2016年1月31日日曜日

映画:クローバーフィールド/HAKAISHA

強刺激映画、注意。
ネタバレ、注意。

2008年のアメリカ映画。
映画だけど、映像は最初から終わりまで「手持ちカメラで素人が撮影した」という設定。
なので、画面ブレまくり、構図めちゃくちゃ、音声もカットも飛び飛び。
そしてストーリーの視点も当然ながら、撮影者の視点に固定されているので、撮影者が見るもの・聞くもの以外の情報は観客にも知らされない。

これらのことを、たぶん非常に緻密に計算して作られている映画なのだろうと推測される。

これも一切説明がないのだが、ゴジラを連想させる巨大怪獣が海のなかから突如あらわれて、ニューヨークを襲うという設定。
怪獣が暴れまわる映像も、戦闘機やヘリコプターが飛びまわったり、ミサイルが打ちこまれたりする映像も、全部「手持ちカメラ」で断片的にとらえられているのを、観客は自分がカメラを構えているような感じで映画に無理やり参加させられる。

そしてストーリーも映像も、冒頭に書いたように「強刺激」。
気の弱い人は観ないほうがいいかも。

最初はなんだかのんびりした(しかしブレブレの手持ちカメラの映像が気持ち悪い)パーティーのシーンがだらだらとつづき、まったく予備知識なく見はじめた私は途中で見るのをやめようかと思っていたら、急に緊迫したシーンがはじまった。
そのあとは、緊迫に次ぐ緊迫。
生きるか死ぬかというシーン。
実際におおぜいの人が死ぬし、えたいの知れない巨大生物がチラチラと見え隠れして、これ以上ないほどの思わせぶりな映像。

後半は本当に恐ろしく、ラストシーンは心底震えあがる。
ガツンという刺激(しかしそれは実生活ではなくフィクションであり結局のところは安全が保障されている)がほしい人にはおすすめ。

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2016年1月30日土曜日

新作音楽アルバム「Music Meditation Vol​​.​​12 summer solstice」リリース

音楽の新作アルバム「Music Meditation Vol​​.​​12 summer solstice」が完成し、配信スタートしました。
全曲試聴できるほか、ダウンロード購入もできます。
こちら

2015年1月1日からYouTubeでほぼ毎日配信した「音楽瞑想(music meditation)」を、日本の24節季ごとに切り出したアルバムするプロジェクト、その第12弾です。
Bandcampのアルバム用に音源はリマスタリングしてあります。
Vol.12は「夏至(summer solstice)」です。
収録曲をリストしておきます。

 1. stomp (2:13)
 2. lily (2:26)
 3. fountain (2:08)
 4. roofs (2:39)
 5. dance (2:02)
 6. spark (2:12)
 7. gate (2:59)
 8. pouring (2:11)
 9. pelican (2:58)
10. kite (2:13)
11. agreement (2:32)
12. sleep (3:02)
13. whirl (2:11)
14. hypha (1:56)
15. room (2:40)

プール、韓氏意拳、呼吸、瞑想、身体のこと

早起き(市民薄明の時刻起き)のことはすでに書いたが、それにつづいて昨年11月からつづけていることがある。
スイミングの再開だ。

何年かのブランクのあと、11月に再開したとき、200メートル泳いでおぼれそうになってしまったほど泳ぎの身体が衰弱していたが、そこからふたたびじわじわと伸ばして、年内に700メートルまでのばした。
年末年始のブランクがすこしあって、そのせいでいったん500メートルまで後退したが、ふたたび伸ばして、来月中には1,000メートルまで伸ばしたいと思っている。
そこからはタイムトライアルにはいる。

老いらくの身体作りだが、2013年の中ごろからはじめた韓氏意拳では、自分の身体の声を緻密に聴く稽古をつづけている。
今年はもう四年目にはいるので、それなりに稽古の深まりがあるように感じている。
もっとも、韓氏意拳はひとり稽古が基本なので、自分の進捗状況はなかなか客観的に把握するのがむずかしい。
それでも、毎日やる。

今日一日、自分の能力を最大限に発揮しながら生きるためには、今日のコンディションがものをいう。
コンディションというのは、メンタルもあるけれど、身体的なものに左右されるものが大きい。
それなりの年齢だし、故障がまったくないわけではないけれど、その制約のなかでもベストの状態で今日という一日にのぞみたい。

今日のコンディションを左右するのは、昨日なにをしたかであり、またここ一週間どうすごしたかであり、さらにいえばこの一か月、この一年をどのようにすごしたかに関わる。
私たちは身体も心も流動的であり、たえず変化し、流れつづけている。
その流れがどのような形を取るかは、日々のおこないによって変わってくる。

そんなわけで、今日は今日という一日のなかで自分をととのえるためにやれることはやりたい、と思うのだ。
突発的に忙しかったり、事件が勃発したり、旅行に出たり、イベントが立てこんだりすると、コンディション調整に時間を使えないことも多々あるしね。

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2016年1月29日金曜日

映画:セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター

渋谷アップリンクで上映中の映画「セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター」を観てきた。
「パリ=テキサス」「ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブ」や「ピナ」の監督のヴィム・ヴェンダースと、サルガドの息子のジュリアーノ・リベイロ・サルガドの共同監督作品で、写真家のセバスチャン・サルガドの作品と活動を追ったドキュメンター映画だ。

これを観に行く気になったのは、TEDでサルガドが自分の活動について話しているみじかいスピーチを観たからだ。
それはこちらから観れる。
⇒ https://youtu.be/LTkl1ExPapw

これを観て私は、ひとりの人間が「フォトグラファー」という立ち位置のもとに、社会問題にたいして考えうる最大限の影響力を持つにいたる可能性にわくわくするのを感じた。
サルガドという人物がフォトグラファーという職業を超えて世界を変えていくさまに驚愕した。

もちろん私にはそこまでの力はないけれど、方向性としては自分がそれを望んでいたことに気づいた。
つまり、私は「小説家/音楽家」という明確な立ち位置で、自分がいずれいなくなるこの世界にたいして、すこしでも「自分がいたことで変わった」というものを残したではないか、という手応えをもとめているのではないか、ということだ。

そんな話を人にしていたら、いままさにアップリンクで映画が上映されていることを教えてもらった。
すぐに行って、観た。

セバスチャン・サルガドはジャーナリスティックな仕事からスタートして、人間の置かれている厳しい状況、過剰さ、暴力、欲望、飢餓、貧困などを、世界中を旅しながら写しとっていった。
それを妻が支え、展覧会や写真集が生まれ、仕事が社会的な影響力を持っていった。

少数民族、働く人々、戦争、紛争、飢饉、虐殺、そういったものを写しとる仕事のあとに、サルガドは心身を病み、故郷の地で森の再生を家族とともに試みはじめる。
「ジェネシス」という地球と生命と、人類の原初的な姿を写すプロジェクトがスタートし、森が復活していく。

老いた彼は、しかし、この復活した森をあとにして、自分の物語を完結させることができる。
壮絶で、激しいが、幸福な人生だろうと思う。

そして私たちは、あるいは私は、彼の仕事から、あるいはこの映画から、なにを感じ、なにを学ぶことができるだろうか。
感じ、学んだことを、明日からの行動に変化として反映させることができるだろうか。
最終的に自分自身が問われる映画なのだろうかと思う。

2016年1月28日木曜日

5か月つづいている市民薄明起床

昨年2015年9月からつづけている習慣。
日の出前の、市井の人々が明かりなしで外で活動できるようになる時刻を「市民薄明」というのだが、いまだと世田谷で日の出が6時44分、市民薄明が6時17分くらいだ。
この市民薄明の時刻に目覚ましをセットするようにしている。

当然、季節によって起床時間がすこしずつ変動する。
いまは比較的遅い時間だが(それでも冬至をすぎて徐々に早まっている)、夏だと4時すぎくらいになる。

市民薄明の時刻に起きて、身支度、お茶かコーヒーをわかして、落ち着いたら、そこから私のプライムタイムとなる。
いまだと6時20分くらいに起床、身支度、猫のご飯、お茶を水筒に準備。
それから仕事部屋に行って、愛用の MacBook Pro 13インチをおもむろに起動。

古民家は冷えこみが厳しく、室温が5度とか、先日は2度ということもあった(さすがに水道が凍りかけた)。

最初にやることは、今年にはいってからスタートした個人的メールマガジン「水マガ」の配信。
内容はほぼ前日のうちに準備してあるので、配信システムに流しこむだけ。

それが終わったら、重要なメールだけチェックして(対応が必要なことはめったにない)、もっとも集中と能力が必要な執筆仕事にはいる。
自分のなかではなんとなく順位があって、つぎのリストの下にいけばいくほど気楽にやれる。

 創作(小説や詩)
 脚本(ラジオドラマや朗読公演)
 ハウツーもの(手帳術とか)
 エッセイ(随筆やレビュー)
 日々の活動のレポート

午前7時前から9時すぎまで、これらを時間軸のなかに配置して集中的におこなう。
幸い、この時間は外からの邪魔がはいりにくいので(気晴らしにゴミを出しに行くことはある)、私にとってもっとも大切で生産的な時間となっている。

これが終わったら、プールに行ったり、曜日によってはゼミがあったり、人が来たり、出かけたり、あいている時間があればメールの返事をしたり、イベントの告知をしたり、音楽の仕事をしたり、といった感じ。
夜はイベントがあるときはそれに出たり、出かけることもあるが、なるべく頭を使うことはせずにバカ映画を観たり音楽を聴いたりして、早めに寝てしまいたい、カッコキボウ。

というのが、ここ5か月の私がつづけている生活だ。
いまのところうまくいっているので、もうしばらくつづけてみようと思っている。

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2016年1月27日水曜日

新MacBookでびっくりしたこと(それは音)

年明けて10日くらいたったときに、うっかり、愛用の MacBook Pro 13インチの上に水筒のお茶をぶちまけてしまって、起動しなくなった。
いや、起動はするのだが、ディスクが見つからないといわれる。
あれこれためしたが、どうにも復旧できないので、15日にアップルストアに持ちこんだら、修理だという。
修理代が高くて非常に痛かったが、これがないと仕事にならないのでやむをえない。
自分の不注意がわるい。

