2016年1月17日日曜日

怒りたいニーズ

ある程度共感的コミュニケーションが身に着いて、まわりにもそういう人が増えてくると、感情をあらわすことに躊躇しなくなることがある。
これまでは「泣いちゃいけない」「ここで怒ってはいけない」といったふうに、自分の感情を抑えつけることが多かった人が、それを存分に表現してもいいという安心感と喜びを感じることができるのが、共感的コミュニケーションのすばらしいところでもある。

しかし、自分自身をふくむいろいろな人を見ていると、感情を表現してもいいという安心の場にいるとき、必要以上に「怒り」の表現をしてしまうことがあることに気づいた。
自分がむかついた、腹が立った、ということについて、あるいはだれかに対する怒りについて、ことさらにエネルギーを増幅させた表現をしてしまうことがあるのだ。

いったんそれについて表現しはじめると、あるいはだれかを糾弾しはじめると、その増幅はさらに増幅を呼び、エスカレートしていく。
しかもそれが快感になっている。
それが許されるという安心感から、どんどんエスカレートし、ときには仲間どうしで盛り上がって、発散する。

どうやら、私たちのなかには、「怒りのエネルギーを発散させたいニーズ」のようなものがあるようなのだ。
なぜなら、怒りというのは、生命力の発露としてもっとも端的で、わかりやすいからだ。

怒りは常に、私たちの生存と関連している。
生存とか存在をおびやかされたとき、怒りが発動する。
発動した怒りは、それ自体が自分自身の生命力の証拠として明示的になる。
その輝きは歓迎したい明るさを持っている。

ちょっと注意したいと思う。
自分自身の怒りについて、あるいはだれかにたいする怒りについて語りはじめたとき、それがたんなる「怒りたいニーズ」に駆動されたものでないかどうか、チェックしてみる必要があるかもしれない。

怒ることは本当に簡単で、気持ちがいい。
しかし、それは悲劇をもたらすこともある。
怒ることではなく、ほかの表現方法を選ぶことはできないのかどうか、自分のなかにある純粋な表現の喜びに接続しなおすことができないかどうか、調べてみたい。

私の場合は、たぶん、こうやって書くこと、あるいは演奏すること、みなさんにさまざまなことを伝えること、などの表現によって、生きている照明に簡単につながることのできる「怒りたいニーズ」を昇華できているような気がする。


1月の羽根木の家での共感カフェは、1月29日(金)19〜21時です。