2016年5月5日木曜日

つい人の顔色をうかがってしまう

なにごとをするにも他人の顔色など気にならない、という人はこの項を読む必要はありません。
私もそうですが、自分ひとりではなく、だれか相手がいたり、あるいは何人かが集まっていたり、もっと多くの集団のなかにいたりするとき、つい人の顔色をうかがってしまうことがあります。
「この人の機嫌をそこなわないようにしよう」
「いまいったことで怒らせちゃったかな」
「この人は私のことを気にいってくれたみたいだ」

日本人はとくに他人の顔色をうかがう傾向が強いといわれています。
それはときに「空気が読めない」などという非難のことばをともなって、同調圧力となって私たちを窮屈にします。
みんなが楽しんでいるときには自分も楽しんでいるふりをする、みんなが怒っているときには自分も怒ってみせる。
集団でなくても、個人間でもそれは起こります。

ちいさな子どもは親の顔色をうかがいます。
顔色をうかがうというとことばの印象がわるいのですが、親にいまどんな感情があらわれているのか、こちらを気にしてくれているのか、あるいは気がつかずにいるのか、という情報を読む能力は、おさない子どもにとって生存を左右する重大事項です。
なので、人間は日本人にかぎらず、まずもっとも身近な存在である母親、父親の顔色を読む能力を身につけ、それをしだいに兄弟、親族、近隣の大人、子どもどうし、コミュニティ全体へと拡張していきます。
そしてたえず、その能力をみがきながら成長していきます。
それは、人間が社会的動物であり、社会性を身につけることで生存することを許される社会に生きているからです。

しかし、ときに過大な社会性は、自分のニーズを抑圧し、いきいきした行動を阻害することがあります。
なんらかの自分のニーズがあり、それを純粋に満たそうと行動するとき、
「ちょっと待て。いま、まわりはどんな感じなのか?」
と、行動を抑制することがあります。
さらに行動をつづけようとしても、相手や周囲の「期待」や「空気」にこたえようとして、自分の行動を変えたり、ゆがませることがあります。
そうなると、もう純粋にニーズにつながった行動とはいえなくなります。

人の顔色をうかがうあまり、自分ではなにもできなくなってしまう人もいます。
命令や指示がなければ動けない、動かない人もいます。
自分の意思やニーズでいきいきと行動している人には、ねたみややっかみが向けられることもあります。
すべての人がお互いの顔色をうかがい、おなじように窮屈にちまちまと行動している社会。
これを「同調圧力の強い社会」といいますが、いまの日本はその傾向が強くなっています。
そのような社会は楽しいでしょうか。

なにより子どもや若い世代の人たちがのびのびと成長できないのはかわいそうなばかりでなく、いずれ社会の衰退をまねくのは明らかです。
すべての人がいきいきと自分のニーズにつながって行動し、そのことが尊重され、対立やトラブルが起こったら懲罰を受けるのではなく「修復」を試みられる社会、それが共感的コミュニケーションもしくはNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)がめざしている社会です。
まずは身近なところからそれをはじめてみようとしている仲間が、私のまわりにはたくさんいます。

◎5月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(5.9/23/30)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、4月の開催は5月9(月)16時と20時、23(月)20時、30(月)20時です。

2016年5月4日水曜日

人には多様なニーズがあるということにあらためて気づく

共感的コミュニケーションもしくはNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の世界にいるとつい忘れてしまいがちですが、社会にはまだまだ前時代的な価値観にしばられて自分の人生を自由に生きていない人が多くいます。
たとえば、
「女は夫を支えて家庭を守り、子どもを産んで育てて、夫の両親の介護や看取りをするものだ」
というような価値観。
70代、80代の高齢者ならともかく、私よりずっと若い40代、50代の人にもそのような価値観をいまだに持ちつづけている人がいることに驚くことがあります。
しかも、それは女性ばかりではなく、男性のほうがむしろ多いように感じます。
彼らはその価値観を「嫁」である自分の愛する妻に押しつけているのです。

共感カフェにやってきた40代のひとりの女性は、その目的を、
「夫にいわれたんです。おまえは人の気持ちがわからない。おれがなにをしてほしいのか、どういうことをしてもらいたがっているのか、いちいちいわれなくても黙って察してすばやく行動すべきだ、と」
といいました。
あきらかに「共感」の意味を取りちがえています。

