2016年1月11日月曜日

共感的コミュニケーションにおける試練(母親との共感)

定期的に開催している共感的コミュニケーションの勉強会のうち、昨年5月からスタートした「親密な関係」における共感的コミュニケーションをあつかうものがある。
これはおもに夫婦や恋人同士などの親しい男女や、性的な関係を含む親密な関係をあつかうものだが、もともとは英語の「intimate relationship」から来たもので、2014年暮れのNVCのIIT(国際集中合宿)でトレーナーのひとりがやっていたワークをもとに、私なりに再構成してシェアしているものだ。

日本語で「親密な関係」というと、より広い範囲をイメージする人が多いらしく、両親や兄弟、親しい友人との関係について持ちだす人が少なくない。
私はそういう関係もふくめて学びの場を作ることを歓迎している。

もちろん私自身にも親兄弟との関係があって、それなりに困難を感じるときがある。

昨年の年末に、83歳になる母が、自損事故ではあるが車を大破する事故を起こした。
さいわい、身体はまったく無事で、かすり傷ひとつなかったらしく、その点はよかったが、母が新車に買い替えると決断しているのを聞いたとき、私はとても心配になった。

私の脳裏に浮かんだのは、
「もう車に乗らないほうがいい」
「免許を返上しなさい」
「またあたらしい車を買うなんてとんでもない」
ということばだった。

しかし、私にせよ、ほかの家族や友人のせよ、そのことを母に伝えたところで、彼女には「要求」「押しつけ」にしか聞こえないだろう。
その結果、彼女は別のニーズにしがみつくことになることは明らかだ。

すなわち、
「歳をとっても行動の自由を確保したい」
「だれかの世話になったり、人に面倒をかけるのはいや」
「自分にできることは自分でやりたい」
「まだまだ車を運転する能力がある」

私にもおぼえがあるが、人からなにかを押しつけられたとき、自分の本当のニーズが見えなくなって、押しつけられたことによる反発で浮かびあがってくるニーズに、反射的にしがみついてしまうことがある。
いったんそのニーズにしがみついてしまうと、なかなかそれを手放せなくなってしまう。
なぜなら、押しつけられた反発のなかに怒りがあって、その感情が自分の本当のニーズに深くつながることをブロックしてしまうからだ。

私にできるのは、ただ濁りなく、純粋な興味をもって母のニーズを聞きつづけることだけだ。
それは親子のような親しい関係では大きな困難をともなう。
なにしろ、これまで一度たりともそのようなつながりをもって話を聞きあったことはないから。

私の側にも、親子関係がもたらしてきたさまざまな痛みがある。
それをいったん棚上げして、純粋に共感できるかどうかが問われる。
そしてやってみることにした。

最初に私が聞いたのは、事故のことには直接ふれずに、
「いま車を運転しているときに、不安を感じることはないの?」
ということだった。
母は即座に、強い語調で、
「全然。まったくこわいことなんかないよ。私の運転はちゃんとしてる。不安はなんにもない」
というものだった。

まるでかさぶたをはがすようにして、私はゆっくりと、辛抱強く共感しつづけた。
それは私の共感的コミュニケーションのもっとも困難な実践であり、山場でもあった。

最終的に母は事故を起こした場面に触れ、
「とてもこわかった。事故のあと三日くらいショックでだれともしゃべりたくなかった」
という本音のことばを聞かせてくれるにいたった。
そこにいたれば、もう私の仕事は終わったといっていい。
彼女は自分ののなかにある安全のニーズに、すでにみずから気づいていた。
「自分も人も傷つけたくない。もう二度と事故を起こしたくない。安全が一番大事」

おそらく私がとやかくいわなくても、母は母なりに、自分がどうすれば安全でいられるか、その手段を思いついたり、かんがえたりしてくれることだろう。
いま私はそうとう安心している。
きっと母もそうだろうと思う。
またゆっくり、どうすればいいか、いっしょにかんがえていけばいい。

親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(1.22)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を1月22日(金)夜におこないます。