2019年6月12日水曜日

到達目標を設定すること(あるいは設定しないこと)

自分の命の残り時間が限られている(すべての人がそうではあるのだが)と体感したとき、とてもくっきりすることがある。

計画と実行の関係だ。
目的と経過の関係といいかえてもいいかもしれない。

例として語学学習を取りあげてみよう。
英語を勉強している。
目的は旅行や交友で「苦手だ」と思うことなく、支障なく英語を話したり聞いたりできるようになること。

どのくらい話せるか、どのくらい聞き取れるかのレベルはだいたいわかっている。
このくらい話したり、聞けたりできるようになりたい、というイメージはある。
決して同時通訳ができたり、学術やビジネスのプレゼンテーションが流暢にできることをめざしてはいない。
高等な内容の講演や講義を聞き取れるようになりたいとも思っていない。
しかし、この程度のレベルには達したいという明確なイメージはある。

そのための学習行程もだいたいわかっている。
毎日、余暇を利用してこつこつと学び、練習したり、ときにはレッスンに通ったりして、うまくいけば1年くらいで目的のレベルに達するかもしれないと思う。

しかし、もしあなたの余命があと半年しかないとわかったらどうする?
英語学習をやめますか?

ある目標に達することが目的で学習するのなら、その目標に達することが不可能だとわかった瞬間にそれは挫折せざるをえないだろう。
しかし、目標や目的とは別に、学ぶことそのものが「楽しい」と感じているなら、学習はつづくかもしれない。
あるいは、目的が「あるレベルに達すること」ではなく、「今日より明日の自分がすこしでも成長していること」に切り変わったとしたら、学習はつづくだろう。

私たちは自分が努力している多くのものごとを、「ある目的」のためにやっていると思っている。
そのための計画があったりする。
しかし、その計画を達成するための自分の時間が充分にないとわかったとき、その努力は無駄になるのだろうか。

努力していること、あるいはその行為そのものを楽しんだり味わうことはできる。
というより、この命を生きるというのはそのことそのものだったりしないか。

私が生きているこの命の目的はなんだろう。
よくわからない。
気がついたらこの世に存在していた。
自分の命の目的や意味をいろいろに設定したり、教えられて信じたりすることはできるが、本当のところはよくわからない。
しかし、命はげんにこうやって存在している。

いきいきと存在している命の働きそのものを味わうこと、楽しむこと、そのことが命の示している方向なのではないか。

私は毎日、武術の稽古をしているが、目的としては強くなること、相手を倒すこと、自分や大切な人の命を守ることなど、さまざまにある。
そのために稽古するわけだが、実際のところ稽古自体が楽しいということがある。
自分の未知の働きを発見したり、昨日の自分とは成長した自分を感じたり。

それを楽しめるなら、自分の余命が半年だろうが、一年だろうが、十年だろうが、関係はない。
ただこの日をマインドフルに、自分自身を誠実に、懸命に生きるだけだ。

この命がどこで消えるか、それはわからない。
たとえ医者から「あと半年」と告げられたとしても、それとて真実であるとはいえない。
明日かもしれないし、実際に半年後かもしれないし、あるいは五年、十年と生きのびるかもしれない。

たしかなのは、いまこの瞬間、ここにこうやって生きて存在している、ということだ。