ことばを使ってコミュニケーションをおこなう、ことばを使って表現する、ことばを使ってさまざまなことを学ぶ、ことばを使ってものごとをかんがえる……このような言語活動は、私たちがヒトとして社会生活をいとなむために不可欠なものです。
もちろん、朗読も言語活動の一種です。
私たちは生まれ落ちたときから、人が話すのを聞き、ことばを理解しようと耳を傾けはじめます。
最初は混沌とした音のかたまりにしか聞こえなかったことでしょう。
赤ちゃんがお母さんの話している声に集中し、懸命に聴いている姿を、だれもが見たことがあるでしょう。
記憶にはありませんが、私もそのようにしていたはずです。
混沌とした音群のなかから、すこしずつパターンを聞き分け、それがある種の意味を持っていることを察知していきます。
そして徐々にことばを認識し、自分でもそれを発語する練習をはじめるのです。
ことばを認識し、話すようになるというのは、ひとつの型をおぼえる稽古といっていいでしょう。
ダンスでも音楽でも、あるいはスポーツでも、ひとはある種の型を稽古することで身につけ、上達していきます。
言語活動もおなじです。
私たちは生まれて以来、現在にいたるまで、繰り返し、毎日、その型稽古をおこなっているといってもいいでしょう。
それはそれで社会生活をおこなうために必要なことですが、その「型」は社会の共通項であるがゆえに人の「個性」を拒否します。
「型」にはその理想形があり、そこをめざせばめざすほどオリジナリティは消えていきます。
ことばによる伝達のプロであるアナウンサーがみなおなじような感じがするのは、そのせいです。
言語の持つ「型」という社会性を踏みはずさない範囲で、どこまで自分のオリジナリティを表現できるか。
オリジナリティというのは自由な生命活動そのものといってもいいでしょう。
私たちは社会の型に自分をはめこむことができると同時に、それ以前に存在している気ままでのびやかな生命活動を持っていて、そのことにどこまで気づいていられるか、ということがいきいきと予測不能で多様な表現行為をもたらしてくれるのです。
現代朗読では、ときにその「型」をぎりぎり踏みはずすキワまで進入することがあります。
つまり、「なにをいっているのかわからない」という表現を取ることもあります。
そのときになにが垣間見えるのか。
なまの生命活動のようなものが表現されることもあります。
朗読がそもそも音声表現であり、音楽のようでもあり、さらには身体表現そのものであるということに気づかされる瞬間でもあります。
そのとき、言語活動であるはずの朗読表現が、社会性から遠ざかってきわめて個人的な生命の表現となるのです。
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