なおってもどってくるまでの5日間に、代替機と、倒してもお茶がこぼれない水筒を用意した。

代替機は新型のMacBookで、これはもうびっくりするくらい軽くて薄い。
だけど、実際に使ってみると、不満だらけ。

薄いのはいいが、その分、キーのストロークが犠牲になっていて、私のようなハードパンチャーにとっては使いにくいことこの上ない。
手応えが弱いので、やたらと打ち間違えをする。
使いこんでいけば慣れるのかもしれないが、こちらに慣れると今度は普通のストロークのキーボードの操作に差し支える。

私はピアニストで、ピアノのある程度重さのある鍵盤に慣れているのだが、シンセサイザーやオルガンの軽いキーは使いにくく、演奏に差し支える。
それに似ている。
最近はシンセサイザーもピアノタッチのキーボードを備えているものが増えてきたが、MacBookも薄い筐体とキーストロークを両立させてくれればいいのに、と思う。

ほかにもいろいろ不満がある。
CPUが非力だ。
文字入力やネット巡回くらいは不自由はないのだが、画像や音声の編集には差し支える。
加えてそれらはビッグサイズのデータを扱うことが多いので、内臓ディスクは大きければ大きいほうがいい。

MacBook Pro では1テラバイトの内蔵SSDを使っている。
そのくらいないと私の使用には差し支える。
新MacBookは500ギガバイトしかないので、データを十分に乗せられない不満があるのと、音楽演奏ソフトなど巨大な音源データを持つアプリケーションはインストールできない。
たとえば LogicPro や、それに付属の MainStage という演奏ソフトだ。

ただひとつ、びっくりしたことがあって、内蔵のスピーカーの音がいいのだ。
ふと音がいいことに気づいて、どのくらいいいのか、修理が終わって帰ってきた MacBook Pro 13インチと同時におなじ音源を鳴らして比較してみた。
もうびっくりするくらい、新MacBookのほうがいい。

比較すると、Proのほうが硬くて奥行きのない音に感じられる。
そもそもラップトップの音なんてそんなに期待していなかったので、これにはびっくりだ。

これまでミニライブなどでは MacBook Pro にMIDIコントローラーをつないで、モバイルスピーカーを外付けにして鳴らしていたのだが、新MacBookならモバイルスピーカーも不要だ。
だが、演奏ソフトをインストールできない。

ふと思いついて、もともとインストールされている GarageBand を鳴らしてみた。
これは簡便な音楽製作ソフトだが、音源もそこそこはいっている。

鳴らしてみたら、けっこういけるではないか。
これからじっくり音源を調べてみる必要があるが、これでいけるかもしれない。
つまり、ミニライブのとき、この薄くて軽い新MacBookとちっぽけな(ポケットに入りそうなほどの)Keith McMillen のQuNexusというMIDIキーボードを持っていくだけで、コト足りるということになる。
すげー。

2016年1月26日火曜日

映画:インサイド・マン

お正月に見た映画シリーズ。
2006年のアメリカ映画。
主演はデンゼル・ワシントンで、ちょっと間抜けな刑事役を演じている。
間抜けといっても、本来はやりてで、余裕こいてる感じでいつも仕事していて、仲間からも一目置かれているが、この映画では完全に間抜けな役回り。
といっても、最後の最後で詰め寄るんだけど。

銀行強盗の話。
かなり大掛かりな感じで5人組が銀行に押し入り、50人の行員と客を人質に取る。
なんとなく「ダイハード」を連想させる冒頭部分。
で、大金を奪って、さてどうやって脱出するんだろうと思っていると、なぜかぐずぐずと居ついて、しまいにはいらぬ要求を出してきたりする。
その交渉にあたる刑事役がデンゼル・ワシントン。

その銀行の頭取と密着してコトにあたるいかにも有能っぽい弁護士役が、ジョディ・フォスター。
これがまたヤな感じの役をうまく演じてる。
ジョディ・フォスター、最近なんだかこんな役回りばかりじゃない?

結局、警官隊が強行突入するんだけど、人質全員がおなじ服に着替えさせられていて、犯人と人質の区別がつかない。
全員逮捕するも、犯人が特定できない。
そして、銀行からは現金はおろか、なにも盗まれていない、という奇妙な事件。
いったいなんだったんだ、というところに、頭取の秘密の過去があきらかになってくる、という展開。

真の犯人はだれだったのか、強盗のねらいはなんだったのか。
なかなかよくできているストーリーで、まったく無理がないとはいえないけれど、楽しめた。

2016年1月25日月曜日

自分がはまりこんでいる枠型に気づく

現代朗読の体験参加に来られる方の多くが、あらかじめウェブサイトやフェイスブックを見て、ここでやっていることがほかの朗読講座や教室とはどこかちがった感じであることを知って、興味を持つようだ。
たしかにだいぶちがう。
わかりやすく、なにが決定的にちがうのか、しめしておきたい。

たいていの朗読講座では講師や先生、つまり指導者がいて、その方はたいていすぐれた朗読者であるとされている。
実際、アナウンサーであったり役者や声優であったり、語り部であったり、すぐれた朗読技術を持っている方が多い。
なので、指導者は「このように読みなさい」という「読み方」や「方法」をしめしてくれる。

そう読めばいいんだ、こういうふうに練習すればいいんだ、としめされたとき、生徒は安心してその努力をする。
たとえとてもきつくて難しい練習であっても、指導者がまちがいなくそういっているのだから、そのとおりにすればいずれかならず指導者のようなすぐれた朗読者になれると信じることができる。

現代朗読では「読み方」や「方法」を教えることはいっさいない。
それらの練習方法や形は自分の外側からあたえられたものであって、「表現行為」の本質ではないとかんがえるからだ。
表現行為の本質とは、自分自身から表出する生命活動そのものに裏打ちされたその人本来の生き生きした「なにか」であろう。
つまり、そう表現するその「根拠」は、内在するものであって、外側からあたえられるものではない、とするのが現代朗読だ。

その方向性で実際に朗読してみると、だれもが、自分がいかに多くの「外部から与えられた枠型」にはまりこもうとしてしまうかに気づく。
いや、まずそれに気づくことすら、最初はむずかしいかもしれない。
なぜなら、多くの人がほとんど無意識に、自分の外から与えられた枠型に自分をはめこみ、それで楽をしながら生きているからだ。
そう、枠型に自分をはめこんで生きるのは楽なのだ。

どんな「学び」でも、外から与えられた「こうしろ」あるいは「こうしてはいけない」という枠型をなぞる練習をすることがもっとも楽だ。
人気のある教室は魅力的な枠型を用意して、人々を待ち受けている。

現代朗読にはこちらから参加者に与える枠型はない。
まずやってもらうのは、自分がどのような枠型にはまりこんで表現しようとしているのか気づいてもらうこと。
つぎに、その枠型をはずせるかどうか、そのために自分の内側に起こっている生命現象のダイナミズムに気づき、聞き、触れていくことができるかどうか。

むずかしく聞こえるかもしれないが、試みるのは、ようするに「自分がどうすれば楽しく、生き生きしてくるのか」その方向をさがすのだ。
そうすれば自然に外部的枠型ははずれていく。

どう表現するかの根拠は、自分自身のなかにある。
これが現代朗読の基礎になっているかんがえかただ。
だから、現代朗読にはお手本もルールも、上手・下手もない。

じゃ、主宰者であるあんた(水城)はなにをしているのかって?
みなさんが自分自身の命につながるお手伝いをしているのです。
そこに私の喜びがあるのです。

朗読表現基礎ゼミ(2.6)
従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を基礎からじっくりと学ぶための講座。2月6日(土)のテーマは「朗読という表現行為/表現とはなにか/自分自身を表現するということ」。単発参加も可。

2016年1月24日日曜日

無反応、あるいは話をそらす相手とどうつながるか

共感的コミュニケーションの勉強会で、
「こちらがつながりたい、共感したいと思っていて、そのように声をかけているのに、反応がない、無視する、あるいは話をむにゃむにゃとそらしてしまう相手とつながることはできますか?」
という質問があった。

もちろんできる。
というか、すくなくとも可能性はある。

こちらから共感しようとしているのに、反応しない、無視する、話をそらす、というような態度をとっている相手は、つまりそういうメッセージを発しているわけだ。
「いまきみのことばには反応したくない」
「いまきみのことばを無視したい」
「いまきみのことばを受け取りたくない」
という明確なメッセージを発していると受け取ることができる。
そのメッセージの奥にあるニーズを、こちらは推測できる。
相手にたいするこちらの判断や思考を捨て、純粋にそのメッセージを受け取り、共感の推測を向けられるかどうか。
それがあなたに試されていることだ。

純粋に相手に興味を持ち、共感の推測を向けるとき、たとえまだことばを発していなくても、あなたは共感的身体性をすでに表現しているだろう。
それはひょっとして、相手にも伝わっているかもしれない。

つながりを拒否している相手は、安全やスペースを必要としている。
どう反応しても、なにをいっても、あなたに受け入れられるという安心感と、この場にいても大丈夫という安全が保障されている必要がある。
それが感じられないとき、相手は表現することがむずかしい。
あなたは相手にたいして、ここが安全な場であり、安心して表現できるのだ、私にはその準備がととのっていますよ、ということを相手に受け取ってもらう必要がある。

あなたが共感的な受け取り手であると相手が信頼できたとき、相手はようやくあなたとつながれる準備ができる。
あなたの声が相手にもとどくようになるし、必要なこと・大切なことをあなたに伝えることができる。

さらに共感的身体性をもってことばをかけることもできる。
「きっといまはなにか安全や安心が感じられなかったり、スペースがなかったりして、私と話したくない気持ちなんだね。でも、私はきみの話を聞きたいし、私の話も聞いてもらいたいので、もし落ちついて準備ができたらそう知らせてくれないかな」
とお願いしておくのもいいだろう。
そのときはまだつながれなくても、すくなくともこちらが共感的に受けとる準備があるということは相手に伝わるだろう。

