「この部分はこう読もう」
「ここはこういう意味だから、こんなイメージで読もう」
「ここからシーンが変わるから、テンポとトーンを変える」
「練習どおりにやろう」
「アラが出ないようにうまく読もう」
これらはすべてたくらみ、もしくは思考であり、それらのことが「あたま」を占拠しているとき、身体パフォーマンスである朗読はいちじるしく「いまこの瞬間のいきいきさ」を損ないます。
現代朗読においてももちろん、あらかじめ読みこんだり、練習したりしますが、そのときに「こう読もう」などと決めたり、予定したり、たくらんだことを、いまこのライブの瞬間に持ちこもうとするのは、過去を現在に持ちこもうとすることであって、それは現在のいきいきさを損なうのです。
たくさん読みこみ、たくさん練習したとしても(もちろんそれらは必要なことですが)、ライブパフォーマンスのその瞬間にはそれらをすべて手放し、いまこの瞬間の自分自身の身体につながり、そのダイナミックな変化をとらえ、気づきつづけながら、いきいきと表現していきます。
「あたま」のたくらみから可能なかぎり自由になり、いきいきと「いま」を生きている身体全体で表現していきたいのです。
それは「いま」を生きている自分自身の生命現象の表現です。
ここに過去を持ちこみたくないのです。
しかし、「あたま」はそれを頑迷に拒否します。
なんとか過去の経験や記憶、イメージなどの思考に人を引きずりこもうとします。
朗読において、いまこの瞬間の自分自身で表現することがむずかしいのは、「ことば」を使った表現だということがあるからです。
たとえばダンスなら、思考をてばなし、身体の声だけを聞いて表現することは、ストレートな方法に思えます。
音楽もそのようなところがあります。
ところが、朗読はことば、文章、ストーリーという、人の思考が生みだした「記号」の集合体を、もう一度自分で読みとって、言語に変換し、発語するという過程を経ます。
どうしても「あたま」を通過する表現なのです。
それなのに、思考を手放すことが求められる。
これはいわば、ほとんど無意識・自動的に自転車を運転しながら、あれこれかんがえをめぐらしている状態の、まったく逆の状態です。
なにか必要な計算や思考をしながらも、自転車をこいでいる自分の身体に注目しているような状況です。
頭のごく一部の、文章を読んでそれを発語することに必要な部分のみを働かせて、それ以外の部分はすべて、自分の身体の現在に起こっていることに注目し気づきつづけることに使う、というような状態です。
これをトレーニングで養うのですが、そのむずかしさとおもしろさは実際にそのことを試み、集中して取りくんでみればわかるでしょう。
あたまと身体の関係において、朗読はとても複雑な表現行為としての構造を持っているといえますが、これを日常生活のなかで練習したり、生かすこともできます。
たとえば洗い物をするとき、その手順は決まっていて、思考のごく一部を食器を洗うという行為に割り当てておきながら、ほかの大部分は自分の身体を感受することに集中してみる、という練習です。
ほとんど自動的に洗い物をしている自分が、いまこの瞬間、どのような身体感覚があり、変化があるのか、という観察と注目を試みてみます。
洗い物にかぎらず、歩いているときでも、草むしりをしているときでも、食事をしているときでも、さまざまな機会をとらえて、頭――すなわち思考に奪われがちな自分の身体を取りもどす練習をすることができます。
◎四茶げろきょオープンマイク、ふたたび(5.24)
あらゆる“評価”から解放される表現の場である現代朗読協会の「朗読オープンマイク」が、ひさしぶりに帰ってきました。5月24日(火)夜、三軒茶屋のライブカフェ〈四軒茶屋〉にて開催。