先日、三軒茶屋のカフェ・オハナで共感的コミュニケーションのワークショップをおこなっていたときのことだ。
カフェ・オハナではほぼ隔月のペースで、この三年間、参加者が少なくても多くてもずっと私のワークショップを開催してくれている。
オーナーの藤田さんご夫妻とご参加いただいたみなさんに心から感謝している。
すべての人の言動や感情は、その人が大切にしていること(ニーズ)にもとづいている、という話をしていたと思う。
「ここにいるみなさんもなにかニーズがあってここに来ているわけです」
と私はいった。
それにつづけて、
「私にもニーズがあってここに来ています。たとえば、みなさんの学びに貢献したい、参加してくれる人とのつながりを大切にしたい、お店に貢献したい、自分の学びや成長のニーズもあるし、能力を発揮してだれかのお役に立ちたいというニーズもある。ほかにもたくさんあるかもしれませんね」
というような話をした。
そしてこのところなんとなく、ことあるごとに思いつづけてきたことを、みなさんにつたえた。
「私には共感的コミュニケーションにうまくノリきれない人、NVC難民といえるような人のお役に立ちたいという気持ちが、とくに強くあるんですよね」
私の共感的コミュニケーションの勉強会だけでなく、そのベースとなっているNVCのワークショップに参加している人のなかで、その原理はよく理解できるし、プロセスもすぐれたものだと思うけれど、どうもそれを使うことには自信が持てない、ノリきれない、なんとなく距離を感じてもやもやしてしまう、という感じの人をときおり見かける。
私にもそういう気持ちのときがあった。
一時はNVCから離れて、捨ててしまおうと思ったときもあったくらいだ。
そこからなんとかNVCの世界にもどってこれたのは、公認トレーナーであるホルヘ・ルビオという人に会うことができたからだった。
彼はだれよりもユーモアに満ち、自分のニーズに忠実で、ときに子どものように無邪気で、奔放で、しかしそのプレゼンスのある包容力をもってどんな人とも深いつながりを作ってしまう人だった。
あまりに型破りな存在に、私は「こんなんでもいいんだ」と安心するとともに、勇気づけられ、NVCの世界にふたたびもどっていくことになった。
私がめざしているのは、そういう存在になることだ。
ホルヘのコピーをめざしているわけではなく、私なりの方法でNVC難民を救えないかとかんがえているのだ。
私がオハナで「NVC難民を救いたい」といったとき、何人かの顔がパッと明るくなったのを見た。
それは私にとって「手ごたえ」といっていい反応だった。
ここに私の存在理由がある、と思った。
NVCでは「意味のニーズ」といったりする。
NVCを学んでいる人たちのグループには、一種独特の空気感がある。
そのなかにはいってしまえばまったくわからなくなってしまうのだが、私のようにいったんそこから離れようとしたとき、その空気が見える。
ひとつ。
NVCを学んでいる人たちの多くが、英語に堪能。
バイリンガルか、留学経験があるか、帰国子女か、混血だったりする。
もともとマーシャル・ローゼンバーグの『NVC』という本は英語であり、安納献くんらの労によって日本語に翻訳されて出版されるまで、英語を読める人しか接することができなかった。
いわばNVCの教科書といっていい本だ。
英語に苦手意識があるネイティブ日本人には、なかなかとっつきにくい面があった。
英語になんの抵抗もない人にはおそらく想像もできないだろうが、そこには一種、複雑でねじれた辺境感情がある。
ひとつ。
上記にも関係があるかもしれないが、NVCを学んでいる人たちはみんな、学がありそうだ。
実際に高学歴の人が多い。
私立公立を問わず、有名大学を卒業し、さらには大学院を出たり、あるいは留学経験があったりして、私のように最終学歴が高卒というような人間にはまぶしく感じる。
当然、知的職業についている人も多く、大学を含む教師だったり、なにかのトレーナーだったり、カウンセラーだったり、大企業の管理職だったり、あるいは大企業を早期退職して自分で起業した人だったり、アーティストだったり。
零細企業の平社員だったり、お店の店員だったり、アルバイターだったり、専業主婦だったり、といった人は参加するのに勇気がいる。
ひとつ。
お金に不自由していなかったり、時間的な余裕がある人が多いみたいだ。
NVCにかぎらないと思うが、昨今の自己啓発系のセミナーやワークショップは高額な参加費が必要なことが多い。
NVCのワークショップはかなり配慮されているが、それでも毎月の家賃や光熱費の支払いにもきゅうきゅうとしているような人には、気楽に出せる金額ではない。
それにも増して、日々の糧を得るために遊ぶ時間どころか寝る間もおしんであくせくしている人にとって、自分のための学びの時間を取ることすらままならないということがある。
NVCのワークショップに出られる、というだけでうらやましい人たちなのだ。
さまざまな障害や気後れ、敬遠感を持っている人たちにこそ、共感的コミュニケーションが必要であると私は感じている。
だからこのような「難民」の人たちが気軽に参加できる、そしてまた参加してみてもいいなと思わせるような条件や工夫ができないだろうか、ということを、このところずっとかんがえつづけている。
※2月の羽根木の家での共感・声カフェは、あさって・2月26日(木)19時からです。
詳細と申し込みは
こちらから。