたら、小学校のころ日本のテレビでキングコングシリーズをやっていたんだった。
日本独自のテレビ製作だったが、日本ではアメリカ本土よりキング・コングが人気があったとのことだ。
2018年11月18日日曜日
YouTubeチャンネル、ほそぼそじわじわと登録キャンペーン
ジャズパーチー、おもろ数字、初冬の九頭竜湖、名札の化石
福井から東京への長距離ドライブ。
午前10時前に出て、首都圏には午後3時くらいに到達するも、横浜、川崎あたりからゆるい渋滞につかまった。
都心部を横切って臨海部の葛西まで、首都高速駐車場を経由してのろのろと進む。
結局、目的地である知り合いの編プロ事務所に到着したのは、午後5時半すぎ。
お疲れ、自分。
事務所では午後2時からはじまったというジャズパーティーがおこなわれていて、皆さんすでに「できあがった」状態。
お酒は飲めないけれど、おいしいものをいろいろいただき、皆さんとジャズナンバーを歌ったり、語ったりも、私も事務所のアップライトのピアノを弾いたりして、疲れているはずなのに気がついたら午後10時をすぎていた。
そこから国立まで、今度は順調に流れる首都高と中央道を通って帰着。
あっというまに眠ってしまった。
実家では片付けでいろいろとめずらしいものを発掘したが、写真のはもネームプレートは1992年に横浜で開催された日本SF大会のもの。
東京湾クルーズとかもあって、そこでピアノを弾いた覚えがあるなあ。
谷山浩子さんとかと交流したような記憶が(一度小説本の解説を書いていただいたことがある)。
午前10時前に出て、首都圏には午後3時くらいに到達するも、横浜、川崎あたりからゆるい渋滞につかまった。
都心部を横切って臨海部の葛西まで、首都高速駐車場を経由してのろのろと進む。
結局、目的地である知り合いの編プロ事務所に到着したのは、午後5時半すぎ。
お疲れ、自分。
事務所では午後2時からはじまったというジャズパーティーがおこなわれていて、皆さんすでに「できあがった」状態。
お酒は飲めないけれど、おいしいものをいろいろいただき、皆さんとジャズナンバーを歌ったり、語ったりも、私も事務所のアップライトのピアノを弾いたりして、疲れているはずなのに気がついたら午後10時をすぎていた。
そこから国立まで、今度は順調に流れる首都高と中央道を通って帰着。
あっというまに眠ってしまった。
実家では片付けでいろいろとめずらしいものを発掘したが、写真のはもネームプレートは1992年に横浜で開催された日本SF大会のもの。
東京湾クルーズとかもあって、そこでピアノを弾いた覚えがあるなあ。
谷山浩子さんとかと交流したような記憶が(一度小説本の解説を書いていただいたことがある)。
2018年11月17日土曜日
雪囲い、庭の紅葉、セイコガニ、東京への移動
すこし長めの実家滞在が終わった。
今回は音読カフェのほかに主目的があった。
それは冬じたく。
去年というか今年はじめの大雪は大変だった。
実家は二階建ての母屋と平屋の離れがあるのだが、その両方の屋根に井戸水をあげて融雪できるようになっている。
……はずなのだが、大雪でうまく機能しなかった。
溶けずに積もって、ずり落ちてきた大量の雪が、庭先に落ちて堆積し、縁側のガラス戸を突きやぶりそうになったり、のき先をへし折りそうになったり、実際に雨どいを破壊したりした。
屋根から雪がずり落ちてきても、庭の池に井戸水が流れていれば、冬場も暖かい水温でどんどん溶かしていってくれるのだが、今年はなぜか池に井戸水が行っていなかった。
それらもろもろを点検し、修理し、さらにのき先の下に波板を張った雪囲いを作って、落ちてくる雪を池へと誘導するような仕掛けを作った。
池にはもちろん井戸水が行くようにした。
いずれにしても、手間とお金がかかる。
作業しながら気がまぎれたのは、ささやかな庭にある木々の冬を迎える姿だった。
マユミがピンク色のかわいらしい実をたくさんつけている。
ブルーベリーがみごとに紅葉している。
港町の親戚からセイコガニがたくさん送られてきた。
子どものころはおやつがわりに食べていたセイコだが、セイコとはいわずに別の呼称があったような気がする。
それをどうしても思いだせない。
北陸地方のかた、教えてくれたらうれしいです。
今日は長距離ドライブで東京に向かう。
ルートは大野、和泉村経由で東海北陸道に乗って、美濃関ジャンクションから東海環状道、豊田東ジャンクションから新東名、東京インターから首都高で船堀橋まで行って、北葛西の知り合いの事務所へ。
休憩なしでたっぷり6時間の道のり。
私がピアノを弾き、みなさんがジャズナンバーを歌いまくるというジャズを楽しむ会だ。
今回は音読カフェのほかに主目的があった。
それは冬じたく。
去年というか今年はじめの大雪は大変だった。
実家は二階建ての母屋と平屋の離れがあるのだが、その両方の屋根に井戸水をあげて融雪できるようになっている。
……はずなのだが、大雪でうまく機能しなかった。
溶けずに積もって、ずり落ちてきた大量の雪が、庭先に落ちて堆積し、縁側のガラス戸を突きやぶりそうになったり、のき先をへし折りそうになったり、実際に雨どいを破壊したりした。
屋根から雪がずり落ちてきても、庭の池に井戸水が流れていれば、冬場も暖かい水温でどんどん溶かしていってくれるのだが、今年はなぜか池に井戸水が行っていなかった。
それらもろもろを点検し、修理し、さらにのき先の下に波板を張った雪囲いを作って、落ちてくる雪を池へと誘導するような仕掛けを作った。
池にはもちろん井戸水が行くようにした。
いずれにしても、手間とお金がかかる。
作業しながら気がまぎれたのは、ささやかな庭にある木々の冬を迎える姿だった。
マユミがピンク色のかわいらしい実をたくさんつけている。
ブルーベリーがみごとに紅葉している。
港町の親戚からセイコガニがたくさん送られてきた。
子どものころはおやつがわりに食べていたセイコだが、セイコとはいわずに別の呼称があったような気がする。
それをどうしても思いだせない。
北陸地方のかた、教えてくれたらうれしいです。
今日は長距離ドライブで東京に向かう。
ルートは大野、和泉村経由で東海北陸道に乗って、美濃関ジャンクションから東海環状道、豊田東ジャンクションから新東名、東京インターから首都高で船堀橋まで行って、北葛西の知り合いの事務所へ。
休憩なしでたっぷり6時間の道のり。
私がピアノを弾き、みなさんがジャズナンバーを歌いまくるというジャズを楽しむ会だ。
2018年11月15日木曜日
親父の写真
実家の荷物を整理していたら、今度は父の写真が出てきた。
ごく小さい顔写真が、プラスティックか金属かなにかの丸いプレートに焼きつけられている。
どうやって作ったんだろう。
いずれにしても、父の海軍時代の軍服姿だ。
ということは、昭和18年か19年あたり。
大正11年生まれの父は、学生時代に学徒出陣で招集され、海軍にはいった。
呉の海軍学校で短期間の訓練を経たのち、将官として掃海艇に乗りくんでいた。
その船の写真もいっしょに出てきた。
父はもう亡くなってしまったけれど、自分の戦争体験についてはよく話してくれた人だった。
その記憶をたどって、私は『ストリーム』という長編小説のなかに父の物語を残した。
自分ではそれが父への供養だと感じている。
『ストリーム』はこちら(Kindle)から読めます。
それにしても、なかなかの男前だ。
私の父ではあるが、くやしいけれど私よりずっと男前だったようだ。
ごく小さい顔写真が、プラスティックか金属かなにかの丸いプレートに焼きつけられている。
どうやって作ったんだろう。
いずれにしても、父の海軍時代の軍服姿だ。
ということは、昭和18年か19年あたり。
大正11年生まれの父は、学生時代に学徒出陣で招集され、海軍にはいった。
呉の海軍学校で短期間の訓練を経たのち、将官として掃海艇に乗りくんでいた。
その船の写真もいっしょに出てきた。
父はもう亡くなってしまったけれど、自分の戦争体験についてはよく話してくれた人だった。
その記憶をたどって、私は『ストリーム』という長編小説のなかに父の物語を残した。
自分ではそれが父への供養だと感じている。
『ストリーム』はこちら(Kindle)から読めます。
それにしても、なかなかの男前だ。
私の父ではあるが、くやしいけれど私よりずっと男前だったようだ。
小澤征爾の直筆サイン入りLPレコード!