共感とは、人の気持ちやしてもらいたいと思っていることを「察する」ことではなく、相手がなにを大切にしているのかそのニーズを推測し、また実際に聞いて確認することで、相手とつながり、お互いに尊重しあうことです。
けっしていわれてもいないことを「察して」、先回りして相手の望みをかなえることではありません。

私は彼女の話を聞いたとき、最初は彼女のことがかわいそうになりました。
前時代的な価値観を夫や姑から押しつけられ、自分の行動の自由や選択肢を奪われ、まるで奴隷のような嫁の立場に閉じこめられているみじめな女性のように思えたからです。
実際に彼女の行動は制限を受けています。
勝手に仕事を求めて社会に出ることは許されていません。
子どもを作ることを押しつけられ、それがなかなかかなわないとなると不妊治療を命じられます。
夫や姑のいうことに逆らうことは許されません。

いまどきそんな家があるんだということに驚きますが、よくよく聞いてみると、彼女自身は自分のそのような立場に甘んじている部分がなきにしもあらず、というようすなのです。

彼女が夫や姑のいいなりになり、従っているのは、なんのニーズがあるからでしょうか。
彼女は夫や姑といさかいを起こしたくないのです。
彼女は家庭に争いがなく、平和であることが大切で、たとえそれが表面的であれ平和裡におたがいがつながっていることが大事です。
その自分のニーズを満たすために、彼らに逆らわないという戦略(ストラテジー)を採用しているのです。

私の価値観からしてみれば、もしそれが自分の生きていくための戦略だとしても、とても自分の人生を生きているとはいえず、かわいそうだ、と感じてしまいますが、しかし彼女には彼女の価値観があるのです。

時々、夫と仲が悪く、悪口ばかりいっている人がいて、そんなに旦那のことが嫌いならさっさと別れてしまえばいいのに、と思うような方に会いますが、そんな彼女もまた、自分が苦労することなく毎日好きなことをして気楽に生きていく手段として、結婚生活を維持するという戦略を採用しているのでしょう。

私はそのことを尊重したいと思います。
しかしやはり、そういった人もまた、自分のニーズに深くつながり、自分自身の人生を、たとえそれが波乱に満ちたものだとしても、生きてもらいたいなあと思います。
それもまた、私の個人的な価値観にはちがいないのですが。

◎5月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(5.9/23/30)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、4月の開催は5月9(月)16時と20時、23(月)20時、30(月)20時です。

2016年5月2日月曜日

音読療法の「現場」を見てもらう

先日、4月28日(木)の午後は、毎月訪問しているメディカルホームまどか富士見台(特別養護老人ホーム)にボランティアの「音読いきいきケア」というワークのために行ってきました。
ここはもう三年以上つづいているボランティアワークで、職員の方はもちろん、利用者のなかにもおなじみになった方が何人もいらっしゃって、私たちが行くのを楽しみにしてくれています。

今回は私と音読療法士の野々宮、音読トレーナーのけいこさん、そして見学の藤原夫妻の五人でうかがいました。
藤原夫妻は、通称トシちゃんとナオミーヌと呼んでいる、NVC(共感的コミュニケーション)の仲間で、今回、北海道は弟子屈町からはるばる東京にやってきたところを、見学に連れだしたわけです。
ふたりとも施設での音読ワークに興味しんしんのようすでした。

まどか富士見台にかぎらないことですが、特養ホームでのワークでは、参加のみなさんの身体状況はさまざまです。
ほとんどまったく寝たきりのような方から、自分できちんと立って歩ける方、補助器があれば歩行できる方、車椅子の方、車椅子でも押してもらわなければ移動できない方など、グラデーションがあります。
声を出すことについても、はっきりと発語・発声できる方から、不自由な方、ほとんど発語できない方までいろいろです。
音読療法はそういった状況でも、共感的コミュニケーションをベースに用いたスキルで対応していきます。

まずは雑談からはいって、ご挨拶――いわゆるMCというやつです。
おなじみの方が何人もいらしたので、私はリラックスして世間話からはいって、興味深い話を聞かせてもらったりしたので、うっかり自己紹介・メンバー紹介を失念してしまいました。