あなたを受け入れる容れ物として私がここにいますよ、ということを伝えておくことで、拒否している相手とのつながりの可能性を保持しておける。
あなたがそれを望んでいるなら、という話だが。


1月の羽根木の家での共感カフェは、1月29日(金)19〜21時です。

【水マガ】2016年1月24日号(Vol.24)配信しました

「水城ゆうメールマガジン」(略して「水マガ」)の最新号を配信しました。

目次
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1 【共感】無反応、あるいは話をそらす相手とどうつながるか
2 【創作】ラジオドラマ 「虹いろ輪舞曲」つづき5
3 お便り紹介
4 お知らせ
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登録(無料)はこちら

内容の一部を紹介します。

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さやか「おばあちゃんはどういうきっかけでおじいちゃんと結婚することになったの? ふたりはおなじ学校で働いていたって聞いたけど」
安枝「おや、そんなことを聞いたんだ。だれがいってた?」
さやか「パパから聞いた」
安枝「和彦にそんなこと話したことあるかねえ。よくおぼえていたね、和彦も。そう、私と昭一郎さんはおなじ職場だった。死んだおじいちゃんは高校で先生をしていてね。私はその高校で事務員をしていたんだよ」
さやか「じゃあ、恋愛結婚?」
安枝「それが微妙な感じでね……私は二十一くらいだったからまだ結婚する気はなかったんだけど、あの人はどうなのって世話をしてくれる人があってね、お見合いしたんだよ。といっても、毎日顔を合わせているんだからね、学校で。変なものだったけどね」

2016年1月23日土曜日

やらなきゃいけない、という思いに隠れている怖れ

私のところには朗読や演劇など、声優や役者、あるいはそれをめざしている人が来ることが多い。
私は時々、彼らのなかに強い「怖れ」がひそんでいることに気づくことがある。
そしてそのことに、彼ら自身は気づいていない。

たとえば、よりよい表現者になることをめざしたり、仕事を獲得したいと思ってがんばっているのに、練習に身がはいらない。
ボイスサンプルを作らなきゃと思っているのに、気が乗らない。
自分がなにをしたいのかわからなくなってしまって、毎日ぼんやりしてしまったら、アルバイトなど別の仕事をやたらと詰めこんでスケジュールを埋めようとしてしまう。

これは表現者にかぎらず、一般のサラリーマンや主婦でもいえることかもしれない。
自分がなにをしたいのか、なにを生きがいにしたいのか、なにが楽しくて毎日すごしているのか、見えなくなってしまって、頭がぼんやりしたり、動きにキレがなくなっている。
そういう状態は私にもおぼえがある。

先日、げろきょのゼミ生のひとりからそういう悩みを打ち明けられたので、共感を試みた。
「やる気が出ないんだね?」
「はい」
「なにをやっても楽しくない?」
「はい」
「やらなきゃと思ってることがあって、それをやろうとするとつらくなるの?」
「辛いし、面倒くさい。やる気が起こらなくてだるいんです」
「それをやることに抵抗がある?」
「あります」
「こわい感じがする? そこに怖れはないだろうか」
すると彼女は一瞬、はっとした顔になった。
「たしかに怖いのかもしれません」
「きみが怖いと感じるのは、自分が努力しても思うように成長する実感がえられなかったり、人からそれを認めてもらえないと怖れているからかな?」
「そうかもしれません。いくらやっても自分が思ったようにならないことが怖いんです」
「きみには成長のニーズがある? あるいは認めてもらうことが必要?」
「必要ですね」

などとじっくり共感していったら、彼女が最後につながった自分のニーズは「気楽さ」と「能力」だった。
自分に必要な能力がそなわって、楽々とリラックスして仕事や挑戦に向かえるようになりたい、という。
そこにつながることができたら、彼女のもやもやはすでに解消しはじめているといっていいだろう。
自分のニーズがはっきりと見えていれば、そのニーズを満たすために自分が取るべき行動もはっきり見えるし、またその手段も多様にあることがわかってきて、行動の選択肢も増える。
ぼんやりした状態から脱し、キレのある毎日の行動が生まれてくるだろう。
また、自分自身の生きがいや、もともと感じていた楽しさもよみがえってくるはずだ。

めんどくさい、怖い、不安といった漠然とした感情があるとき、その背後に自分のどんなニーズがあるのか、自分で探してみるのもいいし、だれかに聞いてもらっていっしょに探してもらうのもいい。
自己共感をふくむ共感のスキルをあげる方法はさまざまにある。

共感カフェ@羽根木の家(1.29)
1月の羽根木の家での共感カフェは、1月29日(金)19〜21時です。

2016年1月22日金曜日

韓氏意拳が表現者にもたらすもの

韓氏意拳を含めすべての「武術」の目的は「相手を倒す」ことにある。
しかし、現代において武術はさまざまに変容し、その内容も多様なものがある。
競技としての武術になっているものもあれば、喧嘩が強くなりたいためにやっている者が集まる武術もある。
伝統芸能としてやっているものもあれば、健康法としての武術もある。

韓氏意拳もただたんに「闘う」ことを目的として練習するものではない。
実際に体験してみればわかるが、殴る、蹴るといった交流はいっさいない。
また組手のようなものもない。
韓氏意拳は「ひとり稽古」が基本となっている。

ひとり稽古では、手を振る、手を挙げる、寄せる、重心を転換する、歩をすすめる、といったごく単純な、あるいは「ごく単純に見える」方法で練習する。
私も最初に体験講習会に参加したときは、なにをやっているのか(あるいは自分がどうなっているのか)さっぱりわからずに、ほとんど途方に暮れた。
しかし、そこには、自分自身に関わるなにか重要なものがあるような気がして、二度、三度と参加し、継続的にやりたくなって入会した。

稽古の回数を重ねていくうちに、武術としての「強さ」を自分が備えたとはまったく実感できないのだが、まちがいなくいえるのは自分の身体の声を聞くセンサーの感度が格段に上がった、ということだろう。
いまどんな感じなのか、いまどんな状態なのか、どこにどんなふうに力がはいったり、抜けたりしているのだろうか。

より稽古が進んでくると、自分の動きが「形」をねらっているのか「動き方」をねらっているのか、「そうやろう」としてやっているのか、次第に洗いだされてくる感じがあった。
まだまだほんの一瞬ではあるが、自分の身体が「自然にそう動こう」としている「きざし」をキャッチして、活力のおもむくまま動けることがある。
それはまったくあたらしい自分の身体のありようがかいま見える瞬間であり、新鮮な体験でもある。

私はひと前でピアノを演奏する人間だが、この韓氏意拳がもたらした一種の「気づき」によって、パフォーマンスにおける自分の内外の風景がまったく異質のものになっていった。
そしてそれはいまも進行中だ。

別にピアニストでなくても容易に想像がつくと思うが、自分の身体のありようや自分が受け取っているものについて繊細に気づきつづけながら演奏している者と、そうでない者とでは、表現がまったくちがうものになる。
演奏にかぎらず、話すとき、歩くとき、絵を描くとき、文章を書くとき、歌うとき、踊るとき、なにかおこなうときに自分の身体がそこに「ある」のと「ない」のとでは、おこないの質がまったく違うものになる。
そのことを私は日々実感している。
そしてさらにそのことを緻密に深めていきたいと思っている。

武術を稽古する動機としては、私のそれはいささか不純なものかもしれないが、私にとって韓氏意拳が日々生きていくなかで必要不可欠なものであることはまちがいない。
稽古の時間は、私にとって、自分の「生」の質そのものを左右する時間となっている。

身体表現者のための韓氏意拳講習会(1.23)
羽根木の家で「身体表現者のための」という切口で、内田秀樹準教練による韓氏意拳講習会を1月23日(土)に開催します。身体表現をおこなっている方、関心のある方など、どなたも参加できます。

【水マガ】2016年1月22日号(Vol.22)配信しました

「水城ゆうメールマガジン」(略して「水マガ」)の最新号を配信しました。

目次
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1 【武術】韓氏意拳が表現者にもたらすもの
2 【創作】ラジオドラマ 「虹いろ輪舞曲」つづき3
3 キヅキミズキ
4 お知らせ
————————————————————————

登録(無料)はこちら

内容の一部を紹介します。

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水曜日の韓氏意拳の稽古で気づいたこと(キヅキ)。
なにごとかを成すとき、達成感には注意したい。
なにごとかを「やりとげた」と思ったとき、そこには「停止」がある。
止まるのではなく、あくまでそれも経過であり、おこないの過程や動きにこそ、生命の本質があるのだということに気づきつづけたい。
それを味わい、楽しみつづけることこそ、生きていることの本質ではないか。

2016年1月21日木曜日

2月8日:NVCカフェ研究会(仮称)のつどい

NVCを使ったカフェやバー、コミュニティスペースをやってみたい、という人の声をよく聞きます。
羽根木の家でも、単発ではありますが共感カフェを開催したり、三軒茶屋や下北沢のカフェで共感カフェを出張開催したりしています。

こういったことが常設として継続的な場として持てたらいいなと思っている人が何人かいるように聞いてます。
そこで、NVCをベースにしたカフェ運営やコミュニティの場作りの勉強会を開催することになりました。

その第一回のお知らせです。

◎日時 2016年2月8日(月)13:00〜15:00
  事前のランチタイムに会場を使えるようにしておきます。
  昼食持参で12時からどなたもご参加いただけます。

◎場所 現代朗読協会「羽根木の家」
    (京王井の頭線新代田駅徒歩2分)
    世田谷区羽根木1-20-17
  直接来られない方のためにオンライン参加も可能です。
  参加希望の方はお知らせください。

◎参加費 500円(会場維持協力費として)
  オンライン参加の方は不要です。

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらのフォームからメッセージ本文に「NVCカフェ研究会」とご記入ください。