実家の荷物を整理していたら、とんでもないものが出てきた。
サイン入りレコードのほかに、クラシック音楽のレコード(CDじゃないよ、LP盤だよ)が大量に出てきた。
50年くらい前のもので、それより古いものもたくさんあるけれど、状態はだいたいよくて、たぶんプレーヤーにかければちゃんと聴けるはず。
それにしても、こんなにたくさん、だれが買ったんだろう。
私はまだ子どもだったので、自分で買えるわけもなく、父か母が買ったんだろうと思うが、たぶん父だろう。
父は大正11年生まれで、戦前からクラシック音楽を愛好していたらしい。
小澤征爾のサインなんて、どこでもらったんだろう。
よく見ると、録音は1974年2月のパリとあるから、それ以降には違いない。
1974年といえば、私は17歳、高校生のときだ。
そんなころに小澤征爾のコンサートに行ったおぼえはないから、父か母がどこかでサインをもらってきたのだろう。
私もこれらのレコードをいつも聴いていた覚えがあるが、なかにはまったく覚えのないレコードもある。
ほかにも珍しいレコードがいくつかあって、とくに写真の4枚は33回転のものだがSPサイズで、珍しい。
うちにはレコードプレーヤーがまだあって、鳴るはずなので、今度鳴らしてみよう。
サイン入りレコードのほかに、クラシック音楽のレコード(CDじゃないよ、LP盤だよ)が大量に出てきた。
50年くらい前のもので、それより古いものもたくさんあるけれど、状態はだいたいよくて、たぶんプレーヤーにかければちゃんと聴けるはず。
それにしても、こんなにたくさん、だれが買ったんだろう。
私はまだ子どもだったので、自分で買えるわけもなく、父か母が買ったんだろうと思うが、たぶん父だろう。
父は大正11年生まれで、戦前からクラシック音楽を愛好していたらしい。
小澤征爾のサインなんて、どこでもらったんだろう。
よく見ると、録音は1974年2月のパリとあるから、それ以降には違いない。
1974年といえば、私は17歳、高校生のときだ。
そんなころに小澤征爾のコンサートに行ったおぼえはないから、父か母がどこかでサインをもらってきたのだろう。
私もこれらのレコードをいつも聴いていた覚えがあるが、なかにはまったく覚えのないレコードもある。
ほかにも珍しいレコードがいくつかあって、とくに写真の4枚は33回転のものだがSPサイズで、珍しい。
うちにはレコードプレーヤーがまだあって、鳴るはずなので、今度鳴らしてみよう。
2018年11月14日水曜日
自宅(実家)音読カフェを実施
北陸の実家帰省中につき、毎月恒例の「自宅音読カフェ」を開催した。
今回は都合で来れない人がいて、ここ二年の常連さん四人が参加。
福井県立病院でも音読ケアをやっているが、自宅音読カフェとの最大のちがいは、毎月ほぼかならず参加してくれる「常連」が何人かいるということ。
音読療法はつづけておこなうことで最大の効力を発揮する。
できれば毎日、習慣化してもらいたいと思っている。
そのために、毎月のチェック機会として、定期開催の音読カフェなどに参加してもらうのがいい。
二年もやっていると、常連さんたちも自分の身体にたいする意識も変わってきている。
呼吸や音読の有効性を理解してくれたり、自分自身の健康状態の微細な変化にも気づくようになっているようだ。
こちらもやりがいがある。
自宅音読カフェは音読トレーナーならだれでも開くことができる。
実際、トレーナーたちの何人かは、自宅もしくは近隣の施設で音読カフェを開いたり、開くことを計画してくれている。
私は、じつは、音読トレーナーではないのだが、そこまあ音読療法のファウンダーということでお許しをいただいて、実家や東京国立の春野亭などで開催したりしている。
音読療法は老若男女あらゆる人に、こころと身体の健康維持や向上に役立つ方法だし、これから老いの時期に向かう人たちにとっては介護予防や認知症予防にかなり有効だろうと思う。
興味があるかたは、音読カフェにご参加いただくか、毎月開催しているボイスセラピー講座に参加してみてほしい。
できればそういう方のなかから音読トレーナーや音読療法士をめざす人が出てくれば、さらにうれしい。
◎11月18日:ボイスセラピー講座@国立
呼吸や声を使って自分自身や身近の人を癒し活力を養うボイスセラピーの概要を学び、身につけるための講座です。この講座の受講修了が音読トレーナーの資格取得講座の受講要件となります。11月18日(日)10時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催。
今回は都合で来れない人がいて、ここ二年の常連さん四人が参加。
福井県立病院でも音読ケアをやっているが、自宅音読カフェとの最大のちがいは、毎月ほぼかならず参加してくれる「常連」が何人かいるということ。
音読療法はつづけておこなうことで最大の効力を発揮する。
できれば毎日、習慣化してもらいたいと思っている。
そのために、毎月のチェック機会として、定期開催の音読カフェなどに参加してもらうのがいい。
二年もやっていると、常連さんたちも自分の身体にたいする意識も変わってきている。
呼吸や音読の有効性を理解してくれたり、自分自身の健康状態の微細な変化にも気づくようになっているようだ。
こちらもやりがいがある。
自宅音読カフェは音読トレーナーならだれでも開くことができる。
実際、トレーナーたちの何人かは、自宅もしくは近隣の施設で音読カフェを開いたり、開くことを計画してくれている。
私は、じつは、音読トレーナーではないのだが、そこまあ音読療法のファウンダーということでお許しをいただいて、実家や東京国立の春野亭などで開催したりしている。
音読療法は老若男女あらゆる人に、こころと身体の健康維持や向上に役立つ方法だし、これから老いの時期に向かう人たちにとっては介護予防や認知症予防にかなり有効だろうと思う。
興味があるかたは、音読カフェにご参加いただくか、毎月開催しているボイスセラピー講座に参加してみてほしい。
できればそういう方のなかから音読トレーナーや音読療法士をめざす人が出てくれば、さらにうれしい。
◎11月18日:ボイスセラピー講座@国立
呼吸や声を使って自分自身や身近の人を癒し活力を養うボイスセラピーの概要を学び、身につけるための講座です。この講座の受講修了が音読トレーナーの資格取得講座の受講要件となります。11月18日(日)10時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催。
2018年11月13日火曜日
目標を立てたのにやる気が出なくて取りかかれないとき
人はだれしも、やる気が出なくて困ることがしばしばある。
なにかをやりたいと思っているのに、なかなか手がつけられない。
人から頼まれたことがあるのに、ぐずぐずとあとのばしにしてしまう。
クリアしなければならない試験が迫っているのに、いっこうに勉強する気になれない。
そんなとき、なんとかやる気を出そうと、いろいろなことを試みたり、自分を奮い立たせようとする。
しかし、うまくいかないとますますあせったり、苦しくなる。
なにかをやるために「やる気」が必要だと思いこんでいると、それは大変つらいことになる。
なにごとかをやるためには、じつは「やる気」など必要なく、ただいまこの瞬間の自分の「行動/動き」が必要なだけだということに気づけば、じつに簡単になる。
ある目標があって、それを達成するためには、そこに到達するための道すじが存在する。
自分が一気にすべてのことをなしとげて、突然目標が達成するはずはない。
道すじをひとつひとつクリアしていって、最終的に目標に到達するのだ。
山登りとおなじだ。
目標はひとつひとつのステップに細分化することができる。
細分化した結果、いまこの瞬間にできることが明確になる。
というより、いまこの瞬間にできることしか人はできない(あたりまえだ)。
いまこの瞬間しかできないことが明確になっていて、ただそれを実行するだけというとき、ごちゃごちゃかんがえることは不要だし、邪魔になる。
ただおこなうだけだ。
そこには「やる気」などというあいまいな概念は介在しない。
そう、「やる気」というのは、人の「かんがえ」が作りだした抽象概念にすぎない。
ありもしない抽象概念で立ちすくんでしまうのが、人間という生き物の特徴といえよう。
目標を立てるのは、いまこの瞬間に自分がすぐに取りかかれることを洗いだすためだ。
目標がなければそれは明確にならない。
すぐに取りかかれることをたんたんとこなしているうちに、目標とはずれた場所に来てしまうことがよくある。
あるいは目標が変わってしまうことがあるかもしれない。
必要なら軌道修正すればいいし、目標が変わったことを受け入れてもいいかもしれない。
だいじなのは、いまこの瞬間、自分がなにをやるのか、なすべきかが明確になっていて、いきいきとその行動が生まれることだ。
やる気があるとかないとか、関係ない話なのだ。
なにかをやりたいと思っているのに、なかなか手がつけられない。
人から頼まれたことがあるのに、ぐずぐずとあとのばしにしてしまう。
クリアしなければならない試験が迫っているのに、いっこうに勉強する気になれない。
そんなとき、なんとかやる気を出そうと、いろいろなことを試みたり、自分を奮い立たせようとする。
しかし、うまくいかないとますますあせったり、苦しくなる。
なにかをやるために「やる気」が必要だと思いこんでいると、それは大変つらいことになる。
