今年2014年になる直前の2013年大晦日から新年にかけてのブログ記事をちょっと読み返してみた。
毎年感じることだが、1年前のその日に、1年後の今日このようなことをやっていて、このような状態、場所にたどりついていることは予想もできなかった。
つまり、計画、予測、希望といったことに執着するのはあまり意味がない、ということだ。
世の中、なるようにしかならない。
確実にいえるのは、いまこの瞬間の自分自身のありように気づきつづけ、自分のできることを力をつくして取りくむことだけが、ひょっとして自分を最良の場所に連れていってくれるかもしれない、ということだ。
ただしそれも「かもしれない」という話にすぎない。
しかし、1年前の自分の文章を読んでみると、なんとまあ未熟なことだろう。
いまだって、これを書いている自分自身の未熟さをひしひしと感じているわけだが、1年前の自分とくらべて多少はましになったのか、あるいは逆に後退しているのか、はっきりいってまったくわからない。
未熟である、ということだけはわかる。
未熟で、未完成で、無知で、蒙昧で、取るにたらない存在であるということははっきりとわかる。
それがわかる分、成長しているのだと思いたい。
私は来年、58歳になるが、この歳になるまでなにをしていたのだろうと思うと、ギュッと縮んで消えてしまいたいような思いにかられる。
人間の寿命が500歳だったらいいのに、とも思う。
あと450年生きられれば、私もすこしはましな人間になれたかもしれない。
実際にはあと10年、20年、事故や病気がないとしても、そんなものだろう。
悔やんでいてもしかたがない。
私にできるのは、ただいまこの瞬間の自分自身にできることを、力をつくしておこなうことだけ。
取るに足らない私の経験と知識を、残り時間のなかで次へと伝えていくだけ。
そのことをかんがえると、ちょっとだけ、ちらっと一瞬、希望のきらめきが遠くに見えるような気がする。