私なりのことばで表現すると、
「言語思考を手放し、クリアな感覚体そのものになること」
ひとことで「言語思考を手放す」といっても、これがなかなかむずかしい。
相当に修行を積んだ瞑想の達人であっても、ちょっと気を抜くとすぐに「言語思考」が頭のなかにわいてくる。
そもそも「言語思考を手放さなきゃ」というかんがえそのものが言語思考なのだ。
言語思考を手放すためにさまざまな工夫があるが、なかでももっともよく使われている有効手段として、「自分の身体の感覚に注目する」というものがある。
とくにそのなかでも、呼吸に注目する方法はだれでもアプローチが容易で、多くの瞑想法に取りいれられている。
しかしそれでもなかなか言語思考を完全に手放すのはむずかしい。
呼吸に集中しているつもりが、さまざまな言葉やかんがえが次々とわいて出てくる。
これはもう、大脳が発達したヒトの宿痾といってもいい。
音楽瞑想では言語思考を手放す手段として、音による誘導をもちいる。
音に注目して「いまここ」の自分のありようにアプローチしていく方法として、音楽瞑想(music meditation)はかなり簡便で有効な方法だ。
基本的に音はなんでもよく、聴感覚から感覚体としてのヒトの身体を浮かびあがらせるのだが、聴き知っている音楽やメロディはやや問題がある。
聴きおぼえのあるメロディを耳にしたとき、人は反射的に記憶を想起してしまい、思い出やそれにともなったイメージ、エピソードなどと結びつけてしまう。
思い出やエピソードをたどっていって、その瞬間の音を味わうことからどんどん離れていってしまう。
もはや耳は音を聞いておらず、頭のなかは言語思考でいっぱいになってしまう。
知らないメロディだとこれが起きにくい。
集中して聴く必要はあるが、聴感覚の味わいや想起されるイメージを追うことで言語思考が起こりにくくなる。
感覚体としての自分自身の存在があらわになり、瞑想効果が深まる。
音楽瞑想ではこれをめざす。
演奏する側もなにか特定のメロディやハーモニーをねらわず、ただその瞬間に生まれてくる音に身体を開放し、予定されたものではない音展開をたどっていく。
演奏者もまた瞑想しているといえる。
このようなミュージック・メディテーションの会を私は断続的に10年近くつづけてきたが、最近また開催する機会が増えてきたのは、社会情勢の要請によるものだろうか、あるいは別の理由があるからだろうか。
それはともかく、明日もごく小さなプライベートな瞑想音楽の会を開催することになっている。
個人宅のアップライトのピアノだが、ピアノがあればどこでも音楽瞑想の会を開くことができる。
明日も十数人だけの会だが、楽しみだ。
ピアノをお持ちで、あるいはピアノがある場所を使えて、音楽瞑想に興味がある方は、出張のライブセミナーを開催するので、どうぞ気軽にお問い合わせください。
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