なにごとかをやるためには、じつは「やる気」など必要なく、ただいまこの瞬間の自分の「行動/動き」が必要なだけだということに気づけば、じつに簡単になる。
ある目標があって、それを達成するためには、そこに到達するための道すじが存在する。
自分が一気にすべてのことをなしとげて、突然目標が達成するはずはない。
道すじをひとつひとつクリアしていって、最終的に目標に到達するのだ。
山登りとおなじだ。
目標はひとつひとつのステップに細分化することができる。
細分化した結果、いまこの瞬間にできることが明確になる。
というより、いまこの瞬間にできることしか人はできない(あたりまえだ)。
いまこの瞬間しかできないことが明確になっていて、ただそれを実行するだけというとき、ごちゃごちゃかんがえることは不要だし、邪魔になる。
ただおこなうだけだ。
そこには「やる気」などというあいまいな概念は介在しない。
そう、「やる気」というのは、人の「かんがえ」が作りだした抽象概念にすぎない。
ありもしない抽象概念で立ちすくんでしまうのが、人間という生き物の特徴といえよう。
目標を立てるのは、いまこの瞬間に自分がすぐに取りかかれることを洗いだすためだ。
目標がなければそれは明確にならない。
すぐに取りかかれることをたんたんとこなしているうちに、目標とはずれた場所に来てしまうことがよくある。
あるいは目標が変わってしまうことがあるかもしれない。
必要なら軌道修正すればいいし、目標が変わったことを受け入れてもいいかもしれない。
だいじなのは、いまこの瞬間、自分がなにをやるのか、なすべきかが明確になっていて、いきいきとその行動が生まれることだ。
やる気があるとかないとか、関係ない話なのだ。
2018年11月12日月曜日
移動、夕空、夜明けの空、執筆
中央道、圏央道、東名経由で名古屋に立ちより、東名、北陸道経由で北陸の実家にたどりついた。
写真は移動前日の国立の夕空と、移動中の小田原あたりの夜明けの空。
実家滞在中は実家音読カフェや福井県立病院での音読ケアワークをおこなうほかに、雪囲いの準備やら片付けやら不要物の処分やら。
個人セッションの予約も何件かいただいている。
そのあいまに執筆仕事をすこしでも進めておきたい。
年末までに『共感的コミュニケーション2019』をリリースするほか、共感ハンドブックのシリーズを何冊か仕上げたい。
連載中の小説『水の戯れ』も書きすすめたい。
写真は移動前日の国立の夕空と、移動中の小田原あたりの夜明けの空。
実家滞在中は実家音読カフェや福井県立病院での音読ケアワークをおこなうほかに、雪囲いの準備やら片付けやら不要物の処分やら。
個人セッションの予約も何件かいただいている。
そのあいまに執筆仕事をすこしでも進めておきたい。
年末までに『共感的コミュニケーション2019』をリリースするほか、共感ハンドブックのシリーズを何冊か仕上げたい。
連載中の小説『水の戯れ』も書きすすめたい。
オパール毛糸で編んだ赤ちゃん用の腹巻と腹巻帽子をネックウォーマーとして巻いてみたの図
それぞれ1週間くらい編むのにかかっている。
棒針(輪針)編みほぼ初挑戦なのと、糸が細いのとで、もちろん一日中編んでいたわけではないけれど、仕事などの作業の合間に暇を見つけてはちょこちょこと編みすすめていた。
最初のは大人用の腹巻帽子で、糸を二種類使った。
仕上がってみると、腹巻としては輪が大きすぎてゆるい感じだし、帽子としてはだぼだぼして使いにくい感じ。
大きめのスヌードとしてはいい感じかも。
腹巻帽子としては、もうすこし輪を小さく、そして長めに編んだほうがよさそう。
それにしても、時間がかかる。
もうひとつは知り合いの赤ちゃん用腹巻として、ちょっとだけ太い糸を使って編んだ。
糸は一種類だけ。
スヌードとして巻いてみると、大人用としてもちょうどいい感じ。
2作めなので、目がそこそこきれいに揃っている。
棒針(輪針)編みほぼ初挑戦なのと、糸が細いのとで、もちろん一日中編んでいたわけではないけれど、仕事などの作業の合間に暇を見つけてはちょこちょこと編みすすめていた。
最初のは大人用の腹巻帽子で、糸を二種類使った。
仕上がってみると、腹巻としては輪が大きすぎてゆるい感じだし、帽子としてはだぼだぼして使いにくい感じ。
大きめのスヌードとしてはいい感じかも。
腹巻帽子としては、もうすこし輪を小さく、そして長めに編んだほうがよさそう。
それにしても、時間がかかる。
もうひとつは知り合いの赤ちゃん用腹巻として、ちょっとだけ太い糸を使って編んだ。
糸は一種類だけ。
スヌードとして巻いてみると、大人用としてもちょうどいい感じ。
2作めなので、目がそこそこきれいに揃っている。
天白〈アロマファン〉での勉強会のキーワード「自己統合」「感情の因数分解」
昨日は名古屋・天白の古民家スペース〈アロマファン〉にて、朗読と共感のコラボ勉強会をおこなった。
(写真は勉強会後の雑談タイム)
午前中は朗読というだれでも容易に試みることができる表現行為を通じて、自分という存在現象の「いま」を感得する稽古。
自己共感とか自己統合についての学びの時間。
午後は共感的コミュニケーションについての学びの時間。
参加者の具体的な事例を取りあげて、感情とニーズについてじっくりと調べる時間。
とくに「怒り」の感情を「因数分解」する試み。
感情を身体的な現象としてしっかりとらえることで、ニーズの輪郭線をくっきりと実体化し、自己統合が生まれる結果として、行動が明確化する過程を共有してみた。
ご参加いただいたみなさん、ありがとう。
次回のアロマファンでの勉強会は、しばらく間があきますが、2019年2月10日(日)の開催となります。
世話人の水野生惠さんからいただいた感想をご紹介します。
生惠さん、今回もお世話になりました。
-------------
朗読には興味が。。。という方も多いと思うのですが、午前の部で「素晴らしい読み手は、社会的な自分と本来的な自分が一致(統合)している」ということを聞いて、そういう在り方は、日常の在り方としても理想的だと思いました。
どんなに「社会的(型どおり)」な態度はちゃんとできても、「本来性」を大切にしていないと、満たされない人生になりがちなのかな。。。と。
・・・自分の本来性ってなんだろうな、を感じる機会・手段として「朗読」って手軽で最適だと再認識しました。
また、午後の共感カフェでは「感情を因数分解してみる」なんて新しい言葉も出てきましたよ♪
(写真は勉強会後の雑談タイム)
午前中は朗読というだれでも容易に試みることができる表現行為を通じて、自分という存在現象の「いま」を感得する稽古。
自己共感とか自己統合についての学びの時間。
午後は共感的コミュニケーションについての学びの時間。
参加者の具体的な事例を取りあげて、感情とニーズについてじっくりと調べる時間。
とくに「怒り」の感情を「因数分解」する試み。
感情を身体的な現象としてしっかりとらえることで、ニーズの輪郭線をくっきりと実体化し、自己統合が生まれる結果として、行動が明確化する過程を共有してみた。
ご参加いただいたみなさん、ありがとう。
次回のアロマファンでの勉強会は、しばらく間があきますが、2019年2月10日(日)の開催となります。
世話人の水野生惠さんからいただいた感想をご紹介します。
生惠さん、今回もお世話になりました。
-------------
朗読には興味が。。。という方も多いと思うのですが、午前の部で「素晴らしい読み手は、社会的な自分と本来的な自分が一致(統合)している」ということを聞いて、そういう在り方は、日常の在り方としても理想的だと思いました。
どんなに「社会的(型どおり)」な態度はちゃんとできても、「本来性」を大切にしていないと、満たされない人生になりがちなのかな。。。と。
・・・自分の本来性ってなんだろうな、を感じる機会・手段として「朗読」って手軽で最適だと再認識しました。
また、午後の共感カフェでは「感情を因数分解してみる」なんて新しい言葉も出てきましたよ♪
2018年11月10日土曜日
靴下編み物むずかしい、明日は実家への長距離移動
オパール毛糸で編んでいる靴下、足首まで来たけれど、けっこう工程がたくさんあってややこしい。
かかとの部分は本来糸を変えるのでわかりやすくなるはずだけど、横着してそのまま編んでたら案の定わけがわかんなくなって、挫折。
もう一度最初からやりなおそう。
想定していたよりサイズがでかくなってしまったし。
明日は名古屋天白の〈アロマファン〉でワークショップ。
午前の部は現代朗読(身体表現)、午後は共感的コミュニケーション(NVC)。
福井の実家に移動して、金曜日まで滞在。
音読カフェを実家と県立病院で実施予定。
ほかに雪囲いの準備やら冬支度。
かかとの部分は本来糸を変えるのでわかりやすくなるはずだけど、横着してそのまま編んでたら案の定わけがわかんなくなって、挫折。
もう一度最初からやりなおそう。
想定していたよりサイズがでかくなってしまったし。
明日は名古屋天白の〈アロマファン〉でワークショップ。
午前の部は現代朗読(身体表現)、午後は共感的コミュニケーション(NVC)。
福井の実家に移動して、金曜日まで滞在。
音読カフェを実家と県立病院で実施予定。
ほかに雪囲いの準備やら冬支度。
まったり朝食、明日は長距離ドライブ
鈴鹿アズワンの弘子さんとみっちーさんが国立春野亭に立ちよってくれた。
昨夜はガイアエデュケーション2019の説明会を渋谷で、明日は「幸せの経済学」のフォーラムに参加するために、こちらに来られたとのこと。