※ 猫がいます。猫アレルギーの方はご注意ください(通気性が良いせいか、発症した例は今のところ聞いておりません)。

勉強会では、
・カフェやバー、飲食をともなった場の運営
・ワークショップの企画・運営
・コミュニティ作りと持続性
こういったことについて、参加者それぞれがアイディアや情報を持ちよってシェアできればと思っています。

※世話人:水城ゆう

2016年1月20日水曜日

東京に雪が降った日のJugem共感カフェ

2016年1月18日、月曜日。
東京は未明から降雪があり、朝起きてみたら、世田谷・羽根木の家でも5、6センチくらい積もっていた。
美しい風景だが、北陸の豪雪地帯に生まれ育ち、いまでも実家にちょくちょく帰省する私にとっては、雪を見ると反射的に警戒する身体感覚がある。

日本人はまじめだというか、まじめを通りこして「なにか」だと思うが、朝から通勤電車のダイヤが乱れて大混乱のなか、それでも会社にたどりつこうという人々で駅があふれかえっていたようだ。
それも午後には解消され、私が出かける夕方にはほぼ平常運転にもどっていた。

羽根木から渋谷、半蔵門線直通のスカイツリーラインで草加へ。
天然石アクセサリーのお店〈Jugem〉へ。
店長の川崎実雪さんが毎月主催してくれている。
実雪さんはげろきょゼミ生の満里菜のお母さんでもある。

小さなお店なのと、場所が草加市ということで、毎回少人数での開催になっている。
今回も私と実雪さんをいれて四人という、ごく親密な感じの勉強会になった。

初参加のりささん、共感的コミュニケーションと音読療法にずっと興味を持っていたのだが、なかなかタイミングがあわず、都区内在住にもかかわらず今回タイミングがあったのを見計らってわざわざ草加まで出かけてきてくれたとのこと。

りささんが初参加だったので、彼女を中心に勉強をすすめていった。
共感的コミュニケーションの原理や、人の行動や感情が生まれてくる仕組み、そして人と人がつながり共感するとはどういうことなのか、その方法はどうすればいいのか。

りささんにもいくつか解決したいシチュエーションがあって、それらを具体的に示してもらいながら、解説したり、ときにはロールプレイングで検証してみたりしながら、いっしょにかんがえていった。

いつもそうなのだが、人はだれもが、自分の深いニーズに気づき、それに触れていると感じたとき、自然に涙がこぼれてくる。
今回もそんな瞬間が何度かやってきて、Jugemという場があたたかなつながりで満たされた。
これは参加者だけでなく、私も深く満たされる瞬間だ。
おそらく主催してくれている実雪さんもそうだろうと思う。

予定の時間をすこしうわまわって、今回の共感カフェは終了した。
次回、2月のJugem共感カフェは、8日(月)夜に開催が決まった。
興味がある方はどうぞ気軽においでください。
詳細と申し込みはこちら

草加のほかにも世田谷・羽根木の家での共感カフェがふたつ、もうすぐ開催されるので、そちらもどうぞ。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(1.22)

共感カフェ@羽根木の家(1.29)
1月の羽根木の家での共感カフェは、1月29日(金)19〜21時です。

2016年1月18日月曜日

映画:キリング・ショット

インディペンデント系のアメリカ映画、つまり低予算。
の割には、ブルース・ウイリスが出演したりしているのだが、彼は脚本に惚れこんで出演を決めたのだとか。
なるほど、かなりトリッキーで錯綜したストーリー。

ストーリーや絵作り、こみいったカット割りの感じから、私の大好きなクライムノベル作家であるエルモア・レナードの作品を連想した。
レナードはものすごくおもしろい小説を書く人なのだが、不遇時代が長くつづき、自身は映画が大好きで何度も自作を映画化しようと売りこんだのだが、なかなかうまくいかなかったというエピソードを聞いている。

レナードの作品で映画化されたのは晩年に近くなってからで、「ゲット・ショーティ」「ジャッキー・ブラウン」などがある。
しかし、私としては、もっと映画化されておもしろくなる作品がたくさんあるように思う。
『ザ・スイッチ』『マイアミ欲望海岸』『スティック』『ラブラバ』『グリッツ』『バンディッツ』『タッチ』『フリーキー・ディーキー』など、いずれも秀逸だ。

このなかで『バンディッツ』が映画化されるという話が聞こえてきていて、その主演はブルース・ウイリスになるらしい。
ここでつながった感がある。

もっとも「キリング・ショット」はレナードの原作では。
そういうテイストを私が勝手に感じただけだ。

トリッキーなカット割りと、タイムラインをシャッフルした話運び、リラックスと隣り合わせの暴力の匂い、そういったものが満載の映画だ。
そして、女性たちがアウトローな生きざまを見せるという点で、リドリー・スコットの「テルマ・アンド・ルイーズ」を連想させるものもある。

「テルマ……」は悲劇的な結末だったが、この「キリング・ショット」はある意味、ハッピーエンドがもたらされている。
とはいえ、物語のなかで起こるさまざまなことは、暴力的で、充分に悲劇的ではあるのだが。
私たちの人生というものは、いってみたら、そういうものなのだろう。
それをなんとか最良のものにしたいと思って、すべての人が懸命に生きている。


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2016年1月17日日曜日

2月28日:PIESSネットワーク東京の会のご案内

鈴鹿のアズワンコミュニティのありように心打たれたり、カレッジやスクールに参加した人が、それぞれの地域でも持続可能な社会作りをめざしたいという思いを持ちつづけ、おたがいにつながりつづけるために作られたPIESSネットワーク。
その東京地区での集まりが、毎月、世田谷の古民家「羽根木の家」で開催されています。

持続可能な社会の実現、お互いに思いやりをもてる人間関係、トランジションタウン運動、非暴力コミュニケーション(NVC)あるいは共感的コミュニケーション、ギフト&シェアエコノミー、自然農、エコビレッジ、子育て支援といったことに興味を持っている方なら、どなたでも参加できます。

ご友人、知人をお誘いあわせの上、どうぞいらしてください。
築80年の掘りごたつのある古民家で、ゆっくりと安心してお話しましょう。

ピースネットワーク東京 水城ゆう

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『日常の自分を振り返って、本来の自分・人・社会
について話し聴き合う会』@ピースネットワーク東京
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◆日時:2016年2月28日(日)
 ●10時~12時半(サイエンズスクール、探訪ディ参加者)
 ●12時半(お昼)~16時(誰でも参加自由)

◆参加:
・サイエンズスクールやアズワンコミュニティ探訪ディの参加者(午前中)
・自分や人を知る・聴く、心(内面)の話し合いに関心のある知人の方など、どなたでも(お昼~午後)

◆参加費(会場費):500円
◆お昼:持ち寄り、または、自分の分を持参ください

 京王井の頭線 「新代田駅」 徒歩2分
 世田谷区羽根木1-20-17
 環状7号線を渡って、線路沿い(吉祥寺駅方向)に進んで橋を
 右折後、すぐ左折して、道を右折した左側にあります。

◆連絡:現代朗読協会「羽根木の家」
  電話 090-9962-0848


  Mail desk@roudoku.org

怒りたいニーズ

ある程度共感的コミュニケーションが身に着いて、まわりにもそういう人が増えてくると、感情をあらわすことに躊躇しなくなることがある。
これまでは「泣いちゃいけない」「ここで怒ってはいけない」といったふうに、自分の感情を抑えつけることが多かった人が、それを存分に表現してもいいという安心感と喜びを感じることができるのが、共感的コミュニケーションのすばらしいところでもある。

しかし、自分自身をふくむいろいろな人を見ていると、感情を表現してもいいという安心の場にいるとき、必要以上に「怒り」の表現をしてしまうことがあることに気づいた。
自分がむかついた、腹が立った、ということについて、あるいはだれかに対する怒りについて、ことさらにエネルギーを増幅させた表現をしてしまうことがあるのだ。

いったんそれについて表現しはじめると、あるいはだれかを糾弾しはじめると、その増幅はさらに増幅を呼び、エスカレートしていく。
しかもそれが快感になっている。
それが許されるという安心感から、どんどんエスカレートし、ときには仲間どうしで盛り上がって、発散する。

どうやら、私たちのなかには、「怒りのエネルギーを発散させたいニーズ」のようなものがあるようなのだ。
なぜなら、怒りというのは、生命力の発露としてもっとも端的で、わかりやすいからだ。

怒りは常に、私たちの生存と関連している。
生存とか存在をおびやかされたとき、怒りが発動する。
発動した怒りは、それ自体が自分自身の生命力の証拠として明示的になる。
その輝きは歓迎したい明るさを持っている。

ちょっと注意したいと思う。
自分自身の怒りについて、あるいはだれかにたいする怒りについて語りはじめたとき、それがたんなる「怒りたいニーズ」に駆動されたものでないかどうか、チェックしてみる必要があるかもしれない。

怒ることは本当に簡単で、気持ちがいい。
しかし、それは悲劇をもたらすこともある。
怒ることではなく、ほかの表現方法を選ぶことはできないのかどうか、自分のなかにある純粋な表現の喜びに接続しなおすことができないかどうか、調べてみたい。

私の場合は、たぶん、こうやって書くこと、あるいは演奏すること、みなさんにさまざまなことを伝えること、などの表現によって、生きている照明に簡単につながることのできる「怒りたいニーズ」を昇華できているような気がする。


1月の羽根木の家での共感カフェは、1月29日(金)19〜21時です。

2016年1月16日土曜日

自分が何者になろうとしているかの観察練習

全10回の「オーディオブック収録製作コース」の第6回めは、自分でいうのもなんだが、かなりおもしろかった。
朗読にかぎらず、表現行為において多くの人は、自分以外の何者かになろうとする、あるいはいまここにはないなにか想定されたシチュエーションを自分に課そうとする。

