2015年2月13日金曜日

言語思考と感覚体(瞑想はなぜ効果的か)

別項(音楽瞑想とはなにか)で瞑想の目的と効果を書いた。
それはひとことでいうと「言語思考を手放し、クリアな感覚体そのものになること」であった。
では「クリアな感覚体」とはどういうものなのか。

ヒトという生物種の最大の特徴は、大脳皮質を極端に肥大させてきた進化過程にある。
もっとも、ヒト以外にも大型哺乳類——とくにイルカやクジラの仲間——にも大脳皮質を発達させた生物種はある。
では、さらにいえば、ヒトはその大脳皮質と発声発音器官の変化によって「言語活動」を飛躍的に発達させた、ということが特徴だといえよう。

言語活動は文明の発展、社会の変化をもたらし、いまや地球をくまなく覆いつくすまでに活動範囲を広げている。
しかし同時に、言語活動によってヒトはさまざまな苦しみを抱えることにもなった。

言語はコミュニケートするために使われるほか、我々個々人が世界を把握し、理解するためにも用いられる。
言語によって世界を分節化・細分化し、そのことによって周囲の世界を詳細に理解しようとする。
たとえば科学の発展というのは、世界を限りなく細分化し、ネーミングし、分析することによっておこなわれるといってもいいだろう。

そうやって人は他の生物種にはない文明をきづいてきたのだが、言語活動にかたよりすぎた文明生活のなかで、本来ヒトが持っているはずのすぐれた感受性や表現能力をいちじるしく損なっている。
大脳は言語活動だけでなく、さまざまな情報を処理している。
ヒトはすぐれた感覚体であり、無限といっていい情報が感覚器官(神経系)を通してたえまなく脳に送りこまれている。
それをいちいち言語処理しているのでは、まったく追いつかないのだ。
むしろ感覚情報の処理においては言語活動は邪魔であるといえる。

ヒトが外界から、あるいは自分自身の内部から、無数の情報を受け取り、処理し、そのことに反応し、リアルタイムに表現していける能力。
たとえば武術。
敵が打ちかかってきたとき、いちいち言語思考で対応策をこうじているのでは、まったく間に合わないのだ。
たちまち倒されてしまう。
言語思考ではなく、感覚器官が受け取った情報にもとづいた適切な対応を脳が適切に処理判断して、全身で表現する、そのことによって身を守ることができる。

個々の能力——たとえば嗅覚——を取りあげて、ヒトは犬より劣っている、ということはできる。
しかし、総合的な処理能力においてヒトほどすぐれた感覚体とないといっていいのではないだろうか。
残念なことにそれは言語思考によってしばしば阻害されている。

自分がすぐれた感覚体であることに気づき、その能力を発揮したり、集中力を取りもどしたりするための方法のひとつが、瞑想である。
質のよい瞑想のあとは、全身が生き生きと活力に満ち、集中力と処理能力が格段に向上しているのを感じる。
本来の感覚体としてのヒトの能力が引きだされてくるのだ。

ただ、問題は、質の高い瞑想はとてもむずかしい、ということだ。
修行僧でも何年もかかって、それでも純粋な瞑想に達することはむずかしいという。
ましてや雑然とした毎日に明け暮れている我々生活者にとってはどうなのか、想像に難くない。

そんな普通人にも比較的容易なのが誘導瞑想で、これはだれかの言葉で誘導してもらい、自分の体感覚に注意を向けていくことで、結果的に言語思考の世界から離れていくという方法だ。
私はこの誘導瞑想を音楽を使っておこなう。
それが音楽瞑想だ。
とても好評をいただいている。

今夜も友人が自宅で十数人のこじんまりした音楽瞑想会を開いてくれるので、行ってピアノを演奏してくる。
演奏する私自身も深い瞑想にはいっていく。
とても楽しみなのだ。

※ 音楽瞑想のライブセミナーの詳細についてはこちらをご覧ください。