ガイアエデュケーションは私もこのところ毎年、一般公開講座の講師として参加させていただいていて、2019年も5月18日(土)に鈴鹿カルチャーステーションで講座をおこなうことになっている。
おふたりとまったり朝食。
野々宮がパンケーキを作ってくれて、ムイたんも参加。
明日は早朝、というか未明に国立を出て、名古屋天白に向かう。
水野生惠さんの〈アロマファン〉で朗読と共感のコラボワークをおこなうことになっている。
長距離ドライブなので、今夜は早めに休もう。
◎11月11日:朗読と共感のコラボWS@名古屋天白アロマファン
朗読と共感的コミュニケーションを両方体験し、実践を深めることができるワークショップを、午前と午後にそれぞれ、名古屋市天白区の古民家スペース〈アロマファン〉で開催します。
昨夜はガイアエデュケーション2019の説明会を渋谷で、明日は「幸せの経済学」のフォーラムに参加するために、こちらに来られたとのこと。
ガイアエデュケーションは私もこのところ毎年、一般公開講座の講師として参加させていただいていて、2019年も5月18日(土)に鈴鹿カルチャーステーションで講座をおこなうことになっている。
おふたりとまったり朝食。
野々宮がパンケーキを作ってくれて、ムイたんも参加。
明日は早朝、というか未明に国立を出て、名古屋天白に向かう。
水野生惠さんの〈アロマファン〉で朗読と共感のコラボワークをおこなうことになっている。
長距離ドライブなので、今夜は早めに休もう。
◎11月11日:朗読と共感のコラボWS@名古屋天白アロマファン
朗読と共感的コミュニケーションを両方体験し、実践を深めることができるワークショップを、午前と午後にそれぞれ、名古屋市天白区の古民家スペース〈アロマファン〉で開催します。
2018年11月9日金曜日
バカ映画と揚げ物をつまみながら編み物をする至福の時間
バカ映画と揚げ物と編み物は私の三大好物だが、バカ映画とはなにかという定義をしておかねばなるまい。
極私的でけっして普遍的な定義ではないのだが、バカ映画とはたんに「バカな」内容の映画ということではない。
私の場合、バカな内容であることと、それに巨額の予算と人的労力がつぎこまれているひとが条件となる。
近年のハリウッドはそのような映画を量産する末期的症状を呈している。
そういうものを茶の間にいながらにして、
「もっとほかにお金使うべきところがあるだろうよ」
となかば憤りながら自分も怠慢こいて観る、というところに、理不尽で屈折した快感があるのだ。
いったいなんのニーズだ。
昨日は私の身体的欲求として定期的におとずれる「揚げ物祭り」のニーズを満たすべく、豚バラ肉のかたまりをスライスしてちゃちゃっと揚げた大量のトンカツを中濃ソースまみれにしてつまみながら、オパール毛糸を使った靴下に挑戦しながら、ふとNETFLIXを開いたら、まさに私的定義ぴったりのバカ映画に遭遇したので、ここに嬉々として書き記しておくわけだ。
その映画のタイトルは「スノー・ホワイト」。
そう、「白雪姫」の大人向け実写バージョン。
2012年公開のアメリカとイギリスの共同制作映画。
総予算1億7千万ドルを注ぎこんで作られたということを明記しておきたい。
悪の女王役にシャーリーズ・セロンが出ているのだが、よくこんな役を引き受けたなあとびっくり。
主役はクリステン・スチュワートという女優なのだが、これがまあ、どうやったらここまで魅力のない白雪姫を演じられるのだという名演技。
監督はルパート・サンダースという人で、このあと「ゴースト・イン・ザ・シェル」の実写版を作っている。
私は途中まで観ているのだが、最後まで観る気がうせた。
というような文句をうだうだいいながら、揚げ物をつまみ、編み物をちくちく進める時間が、私にとっては至福の時間なのである。
ありがとう、白雪姫。
極私的でけっして普遍的な定義ではないのだが、バカ映画とはたんに「バカな」内容の映画ということではない。
私の場合、バカな内容であることと、それに巨額の予算と人的労力がつぎこまれているひとが条件となる。
近年のハリウッドはそのような映画を量産する末期的症状を呈している。
そういうものを茶の間にいながらにして、
「もっとほかにお金使うべきところがあるだろうよ」
となかば憤りながら自分も怠慢こいて観る、というところに、理不尽で屈折した快感があるのだ。
いったいなんのニーズだ。
昨日は私の身体的欲求として定期的におとずれる「揚げ物祭り」のニーズを満たすべく、豚バラ肉のかたまりをスライスしてちゃちゃっと揚げた大量のトンカツを中濃ソースまみれにしてつまみながら、オパール毛糸を使った靴下に挑戦しながら、ふとNETFLIXを開いたら、まさに私的定義ぴったりのバカ映画に遭遇したので、ここに嬉々として書き記しておくわけだ。
その映画のタイトルは「スノー・ホワイト」。
そう、「白雪姫」の大人向け実写バージョン。
2012年公開のアメリカとイギリスの共同制作映画。
総予算1億7千万ドルを注ぎこんで作られたということを明記しておきたい。
悪の女王役にシャーリーズ・セロンが出ているのだが、よくこんな役を引き受けたなあとびっくり。
主役はクリステン・スチュワートという女優なのだが、これがまあ、どうやったらここまで魅力のない白雪姫を演じられるのだという名演技。
監督はルパート・サンダースという人で、このあと「ゴースト・イン・ザ・シェル」の実写版を作っている。
私は途中まで観ているのだが、最後まで観る気がうせた。
というような文句をうだうだいいながら、揚げ物をつまみ、編み物をちくちく進める時間が、私にとっては至福の時間なのである。
ありがとう、白雪姫。
iPhoneをXSに乗りかえた(なにがよかったか)
2年近く使っていた iPhone 7 の画面が、端っこのほうだけどヒビがはいって、それが徐々に拡大して液晶画面のなかまで侵入してきたので、XSに機種変した。
機種変するにあたってはいろいろ検討を重ねた。
7を修理してそのまま使いつづけ、なにか適当なコンデジを買おうか、という選択肢もかんがえた。
7もカメラはなかなか優秀で、とくに不自由は感じていなかったのだが、ズームや被写界深度の操作などは、やはり専用のデジカメでないとつらい。
その点が、XSは「ある程度」専用デジカメに近づいているという売りがあった。
実際に乗りかえてみると、たしかにカメラはいい。
コンデジをわざわざ買う気はなくなった。
写真も美しく再生できる。
ベゼル(ふち)が細くなって、サイズの割に画面が大きくなった、というのも売りのひとつだが、これは前のXからそうだ。
画面が大きくなった分、表示される情報量が増え、文字数も増えているはずだが、前の7とそんなに変わったような気がしない。
そもそもスマホなので画面がいくら大きくなったといっても、タブレットやラップトップに比べれば基本的に狭い。
その他のアプリもとくに不都合なく移行できて、XSだからどうという変化もなく使えている。
つまり、なにも変わらず、感動もない。
あえていえば、カメラがよくなったのがちょっと楽しいかな、という程度か。
初代のiPhoneとかiPod、iPadが登場したときのような感動は、もはや望むべくもないということか。
あるいはさらにびっくりするようなイノベーションがその先に起きるのだろうか。
機種変するにあたってはいろいろ検討を重ねた。
7を修理してそのまま使いつづけ、なにか適当なコンデジを買おうか、という選択肢もかんがえた。
7もカメラはなかなか優秀で、とくに不自由は感じていなかったのだが、ズームや被写界深度の操作などは、やはり専用のデジカメでないとつらい。
その点が、XSは「ある程度」専用デジカメに近づいているという売りがあった。
実際に乗りかえてみると、たしかにカメラはいい。
コンデジをわざわざ買う気はなくなった。
写真も美しく再生できる。
ベゼル(ふち)が細くなって、サイズの割に画面が大きくなった、というのも売りのひとつだが、これは前のXからそうだ。
画面が大きくなった分、表示される情報量が増え、文字数も増えているはずだが、前の7とそんなに変わったような気がしない。
そもそもスマホなので画面がいくら大きくなったといっても、タブレットやラップトップに比べれば基本的に狭い。
その他のアプリもとくに不都合なく移行できて、XSだからどうという変化もなく使えている。
つまり、なにも変わらず、感動もない。
あえていえば、カメラがよくなったのがちょっと楽しいかな、という程度か。
初代のiPhoneとかiPod、iPadが登場したときのような感動は、もはや望むべくもないということか。
あるいはさらにびっくりするようなイノベーションがその先に起きるのだろうか。
2018年11月8日木曜日
靴下を編む、こてこての食事の日々
ついに。
普通の四本ヨリのものではなく、六本ヨリのちょっとだけ太めのものなので、若干編みやすいはず。
が、とっかかりは苦労していて、何度もほどいて爪先七センチくらいまでたどりついた。
韓氏意拳の稽古とランニングのときに着替えるTシャツや下着を買いに、立川のららぽーとへ。
ランチにこてこてのハンバーガーを。
野々宮が作ったガトーインヴィジブルというケーキ。
アップルパイみたいなものだが、もっとしっとり、こってりした感じ。
これ、好きだな。
富士見台の焼鳥屋で買った玉子で目玉焼き。
そして今日は揚げ物デーで、豚バラ肉のかたまりを切り分けてトンカツをたくさん作る。
こてこての日々。
運動してるけど、体脂肪は下がらない。