現代朗読のエチュードでは、自分自身のいまこの瞬間のありようにマインドフルに注目し、自分が無意識に「なにをやっちまっているのか」を洗いだす練習をする。

使用テキストは夏目漱石の「文鳥」である。
出だしはこんなあんばいだ。

「十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった」

これをなにげなく朗読しようとするとき、いったい自分は「なにをやっちまっているのか」を、つぶさに観察してもらった。
いろいろとおもしろい観察が出てきた。

みぞれちゃんは「お話を伝えようとする人、正しい日本語を使おうとする、いわば朗読教室の先生のような人」が出てきた。
あけみさんは「ラジオ放送の女性アナウンサー」が出てきた。
てんちゃんは「NHKのベテラン男性アナウンサー」が出てきた。
めぐみさんは「文鳥」の語り手である「書斎にいる男性/ひょっとして夏目漱石?」が出てきた。

これを、ひとりずつ役割をずらして、順繰りに、わざとそれらしく読んでもらった。
そのとき、自分が「なにをやっているのか」、とくに身体性に注目してやってもらった。

そして最後に、いっさいの想定を捨て、ただ自分の「いまこの瞬間」の身体にだけ注目して、なにもたくらまずに読んでもらった。

芳醇なニュアンスや感情、動きをふくんだ豊かな音声表現がそれぞれにそこに立ち現れて、私は涙が出そうになってしまった。
ここに表現することの嘘いつわりのない誠実さがあり、人が生きていることの発露の美しさがあるのだと感じた。

現代朗読がここにたどりついたことに、私はとても誇りを持っている。
私はこのことをつかんで離さないだろうし、大切にしつづけていきたい。


朗読をはじめてみようと思っている方、すでにやっているけれど物足りなさや壁を感じている方、その他表現に興味のある方、まずは進化しつづける現代朗読を体験してみませんか。1月24日(日)午前、羽根木の家にて。

2016年1月15日金曜日

粗野な言葉で語りたい

NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をベースにした共感的コミュニケーションを人に伝えるとき、私にはいくつかこうしたいという望みというか、心がけていることがある。
そのうちのひとつに、NVCの用語やいいまわしをなるべく使わないでそのエッセンスを伝えたい、というものがある。
なぜなら、NVC特有の言葉使いや文法に拒否感をおぼえる人がすくなからずいて、その先にある共感エッセンスにたどりつかないままあきらめてしまうのを見るととても残念な気持ちになるからだ。

私にも心当たりがあって、何度も挫折しかかった。
さいわいなことに辛抱強い友人(安納献)がいたおかげでなんとかあきらめずにすんだ。
しかし、だれもが辛抱強い友人を持っているとはかぎらない。

現在、羽根木の家に滞在している国際公認トレーナーのホルヘ・ルビオのワークショップで、印象的なことばを彼から聞いた。
「自分はカジュアルで粗野で、乱暴な言葉で話そうとしている」
というものだ。
その理由として、NVCを必要以上にスピリチュアルすぎるように取られたくない、といっていたが、それだけではないことはあきらかだ。
ともすればNVCを学ぶ人たちや学びの場にはびこることがある「ある種スノッブな空気」を彼は注意深く排除しようとしている。

私はとてもとても深く彼に共感する。

共感的コミュニケーションを必要としているのは、現時点でいままさに暴力にさらされている人たちだ。
彼らはNVCのことも知らない、共感も知らない。
だれかと話すときには「攻撃的に決めつける」「相手より上に立つ」「批判する」「競いあう」「弱みを見せない」「嘘を見抜き突っこむ」「ボケる」そんな方法でしか人とつながることを知らない人たちだ。
銃弾が飛びかう戦場で、弾をよけるすべも知らないまま突っ立っているようなものだ。
あるいは自分が手にしている貧弱な武器で相手に立ちむかおうとしているようなものだ。

彼らに共感をとどけ、共感的世界に連れもどすには、まずは彼らになじみのある粗野で暴力的な言葉で語りかける必要がある。
そうでなければこちらに目を向けてくれない。

「あなたが……されたとき、……な気持ちになったんですね? それはもしかして、あなたにとって……が大切だからでしょうか?」
というのが共感的コミュニーショん(NVC)の基本文法だが、それを、
「おまえには○○が必要なんじゃねえの?」
と、泥玉をぶつけるようにして聞いてみる。
最大の好奇心のエネルギーをもって。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(1.22)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を1月22日(金)夜におこないます。

映画:カルフォルニア・ダウン

最初に、ある種の繊細な人は見ないほうがいいと助言しておきたい。
私はまったくなんの予備知識もなく、先入観もなしに、ただ「なんとかダウン」というタイトルの映画をいくつかつづけて観ていたので、これもなんとはなしに観てみた。

ストーリーはかなり雑で、いわゆる「バカ映画」だ。
マッチョなレスキュー隊員の主人公ドウェイン・ジョンソンが、自分の職務をそっちのけで妻と娘を危機一髪救う、というだけの話だ。

私にはバカ映画を一定のペースで消費したいという謎のニーズがあって、たぶんそれは時々コーラをがぶ飲みしたくなる中学生のような欲求なのだろう。
そういう意味では、私のニーズをかなり満たす映画といっていいのだが、CGを駆使して作られた緻密な映像にかんしては、さむけをおぼえるほどだった。

見はじめてすぐに、これは巨大地震の映画だなとわかった。
建物や道路、高層ビルが次々と破壊されていく映像は、CGだとわかっていても相当にリアルで、迫力がある。
それはまあいいのだが、後半に出てくる津波のシーンが恐ろしい。

おそらくCG製作者は2011年の東北大震災の、本物の津波の映像をかなり参考にしたに違いない。
現場に何度かおとずれた身としては、たんなる娯楽映画としてこの津波のシーンを楽しむというわけにはとうていいかない。

この映画は2015年にアメリカで公開されたが、日本での公開は紆余曲折があったらしい。
観てみると、それもなるほどと思う。
最新CGテクノロジーに興味がある人はべつとして、まったく観なくてもかまわない映画である、といいきっておく。


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川崎高校で地球市民入門の授業を聴講

神奈川県立川崎高校まで行って、羽角先生の「地球市民入門」という授業を見学してきた。
羽角先生は元々、物理の先生なのだが、環境教育などの方面で活躍されていて、その筋では有名な方らしい。
私は先日のみつばち同好会の見学で知りあった。

川崎高校は単位制で、生徒たちは自分のクラスや教室を持たない。
一人ずつのロッカーがあって、私物はそこに入れてある。
ホームルームのようなものもない。
登校時間と下校時間は自分が受ける授業によって決まる。
大学と同じシステムのようだ。

最近、こういう高校、増えてるのかな?

地球市民入門の授業は一年を通してカリキュラムが組まれていて、羽角先生が独自に作られたものだ。
労作だと思う。
正課としての認可を得るのも大変だったのではないかと想像する。

今回は一年のほとんど最後のほうの授業で、

 第7章 グローバル化と貧困…国内の貧困・格差問題
  その2 労働者の権利

というテーマだった。
学生たちは3つのグループに分かれ、ワークシートに沿って作業しながら学習する。
労働基準法や労働契約法を参照しながら作業するのだが、法文が難解で、取り組むのが大変そうだった。
しかし、これから社会に出て行ったり、選挙権を付与される彼らにとっても、大事な内容だろうと思う。

難しい内容だったが、授業は意外に早く終わった。
見学していた私を羽角先生が呼び、自己紹介するようにいわれた。
私は自分がピアニストであること、ものを書く仕事もしていることなどを伝えて、なにか質問はないか訊いてみた。
質問が来る前に、この部屋(多目的室)にはピアノがあって、鍵もかかっていないので、鳴らせるはずだと学生たちが教えてくれた。

私は自分が即興ピアニストであり、ではいまから、ここ数日の寒さを思い浮かべながら、「雨が雪になって、やがて晴れ間が出てくるストーリー」を演奏してみたいと告げて、ピアノにむかった。

みなさん、最後まで真剣に耳を傾けてくれて、とても幸せな時間だった。
演奏が終わってから、共感的コミュニケーションというものがあり、それを伝えることもやっている、とみじかく話した。
労働者が法律で守られることはとても大切だけれど、その前に雇用者も労働者も人と人としてのつながりを大切にし、お互いのニーズを尊重しあえる社会やコミュニティがあることも大事だと思っていて、そういうことにも興味を持ってもらえるとうれしい、と伝えさせてもらった。

みじかい間だったけれど、学生たちに私の演奏と思いを伝えるチャンスをいただけたことを、羽角先生に感謝したい。

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2016年1月13日水曜日

映画:ザ・シューター/極大射程

2007年公開のアメリカ映画。
監督のアントワーク・フークワはこの手の映画のスペシャリストらしく、私が観たほかのものでは、デンゼル・ワシントン主演の「イコライザー」がある。
こちらの主演はマーク・ウォールバーグ。

主演級の役者というより、しぶい脇役的なイメージが強くて、「トランスフォーマー」とか「ディパーテッド」「ミニミニ大作戦」「パーフェクト・ストーム」とかに出てたな。
いま確認したら、「ディパーテッド」ではけっこういろんな賞をとったり、ノミネートされたりしている。

もう引退し、山奥で愛犬とともに静かな生活を送っている凄腕の狙撃手が、その腕を見込まれて大統領狙撃計画の阻止に駆りだされるのだが、陰謀に巻きこまれ、自分が追われる身になってしまう、というサスペンスストーリー。
ありがちなストーリーだが、つぎつぎと大きな窮地におちいっていく主人公が、どうやって窮地を脱していくのかという興味に最後まで牽引される。

元同僚の妻役のケイト・マーラがいいんだな。
重要な役どころ。
「トランセンデンス」にも出ていたし、まだ観ていないけれど、要チェックの「オデッセイ」という映画にも出ているみたいだ。

国家の陰謀対個人という構図。
アメリカ映画界は、よほど自国を敵とし、スペシャリストな個人をそれに対峙させて勝利させる、という図式が好きらしい。

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「過去形」を使わない修行

「あのときこうしてほしかった」
「なんであんなこといったのよ」
「あんなことしなければよかった」
だれかが過去形を使ってものをいったり、自分自身が過去形で振り返ったりするとき、そこには怒りや悲しみ、無念がかならずある。

いっている本人も無意識下では気づいているはずなのだが、過去の事象に言及してもそれはもはやけっし変えることはできない。
起きてしまったことはもう取りかえしはつかないのだ。
だれもがそれをわかっていながら、言及せざるをえないのは、自分がそのことについて怒りや痛みを持っていることをただわかってもらいたい、だれかに知ってもらいたい、というニーズがあるだけだ。

しかし、そのニーズが見えないまま表向きのことばだけ受け取ってしまったとき、それはこちらにとって非常に聴きづらいものとなる。
「なんであんなことしたの?」
といわれたとき、額面どおりに受け取ってしまうと、
「あなたがあんなことしたせいでこんなことになってしまった」
という責任追及/攻撃のことばに聞こえてしまう。
こちらは反射的に防衛あるいは反撃の姿勢を取ることになる。
典型的な対立の構図となる。

対立したくなかったらどうすればいいだろう。
相手が過去形でものをいいだしたら、そこにはなんらかの痛みがあるのだろうと推測できる。
相手のことばを「攻撃」ではなく、こちらになにか「お願い」をしているのではないかと受けとる必要がある。

相手にはどういう痛みがあるのか。
怒りや悲しさ、悔しさが見えるかもしれない。
それをまずこちらが受けとる必要がある。

そこにはどんなニーズの欠如があるのか。
推測してみる。
そしてこちらは「過去形」を使わず、「現在形」で相手にたずねる。

「きみがそのことを思い出すとき、とっても悲しいんだね?」
「きみが悲しいのは、サポートが必要だったと思うからかな?」

逆にこちらが相手になにかを伝えたいと思ったとき、まず自分のなかにある痛みや満たされなかったニーズに共感した上で、
「あのときのことを思いだすととってもつらいんだ。なぜなら、あのときぼくにはサポートが必要だったことがわかっているから」

現在形で話すとき、それは「取り返しのつかないこと」について話しているのではなく、「いまこの瞬間の自分の動いている、変化しつつある、そしてまだ可能性のあること」について話しているというこしとが、相手にも伝わる。
もちろん自分のなかにも可能性が動きつづけている。

過去のいわば「死んだ事象」について話すのではなく、いま現在のいきいきしているニーズにつながりながら話すことで、対立ではなく可能性のある未来が生きはじめる。


共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を1月22日(金)夜におこないます。

1月の羽根木の家での共感カフェは、1月29日(金)19〜21時です。

2016年1月12日火曜日

現代朗読のふつうの群読と先端表現としての群読

昨日の朗読表現基礎ゼミには、いつものげろきょゼミ生のほかに体験参加者が3人いらした。

基礎ゼミでは毎回、テーマをもうけて、一般の体験参加の方も歓迎して開催しているのだが、昨日のテーマは「群読の楽しみ/エチュードから作品へ」というものだった。

現代朗読では「エチュード」と呼んでいる朗読表現の稽古の方法がたくさんある。
それらを稽古していく過程で自然に舞台表現作品ができあがっていくことが多い。
一昨年に明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉でおこなった「夏と私」という公演も、たくさんのエチュードを組み合わせた作品だった。

午前中の基礎ゼミは、基礎訓練のあと、そんな群読エチュードをみんなで体験し、現代朗読と自分自身を味わってもらった。
午後の昼ゼミはゼミ生だけの参加だったので、より先鋭的なエチュードを試みてみることにした。

私には現代朗読のもっとも先端的な表現を試してみたいという欲求がある。
つまり、だれも見たこともやったこともない表現行為の試みだ。
それを「朗読」という表現行為でやってみたいし、これまでもいくらか試みてきている。
今年はそれを明確に掲げて、げろきょ内で「先端表現部」として研究するグループを継続的にやってみたい。

昼ゼミでは、午前中にやった群読からさらに発展して、音声表現としての自由朗読と、身体表現としての自由朗読の両方のアプローチから、実験をさせてもらった。
うまくいった面もあれば、期待どおりにはいかなかった面もある。
いずれにしても、先端表現に一歩踏みこめた感触はあった。

これはスリリングで、厳しく、「楽しい」というような生ぬるいことばではいい表せないようなズキズキする場面で、いまこの瞬間の自分たちの「生」そのものに触れているようなかけがえのない感じがある。
とくに「沈黙」の豊穣さにふれたとき、私はわくわくする。

年初からずっしりとした手応えを感じることができて、付き合ってくれたゼミ生には感謝なのだ。
いっしょに未踏の地へと歩みだしていきたい。

朗読表現基礎ゼミ(1.16)
従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を基礎からじっくりと学ぶための講座。1月16日(土)のテーマは「伝達と表現/伝統的表現/コンテンポラリー表現」。単発参加も可。

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2016年1月11日月曜日

映画:英国王のスピーチ

暮れから正月にかけて、ちょこちょこと何本か観たので(といっても映画館ではなく)、感想を書きのこしておく。

「英国王のスピーチ」は2010年公開のイギリス映画。
メジャーな映画賞をいくつもとったり、ノミネートされたりして、かなり話題になったらしいが、私は全然知らなかった。
かるい気持ちで見始めたら、あれあれ、おもしろいじゃないの。

ハリウッド映画にはないイギリス映画特有のくすぐりがあちこちに出てきて、それが鼻につく人は気持ちわるいだろう。
私もどちらかというと苦手だが、この映画は「実話にもとづいた歴史映画」というふりをした壮大なくすぐりだと私は思った。

それにしても、舞台演劇の歴史があるイギリスの俳優は、演技の奥が深く、さすがだ。
ジョージ6世の言語指導をする教師が、私はてっきりアレクサンダーテクニークの人だと最初は思ったけれど、ちがった。
しかし、役者たちはまちがいなく、アレクサンダーテクニークを用いて演技表現をしている。
これはハリウッド俳優もおなじことだが。

きまじめなふりをしているが、ようするに「吃音治療」の話なのだ。
それがたまたま英国王だというから話がおもしろくなる。
ただそれだけのことだ。
ただそれだけのことでこれだけの映画を成立させてしまっている監督トム・フーパーは、なかなかたいしたものだと認めざるをえない。

主演のコリン・ファースもいいが、エリザベス役のヘレナ・ボナム=カーターもなかなかよかった。
暮れのひとときを楽しませてもらった。

共感的コミュニケーションにおける試練(母親との共感)

定期的に開催している共感的コミュニケーションの勉強会のうち、昨年5月からスタートした「親密な関係」における共感的コミュニケーションをあつかうものがある。
これはおもに夫婦や恋人同士などの親しい男女や、性的な関係を含む親密な関係をあつかうものだが、もともとは英語の「intimate relationship」から来たもので、2014年暮れのNVCのIIT(国際集中合宿)でトレーナーのひとりがやっていたワークをもとに、私なりに再構成してシェアしているものだ。

日本語で「親密な関係」というと、より広い範囲をイメージする人が多いらしく、両親や兄弟、親しい友人との関係について持ちだす人が少なくない。
私はそういう関係もふくめて学びの場を作ることを歓迎している。

もちろん私自身にも親兄弟との関係があって、それなりに困難を感じるときがある。

昨年の年末に、83歳になる母が、自損事故ではあるが車を大破する事故を起こした。
さいわい、身体はまったく無事で、かすり傷ひとつなかったらしく、その点はよかったが、母が新車に買い替えると決断しているのを聞いたとき、私はとても心配になった。

私の脳裏に浮かんだのは、
「もう車に乗らないほうがいい」
「免許を返上しなさい」
「またあたらしい車を買うなんてとんでもない」
ということばだった。

しかし、私にせよ、ほかの家族や友人のせよ、そのことを母に伝えたところで、彼女には「要求」「押しつけ」にしか聞こえないだろう。
その結果、彼女は別のニーズにしがみつくことになることは明らかだ。

すなわち、
「歳をとっても行動の自由を確保したい」
「だれかの世話になったり、人に面倒をかけるのはいや」
「自分にできることは自分でやりたい」
「まだまだ車を運転する能力がある」

私にもおぼえがあるが、人からなにかを押しつけられたとき、自分の本当のニーズが見えなくなって、押しつけられたことによる反発で浮かびあがってくるニーズに、反射的にしがみついてしまうことがある。
いったんそのニーズにしがみついてしまうと、なかなかそれを手放せなくなってしまう。
なぜなら、押しつけられた反発のなかに怒りがあって、その感情が自分の本当のニーズに深くつながることをブロックしてしまうからだ。

私にできるのは、ただ濁りなく、純粋な興味をもって母のニーズを聞きつづけることだけだ。
それは親子のような親しい関係では大きな困難をともなう。
なにしろ、これまで一度たりともそのようなつながりをもって話を聞きあったことはないから。

私の側にも、親子関係がもたらしてきたさまざまな痛みがある。
それをいったん棚上げして、純粋に共感できるかどうかが問われる。
そしてやってみることにした。

最初に私が聞いたのは、事故のことには直接ふれずに、
「いま車を運転しているときに、不安を感じることはないの?」
ということだった。
母は即座に、強い語調で、
「全然。まったくこわいことなんかないよ。私の運転はちゃんとしてる。不安はなんにもない」
というものだった。

まるでかさぶたをはがすようにして、私はゆっくりと、辛抱強く共感しつづけた。
それは私の共感的コミュニケーションのもっとも困難な実践であり、山場でもあった。

最終的に母は事故を起こした場面に触れ、
「とてもこわかった。事故のあと三日くらいショックでだれともしゃべりたくなかった」
という本音のことばを聞かせてくれるにいたった。
そこにいたれば、もう私の仕事は終わったといっていい。
彼女は自分ののなかにある安全のニーズに、すでにみずから気づいていた。
「自分も人も傷つけたくない。もう二度と事故を起こしたくない。安全が一番大事」

おそらく私がとやかくいわなくても、母は母なりに、自分がどうすれば安全でいられるか、その手段を思いついたり、かんがえたりしてくれることだろう。
いま私はそうとう安心している。
きっと母もそうだろうと思う。
またゆっくり、どうすればいいか、いっしょにかんがえていけばいい。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(1.22)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を1月22日(金)夜におこないます。