ま、いまは冬に備えて、体力を備蓄する時期ということで。
YouTube:うふTube2 Vol.4「しゃぼん玉」
Oeufs(うふ)による歌とトークによる番組「うふTube2」の第4弾です。
今回取り上げたのは、おなじみの日本唱歌「しゃぼん玉」です。
トークとともにお楽しみください。
作詞 :野口雨情
作曲 :中山晋平
うた :伊藤はるか
ピアノ:水城ゆう(アレンジも)
映像はこちら。
今回取り上げたのは、おなじみの日本唱歌「しゃぼん玉」です。
トークとともにお楽しみください。
作詞 :野口雨情
作曲 :中山晋平
うた :伊藤はるか
ピアノ:水城ゆう(アレンジも)
映像はこちら。
2018年11月7日水曜日
サヤ佳ちゃんとの公演リハーサル、ゼミ個人レッスン
語人《ストーリーテラー》サヤ佳ちゃんがお母さんといっしょに豊田から打ち合わせとリハートルに来た。
十一月二十五日に豊田市産業文化センターで語りの会を開催する予定で、それに私はピアノ演奏でサポート参加することになっている。また現代朗読の野々宮卯妙も共演する。毎年のようになんらかの形で語りの会をやっているのだが、今年はとくに区切りの年で、サヤ佳ちゃんの語りの活動が満十五年ということと、三十歳ということで、半田市生まれの新美南吉を取りあげて開催することになった。半田市にある新美南吉記念館の学芸員の遠山光嗣さんをゲストスピーカーとしてお招きすることにもなっている。
お母さんの希依子さんがかんがえてきた公演全体の構成をみんなで検討し、進行について打ち合わせしたあと、昼食をはさんでサヤ佳ちゃんと野々宮の共演演目である「ごん狐」のリハーサル。
(お昼ご飯は希依子さんが近所でわざわざお弁当を調達してきてくれた。ありがとう)
「ごん狐」は新美南吉のもっとも有名な作品だが、じつは世に知られている児童雑誌『赤い鳥』に発表されたバージョンとは別に、南吉が投稿したままのオリジナルバージョンがある。雑誌に掲載されたバージョンは、『赤い鳥』主筆の鈴木三重吉が加筆訂正を加えたものだとされているのだ。
今回の公演では、一般にはあまり知られていないオリジナルバージョンを使うことになっている。『赤い鳥』バージョンとは趣のかなりことなったもので、とくにラストシーンは読みようによってはまったく意味の違うものに取ることもできる。
私の演出を加えながらリハーサルを重ねていると、あっという間に時間がたってしまった。ゼミ生のゆきこさんのレッスンの時間が来て、彼女がやってきたので、野々宮が公演で読むもうひとつの作品をいっしょに聴いてもらった。結局、時間のつごうからその作品はカットすることになったのだが、ゆきこさんが興味津々で聴いてくれたのはよかった。
サヤ佳ちゃんたちが帰ったあとは、ゆきこさんの個人レッスン。野々宮も参加してくれて、朗読表現についてさまざまな気づきを交換したり、ニーズを聞いたり、実際に読んだり、身体の使い方を試してみたりと、充実した時間となった。
2018年11月6日火曜日
マイクロシフトがビッグシフトを生む
人生、現状維持でいい、いまのままでなんの不都合も感じていない、という人には不要なことだろうが、私のようにつねに自分が昨日よりも今日、今日より明日が、すこしでもよりよい自分でありたい、わずかでも成長しつづけたい、という欲求が抜きがたくある人間は、多かれ少なかれ自分の変化を望んでいる。
若いころはスピード感を求めたり、劇的な変化の手応えがほしかったりして、ある日を境にそれまでできなかったことが急にできるようになる、といったストーリーを夢見たり、実際にまれにそういうことが起こったりすることもある。
が、変化というものは若かろうが歳を取っていようが、漸進的なものであり、すこしの変化が積み重なった結果として大きな変化がもたらされるものだということがわかってくる。
これはあまり年齢とは関係のないことだと私は思っている。
若いほうが成長は早い、歳をとると成長はおろか能力は徐々におとろえていく、というのは思いこみにすぎないのではないだろうか。
そのようにかんがえておくと、できないことのいいわけができて安心するという心理が働いているような気がする。
もちろん人は生き物であり、経年劣化はだれにもひとしくおとずれる。
筋力や体力がおとろえたり、身体機能のさまざまな部分が低下していくことは、自然現象として起こる。
しかし、その自然現象のなかでも本来発揮できるはずの成長能力をきちんと発揮できているかどうかということは、個々人がみずからをかえりみてみる必要があると思うのだ。
私が主催している「身体文章塾」というものがある。
参加者はすくなくて、とくに中心メンバーは奥田浩二と知念満二のふたりなのだが、奥田はもうかれこれ10年近くの継続的参加メンバー、知念も丸3年になろうかという毎回欠かさず参加するメンバー。
月に3回程度、ほぼ欠かさず参加しつづけているふたりの「斬新的成長」を、私はしっかり目撃しつづけてきた。
そしてまた、私自身も励まされてきた。
「成長」などというと数値化しずらい抽象的な印象があるが、数値でしめせることもある。
ふたりには2年くらい前から長編小説に挑戦してもらっているのだが、毎回原稿用紙にして何枚かかならず書いてきてもらっている。
それが積みかさなると、たとえば知念は先日、300枚の長編小説をとうとう書きあげたのだ。
かつては商業小説家として長編小説を何本も書きあげた私としては、とにかく長編小説というのは毎日こつこつと書きつづけなければ永遠に書きあがらない、という実感というか事実がある。
実際に長編小説を一本書きあげるというのは大変なことなのだ(そのクオリティがどうであれ)。
毎日3枚ずつ書くとする。
たった3枚というなかれ、これだって毎日欠かさず書きつづけるのは大変だ。
1か月書きつづければ90枚になる。
3か月書きつづければ270枚になる。
5か月書きつづければ450枚になる。
450枚の長編小説は一夜にして完成するわけではない、毎日すこしずつ書きすすめた結果として、450枚というまとまったものが現出するわけだ。
単純な話だが、これがなかなかできない。
3枚というほんとにささやかな、自分の能力としては充分可能な、わずかな努力を、継続できるかどうか。
わずかな変化を毎日持続して維持できるかどうか。
自分が大きく成長する、変化するようなビッグシフトは、マイクロシフトの積み重ねからしか生まれないことは確かだ。
若いころはスピード感を求めたり、劇的な変化の手応えがほしかったりして、ある日を境にそれまでできなかったことが急にできるようになる、といったストーリーを夢見たり、実際にまれにそういうことが起こったりすることもある。
が、変化というものは若かろうが歳を取っていようが、漸進的なものであり、すこしの変化が積み重なった結果として大きな変化がもたらされるものだということがわかってくる。
これはあまり年齢とは関係のないことだと私は思っている。
若いほうが成長は早い、歳をとると成長はおろか能力は徐々におとろえていく、というのは思いこみにすぎないのではないだろうか。
そのようにかんがえておくと、できないことのいいわけができて安心するという心理が働いているような気がする。
もちろん人は生き物であり、経年劣化はだれにもひとしくおとずれる。
筋力や体力がおとろえたり、身体機能のさまざまな部分が低下していくことは、自然現象として起こる。
しかし、その自然現象のなかでも本来発揮できるはずの成長能力をきちんと発揮できているかどうかということは、個々人がみずからをかえりみてみる必要があると思うのだ。
私が主催している「身体文章塾」というものがある。
参加者はすくなくて、とくに中心メンバーは奥田浩二と知念満二のふたりなのだが、奥田はもうかれこれ10年近くの継続的参加メンバー、知念も丸3年になろうかという毎回欠かさず参加するメンバー。
月に3回程度、ほぼ欠かさず参加しつづけているふたりの「斬新的成長」を、私はしっかり目撃しつづけてきた。
そしてまた、私自身も励まされてきた。
「成長」などというと数値化しずらい抽象的な印象があるが、数値でしめせることもある。
ふたりには2年くらい前から長編小説に挑戦してもらっているのだが、毎回原稿用紙にして何枚かかならず書いてきてもらっている。
それが積みかさなると、たとえば知念は先日、300枚の長編小説をとうとう書きあげたのだ。
かつては商業小説家として長編小説を何本も書きあげた私としては、とにかく長編小説というのは毎日こつこつと書きつづけなければ永遠に書きあがらない、という実感というか事実がある。
実際に長編小説を一本書きあげるというのは大変なことなのだ(そのクオリティがどうであれ)。
毎日3枚ずつ書くとする。
たった3枚というなかれ、これだって毎日欠かさず書きつづけるのは大変だ。
1か月書きつづければ90枚になる。
3か月書きつづければ270枚になる。
5か月書きつづければ450枚になる。
450枚の長編小説は一夜にして完成するわけではない、毎日すこしずつ書きすすめた結果として、450枚というまとまったものが現出するわけだ。
単純な話だが、これがなかなかできない。
3枚というほんとにささやかな、自分の能力としては充分可能な、わずかな努力を、継続できるかどうか。
わずかな変化を毎日持続して維持できるかどうか。
自分が大きく成長する、変化するようなビッグシフトは、マイクロシフトの積み重ねからしか生まれないことは確かだ。
2018年11月5日月曜日
赤ちゃん用の腹巻もうすぐ完成、つぎはなにを編もう?