2016年1月10日日曜日

【水マガ】2016年1月10日号(Vol.10)配信しました

「水城ゆうメールマガジン」(略して「水マガ」)の最新号を配信しました。

目次
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1 【手帳術】マインドフル手帳術の概要
2 今日の水城
3 お知らせ
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内容の一部を紹介します。

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マインドフル手帳術では、まず、「GTD(Getting Things Done)」とおなじように、自分のなかにある気がかりをすべて紙に書きだす。
紙でなくてもスマホやパソコンでもよい。
GTDとすこしちがうのは、すべて書きだすといっても、ものははぶいて、「気がかりなこと」にターゲットをしぼる、ということだ。

「気がかり」とは、たとえば、
「図書館から借りた本をまだ返していない」
といったことや、
「毎週金曜日は資源ごみの日」
「親孝行したかったのに父が亡くなってしまった」
「猫を飼いたい」
「長らく連絡をとっていない友だちはどうしているんだろう」
「英会話のレッスンを受けたい」
など、とにかくなにかやっているときにふっと思いうかんでしまう雑多な気になっていることどもだ。
これらは集中してなにかやっているときにふっと思いうかんでしまうと、ノイズとして働く。
(後略)

2016年1月9日土曜日

県立川崎高校のみつばち同好会を訪問

昨日は朝から神奈川県立川崎高等学校のみつばち同好会の養蜂のようすを見学に行ってきた。

ここは羽根木みつばち部でも最初からご指導を仰いでいる後藤純子さんがインストラクトしていて、今回も後藤さんからお誘いをいただいての訪問だった。
あいにく、羽根木みつばち部から参加の都合がつく人はすくなかったが、ムーンソープの滝井みおぎさんと、みおぎさんの友人でデザイナーの千尋さんが同行してくれることになった。

カーシェアリングで車を羽根木の家から出し、後藤さんのお宅をまわって、川崎高校へ。
10時すぎに到着。
それにしてもすかっと晴れあがったいい天気。
小寒だというのに、ぽかぽかした陽気。

川崎高校の羽角先生と川崎先生、そして同好会のメンバー何人かが迎えてくれた。
後藤さんの指導で、今回の作業スタート。

西洋みつばちなので、羽根木の家で飼っていた日本みつばちとはいろいろとようすが違う。
使っている養蜂箱や道具類もちがう。

去年まで2群あったものが、1群から女王蜂がいなくなり、弱ってきたので、合同して1群にまとめ、いまにいたっているという。
養蜂箱が3段になっていたものを、冬越しにそなえて使われていない巣枠を整理し、1箱にまとめる作業をおこなう。

合同はうまくいったらしく、蜂群は小さくなっているものの、女王蜂は元気で、産卵や育児も再開しているとのこと。
ダニや病気対策がうまくいけば、春にはきっとまた増えていって、たくさんの蜜を集めてくれることだろう。

それにしても、みつばちの世話をするのは本当に楽しく、わくわくする。
羽根木みつばち部もあきらめることなく、今年も活動を再開していきたいと強く思った。
そのための方策をしっかりと研究・検討していきたい。

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2016年1月7日木曜日

年頭の誓いをどれだけ守れたか

ブログ「水の反映」の去年の一月三日の記事を見てみたら、年頭の抱負が書いてあった。
それが一年後のいま、どうなっているか、厳しく検証してみたい(笑)。

「ピアニストとして今年はさらに即興技法を磨きあげよう」

これはかなり評価していいと思う。
去年、即興演奏については、身体へのアクセス、マインドフルネス、瞑想的即興など、自分でもかなり進んだという手応えをかんじている。
もちろんまだまだ至らない点も多く、さらなる精進をしていきたいと思っているが、音楽瞑想の即興プレーヤーとしてはほかにあまりたくさんいない域にたっしているのではないかと、ちょっと自負している。
今年は音楽瞑想を東京だけでなく、いろいろな土地で、できれば外国もふくめてやってみたい。

「現代朗読の主宰・演出としてコンテンポラリーアートとしての朗読表現をさらに追求しよう」

これはあまり進んだとは実感していない。
私がやってみたい現代朗読の先端的表現についてはかなり具体的なイメージがあるのだが、それを実現するだけのメンバー(おもに人数的な問題)と場所、制作体制などに問題があって、なかなか進まない。
もっとも、年末に「先端表現部」という部会をげろきょ内で立ちあげたばかりなので(部員はまだ数人しかいないが)、今年はなんとか進展させてみたい。

「ライブや公演は厳選してあまり力が分散してしまわないように気をつけよう」

かなり無理があったが、年末に来てようやくイベントを整理して、今年はリソースを効率的に集中できる体制を作れるのではないかと思っている。
わかんないけどね。

「音読療法協会のオーガナイザーとして、法人化をはじめとして、ボイスセラピーの啓蒙普及活動に力をいれよう」

これも思ったように進展しなかったが、音読療法の有効性については強くつよく実感できた年だった。
これをはげみに、法人化と啓蒙普及を本格的に進めていこう。

「小説家として出したい本も何冊かある」

これは何冊か実現した。
さらに今年も着実に本を出していく。

「ネットを活用した個人セッションやテレクラスを充実させて、居場所にとらわれないボイスコーチングの機会を増やしていこう」

これはあまり実現しなかった。
とくにテレクラスについては、もっと力を入れたかったのだが、あまりうまくいかなかった。
テレクラスが有効なテーマはたくさんあるので、今年はネット活用をさらに実現させていきたい。

「韓氏意拳やマインドフルネスの稽古をつうじて、さらに深く自分自身のありようを見ていこう」

これはだいぶ進展したように思う。
もちろんまだまだ足りない部分があるので、さらなる精進が必要だが、その方向性ははっきり見えている。
毎日なにをどうやればよいのか、それがわかっているというのは力強い。

これらにくわえて、今年は共感的コミュニケーションの応用を進めていこうと思っている。
学んだり、伝えたり、ということも大切なのだが、共感的コミュニケーションを使ってなにができるのか、どんなことを実現したいのか、あるいは実現できるのか、現実的に見据えて実行していく時期に来たように思う。

それから、去年の年頭の時点ではまったく思いついていなかったことだが、日本みつばちの養蜂にも挑戦した。
羽根木みつばち部という集まりができ、みなさんといっしょに勉強しながら楽しく進めていったが、残念ながら秋口にいまだに原因不明のまま全滅してしまった。
とても残念でならない。
このリベンジを今年はどうするか、後藤純子さんら専門家の意見をあおぎながら、またみんなでかんがえていくつもりだ。

今年はうまくいくといいなあ。
みつばちも、いろいろなことも。

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2016年1月6日水曜日

メールマガジン「水マガ」毎日配信中

2013年からはじまった「私の毎日配信」シリーズ。
今年は四年め。

勝手にシリーズにしているが、今年は「水城ゆうメールマガジン」(略して「水マガ」)の毎日連続配信を元旦からスタートさせている。
すでに多くの方に(なかば強制的に)読んでいただいている。
だれかに読んでもらえている、ということ自体を目的にするのは危険だが、モチベーションの燃料補給になるので、とてもありがたい。

この「水マガ」には、現在の私がかかわっているすべてのコンテンツについて日々盛りこもうとしていて、これまで工夫してきたライフハック的なものから、マインドフルネスや瞑想、表現についての知見や情報、日々の、あるいは旅先での随想、そして詩や小説などの創作など、雑多といえば雑多だけれど、それなりに読みごたえのあるものを配信しようと思っている(している)。

興味のある方は、無料ですので、気軽に登録してみてください。
配信解除も自由です。
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2016年1月5日火曜日

ネットとテキスト書きがメインの私の仕事道具

数か月に一回のペースでまわってくるラジオドラマのシナリオ書きの仕事があって、これは私のラジオ番組制作人生のスタート地点となったFM福井からの依頼だ。
「虹いろ輪舞曲(にじいろろんど)」という番組で、週一の放送。
全部私が書いているわけではなくて、月替わりで何人かの書き手が交代するシステム。
今月は私の担当で、今月は五週あるから、五回分をいれることになっている。

これは依頼仕事だが、それ以外にも私はものを書くことが知的生産の中心になっていて、ブログやメールマガジンを毎日たくさん書く。
それらはテーマごとにまとめて、リライトし、電子ブックとして再配信することもある。
これまでに何冊も電子ブックをリリースしてきたが、今年はさらにたくさんの電子ブックを書きたいと思っている。
たくさん書きたいことがたまっている。

もの書き仕事の道具について書いてみる。
メインマシンはここ数年ずっと使いこんでいる MacBook Pro の13インチだ。
私は入力スピードを確保するために特殊な方法を使っているので、キーボードをカスタマイズしている。

昔の話だが、高校の卒業祝いに親から機械式の英文タイプライターを買ってもらい、英文のブラインドタッチ(当時はそういっていた)の練習をかなりおこなった。
その後、最初のコンピューター PC-8801 を買ったのだが、それでカナ入力の練習を入念におこなった。
以来、基本的に入力方法はカナだ。

MacBookはUSキーボードを使っていて、キートップにカナは印字されていないのだが(毎日使うものゆえ美観は大事!)、タッチタイピングなのでとくに不自由はない。
とはいえ、いくつか使いづらいキーがあるので、「Karibiner」というアプリを常駐させ、いくつかのキーをカスタマイズしてある。

このような特殊入力方法なので、どうせテキスト入力がメインなんだからiPadなどにBluetoothキーボードを使って打ちこめばいいじゃん、といわれてもだめなのだ。
もちろん、臨時ではそちらをしばしば使う。
英字入力もできるのでそのときはローマ字変換を使うし、それでもかなり速度は速いと思うが、思考とタイプの間にワンクッションはさまっている感じがどうしてもいまいちなのだ。
カナのじか打ちがいい。

iPadは持ちあるいているけれど、私の場合、楽譜用とお絵描き用、読書用に特化している。

iPhoneでも読書できないことはない。
そしてiPhoneにはいろいろなアプリがはいっているので手放せない。
人前でいちいちMacBookをひらくのははばかられるので、出先ではiPhoneですむことはiPhone単体ですませてしまう。

 しかし、どうしても MacBook Pro は持ち歩きたいのだ!

いつでもどこでも書くために。
調べものの必要があるときは、iPhoneでテザリングしてネットにつなぐこともできる。
ただし、執筆するときはMacBookをネットから切りはなしておく。
電話やメールなど、緊急の連絡がはいったとしても(そんなことはめったにないが)、iPhoneが知らせてくれる。

ただ、問題がひとつあって、

 けっこう重いよね。

新発売の iPad Pro とキーボードを合わせて持っても、MacBook Pro よりははるかに軽い。
リュックサックにすべての荷物をいれて、背中にしょって歩いているのだが、リュックサックの良否は体調にまで影響する。
気にいったものに出会うと、ボロボロになるまで使いこむ。

ちょっとした旅行でもリュックサックですませるのだが、さすがに重くなる。
ときには八キロくらいになることもある。
しかし、仕事道具のほとんどがラップトップとタブレットとスマホに収束されてしまったので、昔にくらべればはるかに楽だし、生産性も確保できている。

リュックにはいっているそのほかのものといえば、わずかなサニタリー類とカード入れ、老眼鏡、予備のバッテリーくらいだ。
MacBookのACアダプターも持ちあるくことがあるが、もっともコンパクトなタイプのものを使うし、実家などりよく行く場所には常備してある。

本も持たない、雑誌も新聞もノートも持たない、筆記用具もなし、財布もなし、カメラもなし、時計も万歩計も双眼鏡もなし。
さっぱりしたものだ。
これでネットがつながっていれば、世界中どこでも仕事できる。
この身軽さを活用して、今年はもうすこし出かけてみようか。

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2016年1月4日月曜日

イキイキさ(活力)を受け取る

だれかがこちらになにかを伝えようとする。
なんらかの態度を取っている。
感情をあらわにしている。

怒り、悲嘆、攻撃、要求、命令、いらだち、無視、拒絶、喜び、穏やかさ、親しみ、ふれあい、思いやり、気づかい、クレーム、決めつけ……

これらの奥にはすべて、相手のイキイキした生命活動がある。
相手はただ、自分の生命活動の必要にせまられ、それを表現しているだけだ。

その相手の表現が、こちらに都合の悪いことだったり、攻撃的だったり、暴力的だったりしたとき、こちらもそれに応じようとする。
こちらにも身を守るとか、平和でいたいという必要がある。
おたがいの表現が不幸にもぶつかりあうとき、そこにはさらに大きな暴力が生まれたり、紛争が生じる。

表現や行動やことばは、自分の必要を満たすための手段であり、手段のレベルで紛争が生まれるのだということをわかっていれば、紛争を生まないコミュニケーションとはニーズのレベルでつながり、理解しあうことだということがわかる。
これがNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)であり、共感的コミュニケーションの根本にある考え方だ。

相手のニーズを受け取る、とは、相手の生命活動そのものに目をむけるということだ。
相手が怒りくるっている、あるいは泣きわめいている、こちらを拒絶している、など、いずれにしても相手の闊達《かったつ》な生命活動の表出にほかならない。
こちらはただそれに目をむけ、受け取る。
生命の活力をよろこんで受けいれる。
相手の命を歓迎する。

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2016年1月3日日曜日

マインドフルになるためにすべてを書きだす

有名なライフハック技のひとつに「GTD」というものがある。
ネット検索してみればわかると思うが、ビジネスマンのあいだなどで大変有効とされ、そのための書籍やセミナーがたくさん出ている、アメリカ由来のスキルだ。
私がかんがえた「マインドフル手帳術」もそれに似ている部分があるが、内容は共感的コミュニケーションを使っているという点でかなり異なる。

2015年に何度か「マインドフル手帳術」のワークショップを開催して、大変ご好評をいただいた。
またやってほしいという要望をたくさんいただいているのだが、つぎはこれを本にまとめた上で、セミナーとして開催したいという希望があった。
なかなか執筆する時間を取れなくてずるずると年が明けてしまったのだが、メルマガで連載すればいいねと思っている。

ちょっとだけ説明しておくと、私たちは日常生活のなかで、あるいは仕事中に、さまざまな「気がかり」を抱えていて、それがたえず念頭に浮かんできてしまうので、いまやっていることに集中することができない。
つまり、自分の本来持っている能力、パフォーマンスをいちじるしく低下させたままやりくりしている。
できるだけもやもやのない、「いまここ」に集中できる状態に自分をもっていきたい。
そのための方法のひとつが「マインドフル手帳術」だ。

マインドフルというのは、いまここの自分自身のありようや自分が受け取っていることに(判断や思考抜きに)気づきつづけているイキイキとした状態のことをいうのだが、そのためにはできるだけ「気がかり」にとらわれないことが大事だ。
なにかやっていても、
「あ、例の件はどうなっていたっけ」
「今日は帰りがけに頼まれた買い物を忘れないようにしなきゃ」
といった、いわば「雑念」が浮かぶたびに、マインドフルはそこなわれてしまう。

そのような雑念のもとになる「気がかり」を、すべて書きだしてしまおう、というのがマインドフル手帳術で最初にやることだ。
そして書きだしたものをどのように処理していくか、そのプロセスにおいて共感的コミュニケーションを用いるのがミソとなっている。

私はこれでずいぶん助かっている。
毎日の行動が明確になり、これを書いているいまも、このことだけに集中できている自分がいる。
気がかりはたくさんあるのだが、それらはすべて忘れないように書きだされていて、なおかつ処理する方法も日時も場所もすでに決まっている。

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2016年1月2日土曜日

親兄弟との関係におけるファーストエイド

お正月で帰省している人も多いことだろう。
私もそうだが、両親や兄弟、親戚とつどってすごしている人がたくさんいると思う。

ひさしぶりの再会を祝って楽しくすごしているのはいいが、そのうち親から、
「おまえはまだそんなことをやっているのか」
「あなたはこうしたほうがいいよ」
「私たちもいつまでも元気じゃないんだからね、あんたたちがしっかりしてくれなきゃ困る」
といったような話にだんだんなっていって、ちょっとうんざりしてしまうという人もいるかもしれない。

親兄弟とのこのようなぎくしゃくした関係は、共感的コミュニケーションをもちいて自分自身と相手に共感し、つながりの質を変えていくことで、もう一度深くつながりなおすことを試みることができるのだが、いまはそれほど辛抱つよくない、いまはのんびりしていたい、という場合、なにか緊急措置としていい手はないだろうか、とかんがえてみた。

こちらにはせっかくの正月、実家でのんびりと気楽に、ゆったりとすごしたいというニーズがある。
同時に親兄弟との関係も落ちついていないと安心できない。
そこで、あらかじめ想定できる親兄弟のニーズを推測しておくわけだ。

たとえば、親にはこちらが成人し、立派な社会人として生活していたとしても、あくまで「子ども」としてのイメージが手放せず、「自分が助けてやらないとまだまだちゃんとできない」という潜在意識があったりする。
「そろそろ子どものひとりも作って家でも買ったらどうだ。おれがおまえの年齢のときには、おまえはもう小学校に行ってたし、この家だって建てていたぞ。一人前の社会人としてそれが当然だろう」
「まだ結婚しないのか」
「子どものしつけもろくにできないのか」
など、さまざまなことをいわれたり、押しつけられたりする。
そのニーズはなんだろう、ということをあらかじめ推測しておく。

「お父さんは私に子どもができて、家も買って、安定した家庭を築くことで安心できるかな?」
「お兄ちゃんは私が結婚して、家庭を持つことで安心できるのかな?」
「私たちの子どもが私たちのいうことをよく聞いて、人に迷惑をかけないような人に育っていくことを大切にしているのかな?」

多くの場合、親兄弟のあなたにたいする不安や不満は、自分の「安心」がそこなわれているという思いこみから生まれている。
そこをただ推測し、共感的に聞いてみる。
共感的な質問ひとことでいい。
ファーストエイドとして試みたとき、どんなことが起こるだろうか。

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2016年1月1日金曜日

2016年は統合の年(にしたい)

最近の私には「自分の命を使いきりたい」というニーズが強まっている。
人からよく「水城さんの活動はどれがメインなんですか?」と聞かれることが多いが、どれも自分のなかではつながっていることだ。
音楽も朗読も小説も、音読療法もマインドフルネスも瞑想も、韓氏意拳も共感的コミュニケーションも、すべて私のなかではひとつのこととしてつながっている。
しかし、外から見るとそうは見えないらしく、それぞれバラバラに、気まぐれに手を出しているように見えるようだ。

ところで、最近の私は、自分でも大変確固たる感じがしている。
なにが「確固」なのかというと、体調、体力、感受性、活力、精神的安定、表現、コミュニケーションなどについて、不安をおぼえることがなくなってきたということだ。
これは長年かけてつちかってきたものであって、一朝一夕で獲得したものではない。
とくにこの十年くらい、自分でもめざましい気づきと学びがあったと感じている。

私の気づきと学びはどこから来たかというと、マインドフルネス、瞑想、現代思想、表現活動、NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)をベースとした共感的コミュニケーション、韓氏意拳といったものからだ。
今年はこれらを統合した形でみなさんにお伝えすることができないかとかんがえている。

長年つちかってきた自分のなかにあるものを、このまま墓場に持っていくのはもったいなさすぎる。
全部だれかに伝えきってから、おさらばしたい。
これらのノウハウを身につけることで、自分の人生が楽になり、イキイキと輝きはじめ、本来その人が持っている能力を全開にできる人が、きっとたくさんいるにちがいない。

これまで朗読、音読、瞑想、共感的コミュニケーションなど、それぞれ独立した形でゼミや講座、ワークショップを開催してきたが、今年はこれらを統合したワークショップができないかと企画している。
それは、私の能力と知見を全開にした、すべてを伝えきるためのワークショップだ。
そのことをかんがえると、年頭からたいへんワクワクする。
みなさんにも興味を持ってもらえるとうれしい。

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