オパール毛糸で編んでいる赤ちゃん用の腹巻、かれこれ六日目。
大人用の腹巻帽子より目数は少ないはずだし、糸も四本ヨリではなく六本ヨリのやや太めのものを使っているのに、やはり一週間くらいかかってしまう。
だいぶ慣れたので、これ以上劇的なスピードアップも望めないしな。
とはいえ、楽しいことには違いないので、これが編みあがったらつぎはなにを編もうかなとかんがえているところ。
つぎは靴下に挑戦してみるかなあ、あるいは腹巻帽子より簡単なスヌードか、かぎ針編みにもどって子ども用のどんぐり帽子か。
などとかんがえている時間もまた楽し。
明日は朝から個人セッション、個人セッション、午後も個人レッスン、そして夜は韓氏意拳昭島火曜クラス。
合間に走りにいけるかな。
大人用の腹巻帽子より目数は少ないはずだし、糸も四本ヨリではなく六本ヨリのやや太めのものを使っているのに、やはり一週間くらいかかってしまう。
だいぶ慣れたので、これ以上劇的なスピードアップも望めないしな。
とはいえ、楽しいことには違いないので、これが編みあがったらつぎはなにを編もうかなとかんがえているところ。
つぎは靴下に挑戦してみるかなあ、あるいは腹巻帽子より簡単なスヌードか、かぎ針編みにもどって子ども用のどんぐり帽子か。
などとかんがえている時間もまた楽し。
明日は朝から個人セッション、個人セッション、午後も個人レッスン、そして夜は韓氏意拳昭島火曜クラス。
合間に走りにいけるかな。
YouTube:m3 ダンス朗読ピアノ公演「初恋」@アグレアブル・ミュゼ抜粋
2018年11月3日。
国立駅北にある〈アグレアブル・ミュゼ〉で、FLARE m3 によるミニ公演をおこなった。
FLARE m3 というのは、ダンスの矢澤実穂、朗読の野々宮卯妙、ピアノの水城雄の三人の即興パフォーマンスユニット。
オーストラリア在住の矢澤実穂が一時帰国したのに合わせて、急遽公演をおこなうことになった。
ダンス:矢澤実穂
朗読:野々宮卯妙
テキスト/ピアノ:水城雄
映像はこちら。
国立駅北にある〈アグレアブル・ミュゼ〉で、FLARE m3 によるミニ公演をおこなった。
FLARE m3 というのは、ダンスの矢澤実穂、朗読の野々宮卯妙、ピアノの水城雄の三人の即興パフォーマンスユニット。
オーストラリア在住の矢澤実穂が一時帰国したのに合わせて、急遽公演をおこなうことになった。
ダンス:矢澤実穂
朗読:野々宮卯妙
テキスト/ピアノ:水城雄
映像はこちら。
2018年11月4日日曜日
FLARE m3 ダンス朗読ピアノ公演@アグレアブル・ミュゼ終了
2018年11月3日、夜。
国立駅の北側にあるお店というか、カフェというか、ライブスペースというか、〈アグレアブル・ミュゼ〉という場所で、FLARE m3 によるミニ公演をおこなった。
FLARE m3 というのは、ダンスの矢澤実穂、朗読の野々宮卯妙、ピアノの水城雄の三人の即興パフォーマンスユニットだ。
オーストラリア在住の実穂さんが一時帰国したのに合わせて、急遽公演をおこなうことになった。
この三人による公演は、正式には三回め、非公式のものをいれれば四回めになる。
しかし、終えてから振り返ってみると、今回の内容はこれまでとまったく質の違うものだったように思う。
アグレアブル・ミュゼは私は初めて訪れる場所だと思っていたのだが、行ってみるとくっきりとしたデジャビュ感が。
たぶん20年近く前のことだが、榊原忠美氏が全国行脚をいまでもつづけている(現在通算350回くらい?)「木を植えた人」の朗読会をここでやったことが確かにあるのだ。
そのとき、私はここのピアノを弾いた。
たしかにKAWAIのピアノだった。
それを思いだした。
急遽決まった一回きりの公演だったが、たくさんの方においでいただいてありがたかった。
18時半、19時開演というスケジュールのなか、18時に会場入り。
客席やピアノのセッティングをして、リハーサルもなしにいきなりはじまる。
私がちょっとだけ挨拶したあと、ピアノソロからスタート。
そのあとはどうなるか、まったく決まっていないし、予測もつかない。
ひとしきりの即興演奏のあと、野々宮が朗読ではいってくる。
テキストは私が何年か前に書いた「初恋」というものがたり。
いきなり質量感のある重厚な語りで、ちょっとびっくりする。
この響きは空間のせいなのか、あるいは身体の使い方のせいなのか。
ストーリーの出だしは老齢の女性のひとり語りなのだが、まるでそんなことを意味的になぞることはなく、ことばはことばとして、音は音として、そして身体がつながった人の声音として発せられてくる。
それをピアノで受ける私としては、やりやすいことこの上ない。
やりやすい、というのは楽できるという意味ではなく、緊張感と集中を傾注しやすい、という意味だ。
やがてそこに実穂さんのダンスがはいってくる。
老齢も少女も若い男性も、そして実穂さん自身も、さまざまなものが複雑に出入りするような自在な表現で、できればピアノを離れて見ていたいくらいだった。
80分弱の公演のエンディングは、語りが終わり、音とダンスが収束していき、完全な静寂がおとずれる。
長い沈黙。
お客さんも静寂のなかにたたずみ、最後まで付き合ってくれたのがうれしかった。
終演後は飲食もまじえながらみなさんとお話させていただき、知り合いも、初めてお会いした人たちとも、感想を聞かせてもらったり、質問に答えたりしたのが、楽しい時間だった。
撤収後は春野亭まで歩いてもどり、のぞみさんが料理をしてくれて打ち上げ。
ここ一か月くらい完全にアルコール断ちをしていた私も、ひさしぶりにワインをおいしくいただいた。
お祝いに満ちた一日が終わった。
国立駅の北側にあるお店というか、カフェというか、ライブスペースというか、〈アグレアブル・ミュゼ〉という場所で、FLARE m3 によるミニ公演をおこなった。
FLARE m3 というのは、ダンスの矢澤実穂、朗読の野々宮卯妙、ピアノの水城雄の三人の即興パフォーマンスユニットだ。
オーストラリア在住の実穂さんが一時帰国したのに合わせて、急遽公演をおこなうことになった。
この三人による公演は、正式には三回め、非公式のものをいれれば四回めになる。
しかし、終えてから振り返ってみると、今回の内容はこれまでとまったく質の違うものだったように思う。
アグレアブル・ミュゼは私は初めて訪れる場所だと思っていたのだが、行ってみるとくっきりとしたデジャビュ感が。
たぶん20年近く前のことだが、榊原忠美氏が全国行脚をいまでもつづけている(現在通算350回くらい?)「木を植えた人」の朗読会をここでやったことが確かにあるのだ。
そのとき、私はここのピアノを弾いた。
たしかにKAWAIのピアノだった。
それを思いだした。
急遽決まった一回きりの公演だったが、たくさんの方においでいただいてありがたかった。
18時半、19時開演というスケジュールのなか、18時に会場入り。
客席やピアノのセッティングをして、リハーサルもなしにいきなりはじまる。
私がちょっとだけ挨拶したあと、ピアノソロからスタート。
そのあとはどうなるか、まったく決まっていないし、予測もつかない。
ひとしきりの即興演奏のあと、野々宮が朗読ではいってくる。
テキストは私が何年か前に書いた「初恋」というものがたり。
いきなり質量感のある重厚な語りで、ちょっとびっくりする。
この響きは空間のせいなのか、あるいは身体の使い方のせいなのか。
ストーリーの出だしは老齢の女性のひとり語りなのだが、まるでそんなことを意味的になぞることはなく、ことばはことばとして、音は音として、そして身体がつながった人の声音として発せられてくる。
それをピアノで受ける私としては、やりやすいことこの上ない。
やりやすい、というのは楽できるという意味ではなく、緊張感と集中を傾注しやすい、という意味だ。
やがてそこに実穂さんのダンスがはいってくる。
老齢も少女も若い男性も、そして実穂さん自身も、さまざまなものが複雑に出入りするような自在な表現で、できればピアノを離れて見ていたいくらいだった。
80分弱の公演のエンディングは、語りが終わり、音とダンスが収束していき、完全な静寂がおとずれる。
長い沈黙。
お客さんも静寂のなかにたたずみ、最後まで付き合ってくれたのがうれしかった。
終演後は飲食もまじえながらみなさんとお話させていただき、知り合いも、初めてお会いした人たちとも、感想を聞かせてもらったり、質問に答えたりしたのが、楽しい時間だった。
撤収後は春野亭まで歩いてもどり、のぞみさんが料理をしてくれて打ち上げ。
ここ一か月くらい完全にアルコール断ちをしていた私も、ひさしぶりにワインをおいしくいただいた。
お祝いに満ちた一日が終わった。
2018年11月3日土曜日
イベント大整理(暇になったどー!)
今日は個人セッションを2件。
これまで土曜日は現代朗読ゼミや共感カフェなど、国立春野亭でのイベントも、出かけて行ってのイベントもはいることが多く、めったになにも予定がないということはなかったのだが、ここ数か月、意識的にイベントを縮小していって、スケジュールはだいぶ空白が多くなった。
数年前にとくに共感的コミュニケーションを伝えたり学んだりする場を増やし、出張ファシリテートも積極的に受けていたのだが、このところ多くの方が勉強や講座を主催するようになり、また日本人のNVCトレーナーもつぎつぎと誕生しているので、場作りについての私の役割やニーズは薄れてきたと感じている。
たくさんできてきたNVCの学びの場については、もろ手をあげて歓迎するとばかりはいえない状況ではあるけれど、それはそれとして日本でNVCがより浸透していく過程としては喜ばしいことだろうと思う。
私としては、場づくりより、そのような場が増えてしまうことによってともすれば見過ごされがちになる本質的な部分にもう一度焦点を当てなおす作業——テキストなどのコンテンツ作り——にリソースを傾注していきたいという望みがある。
また、必要としている人に必要なだけの共感を向けるための個人的な対応も大切にしたい。
そんなわけで、今日は朝からマイペースで書きものしたり、セッションしたり、編み物したりしているのだが、ずっと自分自身でいられる幸福な時間をいただいている感じだ。
だれからいただいているのかわからないが、感謝の気持ちがわいている。
(写真の編み物は赤ちゃん用の腹巻)
とはいえ、このあとは夜に、国立〈アグレアブル・ミュゼ〉でミニ公演をやるので、実穂さん・野々宮とミーティングをやることになっている。
こちらもまた楽しみなことだ。
◎11月3日:ダンス×朗読×ピアノ「初恋」@国立アグレアブル・ミュゼ
共感的コミュニケーションでつながった3人のアーティストとともに「自由」を探求する即興的瞑想の旅へお誘いします。演目は水城雄作、老婆と青年の仰天の恋物語「初恋」です。午後7時開演。
これまで土曜日は現代朗読ゼミや共感カフェなど、国立春野亭でのイベントも、出かけて行ってのイベントもはいることが多く、めったになにも予定がないということはなかったのだが、ここ数か月、意識的にイベントを縮小していって、スケジュールはだいぶ空白が多くなった。
数年前にとくに共感的コミュニケーションを伝えたり学んだりする場を増やし、出張ファシリテートも積極的に受けていたのだが、このところ多くの方が勉強や講座を主催するようになり、また日本人のNVCトレーナーもつぎつぎと誕生しているので、場作りについての私の役割やニーズは薄れてきたと感じている。
たくさんできてきたNVCの学びの場については、もろ手をあげて歓迎するとばかりはいえない状況ではあるけれど、それはそれとして日本でNVCがより浸透していく過程としては喜ばしいことだろうと思う。
私としては、場づくりより、そのような場が増えてしまうことによってともすれば見過ごされがちになる本質的な部分にもう一度焦点を当てなおす作業——テキストなどのコンテンツ作り——にリソースを傾注していきたいという望みがある。
また、必要としている人に必要なだけの共感を向けるための個人的な対応も大切にしたい。
そんなわけで、今日は朝からマイペースで書きものしたり、セッションしたり、編み物したりしているのだが、ずっと自分自身でいられる幸福な時間をいただいている感じだ。
だれからいただいているのかわからないが、感謝の気持ちがわいている。
(写真の編み物は赤ちゃん用の腹巻)
とはいえ、このあとは夜に、国立〈アグレアブル・ミュゼ〉でミニ公演をやるので、実穂さん・野々宮とミーティングをやることになっている。
こちらもまた楽しみなことだ。
◎11月3日:ダンス×朗読×ピアノ「初恋」@国立アグレアブル・ミュゼ
共感的コミュニケーションでつながった3人のアーティストとともに「自由」を探求する即興的瞑想の旅へお誘いします。演目は水城雄作、老婆と青年の仰天の恋物語「初恋」です。午後7時開演。
餃子! 今夜はダンス朗読ピアノの公演
先日作ったばかりだけど、またリクエストがあったので餃子を作る。
5人がかりで包んで、ミニホットプレートで焼いて、焼きあがった先から平らげてしまう。
80個くらいがあっという間に消える。
餃子はみんなで作るのが楽しい。
コンテンツ作り(執筆/編集)がちょっととどこおっているけれど、乗らないときは一行だけでも進めておくのがコツ。
なにかをするのに気分がノリノリばかりの時とはかぎらない。
むしろ、ノリノリである時のほうがまれ。
いつもノリノリだとしたら、なにかを疑ったほうがいい。
自分を騙しているとか、ひょっとして逆に調子をくずしているとか。
今日の夜はいよいよ国立〈アグレアブル・ミュゼ〉で「FLARE m3」ダンス×朗読×ピアノ「初恋」のミニ公演。
オーストラリア在住の矢澤実穂(ダンス)が一時帰国するチャンスをとらえて、朗読の野々宮卯妙もいれて急遽決まった公演。
めったにないこの三人のパフォーマンス、ぜひとも目撃していただきたい。
お席にはまだすこし余裕があるようです。
今日はこのあと個人セッションがひとつ、そのあと夕方にはかるく打ち合わせして、アグレアブル・ミュゼへ。
じつをいうと私はまだ一度も行ったことがなくて、ピアノも初対面。
どんな感じなのか、楽しみだ。
◎11月3日:ダンス×朗読×ピアノ「初恋」@国立アグレアブル・ミュゼ
共感的コミュニケーションでつながった3人のアーティストとともに「自由」を探求する即興的瞑想の旅へお誘いします。演目は水城雄作、老婆と青年の仰天の恋物語「初恋」です。午後7時開演。
5人がかりで包んで、ミニホットプレートで焼いて、焼きあがった先から平らげてしまう。
80個くらいがあっという間に消える。
餃子はみんなで作るのが楽しい。
コンテンツ作り(執筆/編集)がちょっととどこおっているけれど、乗らないときは一行だけでも進めておくのがコツ。
なにかをするのに気分がノリノリばかりの時とはかぎらない。
むしろ、ノリノリである時のほうがまれ。
いつもノリノリだとしたら、なにかを疑ったほうがいい。
自分を騙しているとか、ひょっとして逆に調子をくずしているとか。
今日の夜はいよいよ国立〈アグレアブル・ミュゼ〉で「FLARE m3」ダンス×朗読×ピアノ「初恋」のミニ公演。
オーストラリア在住の矢澤実穂(ダンス)が一時帰国するチャンスをとらえて、朗読の野々宮卯妙もいれて急遽決まった公演。
めったにないこの三人のパフォーマンス、ぜひとも目撃していただきたい。
お席にはまだすこし余裕があるようです。
今日はこのあと個人セッションがひとつ、そのあと夕方にはかるく打ち合わせして、アグレアブル・ミュゼへ。
じつをいうと私はまだ一度も行ったことがなくて、ピアノも初対面。
どんな感じなのか、楽しみだ。
◎11月3日:ダンス×朗読×ピアノ「初恋」@国立アグレアブル・ミュゼ
共感的コミュニケーションでつながった3人のアーティストとともに「自由」を探求する即興的瞑想の旅へお誘いします。演目は水城雄作、老婆と青年の仰天の恋物語「初恋」です。午後7時開演。
2018年11月2日金曜日
キース・ジャレット最新作「ラ・フェニーチェ」
ヴェネツィア・フェニーチェ劇場でおこなわれたソロコンサートのライブ録音アルバムだが、おこなわれたのは2006年7月。
なぜいまごろ? という話だが、受賞のお祝いの意味があるらしい。
賞というのは、今年、ヴェネツィア・ビエンナーレの音楽部門での金獅子賞のことだ。
これは現代音楽の作曲家であるピエール・ブーレーズやスティーヴ・ライヒも受賞している由緒ある賞で、ジャズピアニストとしては初の受賞となる。
初ではあるが、納得の受賞だと思う。
12年前の録音なので、現在のキースの音ではもちろんないのだが、現在のキースは健康を心配されていて、しばらくライブ活動は休止している。
心配だ。
高校生のころからジャズを聴きこんできたが、なぜかキース・ジャレットにはあまり関心が向かなかった。
私がジャズを聴きはじめた1970年代には、キースはすでにケルンコンサートなどで超有名プレイヤーとしての地位を確立していて、そんなところで逆になんとなく敬遠してしまったということがあるかもしれない。
あらためてキースを聴きこみはじめたのは2000年になってからだった。
2000年に私は福井の田舎から東京へと仕事場を移し、世田谷の豪徳寺の酒屋の地下室をスタジオにしていた。
地下倉庫を改造したスタジオで、完全遮音、完全遮光の環境だった。
あるとき、そこで、真っ暗ななか、キースの「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」というアルバムを聴いた。
ピアノの音が身体のなかにはいりこみ、染み渡り、知らず涙があふれてきた。
あとで知ったことだが、そのアルバムはキースが慢性疲労症候群で何年か活動を休止していたあと、自宅のスタジオで妻のためだけに演奏したものを収録したもので、往年のテクニカルで流暢な表現ではなく、寡黙で朴訥とした正直で無防備な音が胸を打つものだった。
それを聴いて、私自身、自分のピアノに向かう姿勢をあらためて深くかんがえさせられたりした。
以来、キースを聴きこむようになった。
とくに年齢とともに変遷していく表現には目をみはった。
病み上がり後のソロピアノの挑戦は刺激的で、完全即興でありながらも和声進行をともなかったもの(これは難しいよ!)から、調性のない現代音楽的なものまで、自分という現象を自由自在に、しかしピアノという制約の強い楽器を用いて抽象的に表現していく姿は、まさにキース・ジャレットというアーティストが唯一無二の存在であることを強く感じた。
この「ラ・フェニーチェ」は、そんな脂が乗りきった時期の演奏だ。
キースは1945年生まれなので、「ラ・フェニーチェ」は61歳のときの録音。
いまの私とおなじ年齢だ。
これを聴いて、比較しておれはだめだと落ちこむのか、刺激を受けて発奮するのか、それは私自身の選択である。
選択の自由はかぎりなく許されている。
なぜいまごろ? という話だが、受賞のお祝いの意味があるらしい。
賞というのは、今年、ヴェネツィア・ビエンナーレの音楽部門での金獅子賞のことだ。
これは現代音楽の作曲家であるピエール・ブーレーズやスティーヴ・ライヒも受賞している由緒ある賞で、ジャズピアニストとしては初の受賞となる。
初ではあるが、納得の受賞だと思う。
12年前の録音なので、現在のキースの音ではもちろんないのだが、現在のキースは健康を心配されていて、しばらくライブ活動は休止している。
心配だ。
高校生のころからジャズを聴きこんできたが、なぜかキース・ジャレットにはあまり関心が向かなかった。
私がジャズを聴きはじめた1970年代には、キースはすでにケルンコンサートなどで超有名プレイヤーとしての地位を確立していて、そんなところで逆になんとなく敬遠してしまったということがあるかもしれない。
あらためてキースを聴きこみはじめたのは2000年になってからだった。
2000年に私は福井の田舎から東京へと仕事場を移し、世田谷の豪徳寺の酒屋の地下室をスタジオにしていた。
地下倉庫を改造したスタジオで、完全遮音、完全遮光の環境だった。
あるとき、そこで、真っ暗ななか、キースの「メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー」というアルバムを聴いた。
ピアノの音が身体のなかにはいりこみ、染み渡り、知らず涙があふれてきた。
あとで知ったことだが、そのアルバムはキースが慢性疲労症候群で何年か活動を休止していたあと、自宅のスタジオで妻のためだけに演奏したものを収録したもので、往年のテクニカルで流暢な表現ではなく、寡黙で朴訥とした正直で無防備な音が胸を打つものだった。
それを聴いて、私自身、自分のピアノに向かう姿勢をあらためて深くかんがえさせられたりした。
以来、キースを聴きこむようになった。
とくに年齢とともに変遷していく表現には目をみはった。
病み上がり後のソロピアノの挑戦は刺激的で、完全即興でありながらも和声進行をともなかったもの(これは難しいよ!)から、調性のない現代音楽的なものまで、自分という現象を自由自在に、しかしピアノという制約の強い楽器を用いて抽象的に表現していく姿は、まさにキース・ジャレットというアーティストが唯一無二の存在であることを強く感じた。
この「ラ・フェニーチェ」は、そんな脂が乗りきった時期の演奏だ。
キースは1945年生まれなので、「ラ・フェニーチェ」は61歳のときの録音。
いまの私とおなじ年齢だ。
これを聴いて、比較しておれはだめだと落ちこむのか、刺激を受けて発奮するのか、それは私自身の選択である。
選択の自由はかぎりなく許されている。
2018年11月1日木曜日
編み物タイムがもたらすもの(思索とマインドフルネス)
10月の「共感編み物カフェ」が終了した。
編み物はもちろんだが、編み物以外にもラップトップを持ちこんで自分の「宿題」をする人、イベントの相談をする人、オンラインで飛びこみ参加してただ子どもといっしょに向こう側で近況など話してくれる人など、それぞれの自由とその尊重と安心が保証される場となっていた。
もちろん私自身がその場を必要としていて、楽しませてもらった。
参加してくれたみなさん、ありがとう。
私はこのカフェの直前に、一週間くらい取りくんでいたオパールを毛糸を使った腹巻帽子が仕上がったばかりだった。
なかなか大変な仕事だったが、輪針(棒針の一種)を使った初めてのまとまった一品となった。
で、編み物カフェではつぎの作品の、やはりオパール毛糸のすこし太めのやつを使って、赤ちゃん用の腹巻を編みはじめた。
明るい色合いがよく、赤ちゃんに似合う感じになりそうで、楽しく編みすすんでいる。
編み物をしているあいだ、さまざまなことをかんがえるが、おもにかんがえるのは執筆内容についてだ。
小説やエッセイ、ブログなど、つぎに書こうと思っているテーマについていろいろとかんがえをめぐらすが、編み物は思索に集中できていい。
散歩しながら思索をめぐらす人も多いが、私は編み物がしっくり来る。
かんがえているあいだも手は休むことなく動いているので、脳内に閉じこもってしまうことなく「いまここ」の自分の身体に容易にもどってくることができるし、また自分の身体といっしょにいながら思索している感じもある。
ゆるやかなマインドフルネスの状態だ。
かんがえはひとつの道筋だけでなく、さまざまに飛躍することもあるが、ときには執筆のテーマにそっていない思いつきが浮かんでくることもある。
そんなときはすかさず手をとめて、目の前にあるコンピューターやタブレットにメモする。
また、だれかの話を聴きながら編むこともある。
これはよい共感的聴き方の練習になるので、みなさんにもおすすめしたい。
いまや編み物は私にとってとても大事な時間となっている。
そしていよいよ、11月3日(土/文化の日)の夜は、国立〈アグレアブル・ミュゼ〉でダンス×朗読×ピアノの公演「初恋」を開催する。
お席には余裕があるので、みなさん、ぜひお越しいただきたい。
◎11月3日:ダンス×朗読×ピアノ「初恋」@国立アグレアブル・ミュゼ
共感的コミュニケーションでつながった3人のアーティストとともに「自由」を探求する即興的瞑想の旅へお誘いします。演目は水城雄作、老婆と青年の仰天の恋物語「初恋」です。午後7時開演。
編み物はもちろんだが、編み物以外にもラップトップを持ちこんで自分の「宿題」をする人、イベントの相談をする人、オンラインで飛びこみ参加してただ子どもといっしょに向こう側で近況など話してくれる人など、それぞれの自由とその尊重と安心が保証される場となっていた。
もちろん私自身がその場を必要としていて、楽しませてもらった。
参加してくれたみなさん、ありがとう。
私はこのカフェの直前に、一週間くらい取りくんでいたオパールを毛糸を使った腹巻帽子が仕上がったばかりだった。
なかなか大変な仕事だったが、輪針(棒針の一種)を使った初めてのまとまった一品となった。
で、編み物カフェではつぎの作品の、やはりオパール毛糸のすこし太めのやつを使って、赤ちゃん用の腹巻を編みはじめた。
明るい色合いがよく、赤ちゃんに似合う感じになりそうで、楽しく編みすすんでいる。
編み物をしているあいだ、さまざまなことをかんがえるが、おもにかんがえるのは執筆内容についてだ。
小説やエッセイ、ブログなど、つぎに書こうと思っているテーマについていろいろとかんがえをめぐらすが、編み物は思索に集中できていい。
散歩しながら思索をめぐらす人も多いが、私は編み物がしっくり来る。
かんがえているあいだも手は休むことなく動いているので、脳内に閉じこもってしまうことなく「いまここ」の自分の身体に容易にもどってくることができるし、また自分の身体といっしょにいながら思索している感じもある。
ゆるやかなマインドフルネスの状態だ。
かんがえはひとつの道筋だけでなく、さまざまに飛躍することもあるが、ときには執筆のテーマにそっていない思いつきが浮かんでくることもある。
そんなときはすかさず手をとめて、目の前にあるコンピューターやタブレットにメモする。
また、だれかの話を聴きながら編むこともある。
これはよい共感的聴き方の練習になるので、みなさんにもおすすめしたい。
いまや編み物は私にとってとても大事な時間となっている。
そしていよいよ、11月3日(土/文化の日)の夜は、国立〈アグレアブル・ミュゼ〉でダンス×朗読×ピアノの公演「初恋」を開催する。
お席には余裕があるので、みなさん、ぜひお越しいただきたい。
◎11月3日:ダンス×朗読×ピアノ「初恋」@国立アグレアブル・ミュゼ
共感的コミュニケーションでつながった3人のアーティストとともに「自由」を探求する即興的瞑想の旅へお誘いします。演目は水城雄作、老婆と青年の仰天の恋物語「初恋」です。午後7時開演。
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