仕切り直しして、呼吸法、発音・発声のトレーニング、そして音読に進む段で音読療法士の野々宮に交代。
私が呼吸法を実施するあいだにけいこさんがホワイトボードに書いてくれた唱歌「花」の歌詞を使って、音読エチュードをやりました。

「花」はあらためて(歌うのではなく)読んでみると、ふるい日本語ではありながらとても美しい風景や情緒が語られていて、味わい深いのです。
それをみなさんといっしょに味わいます。

音読療法は、お年寄りのみなさんと、知的レベルを下げることなく、文学的な話ができるのが特徴です。
老人ホームでしばしば、お年寄りをまるで幼児のように扱うお遊戯的なワークがされているのを見かけますが、音読療法ではご高齢の皆さんに、たとえ認知症が進んでいたとしても敬意と尊重をもって接することを心がけています。

参加者のひとりが、しきりに、
「私はこの歌詞を全部おぼえているわよ。書いてあるのを見なくてもちゃんと歌えるのよ」
ということを訴えておられました。
おそらく、自分にはその能力があるのだということを理解してもらいたかったのかもしれません。
あるいは、自分の能力のことをだれかから否定されたり、つらいジャッジをされたりして、つらい思いをした記憶があるのかもしれません。
音読療法では、そこにあるニーズを美しいものとして見て、受け取り、共感を向けてつながります。

野々宮がいくつかの音読エチュードを、自分自身も汗だくになって熱意をもって進めていったあと、最後は私がピアノ伴奏をして、ようやくみなさんと「花」を歌いました。
いきなり「歌いましょう」というのと、音読療法のプロセスを経てから歌うのとでは、起こることがまったく違うのです。
そこには評価されたり否定されない安心のもとでの、のびやかな歌声が聞こえてきます。
そのとき、こちら側もとても幸せな気持ちになります。

ワークの最中、見学の藤原夫妻が食いいるように見てくれていたことがうれしかったです。
あとになって気づいたことですが、私は音読療法の現場と、そこで起きていることを、だれかに見てもらったり、知ってもらうことをとても望んでいたようです。
この現場を見ても「ふーん」とたいして感じてくれない人がいることもたしかですが、「これはすごいですね」と起きていることをちゃんと見てくれる人がいると、本当にむくわれるような気がします。
もっともっとたくさんの人に、音読療法の可能性や有効性について知ってもらったり、現場で起こっている本当にことを見てもらいたいと思っています。

◎ボイスセラピー講座(5.4)
5月4日(水/みどりの日)10:00-15:00は羽根木の家で音読療法協会のボイスセラピー講座です。呼吸、声、音読を使っただれにでもできるセラピーで、自分自身と回りの人を癒してください。

2016年5月1日日曜日

早朝は共感タイム

このところ、羽根木の家は滞在者が万来、イベントもてんこもりで、毎日がにぎやかで楽しい日々がつづいています。
一方で、私自身はというと、大人数でなにかをするのが苦手で、そういう場所からはすぐに逃げだしたくなります。
たぶん、安全、自由、気楽さ、孤独などのニーズが喚起されるんでしょう。

同時に、つながりや好奇心のニーズもあります。
そのような私のニーズが満たされるのは、早朝の時間です。

私はいつも早起きなので、ひと仕事してコーヒーをいれていると、滞在している人たちが起きだしてきます。
コーヒーをいれながら台所で立ち話をしたり、あるいは座敷や縁側でゆっくり話を聞くことができます。

ここ一週間ほどのうちだけでも、まるじゅん、アズワンの弘子さんと北川さん、テンダーくん、といった人たちとゆっくり話をする機会がありました。
そしていまは、NVCジャパンのコアメンバーによる羽根木つながり合宿がおこなわれていて、なかには北海道からわざわざ来てくれた3人もいたりして、貴重な時間を持てています。

ユニークな人ばかりで、エネルギーにあふれ、自分のニーズにつながって動きつづけている人とじかに接して話を聞かせてもらうと、こちらもとても触発されます。
ついこの前まで、自分はいつも先輩方から話を拝聴する側で、若輩者という立場に甘んじていたような気がするのに、気がついたらどのイベントでも、あるいは会う人ごとに、こちらのほうが年長であるようなことになってしまっていました。
それに気がつくとき、ちょっとあせりを感じることもあります。
とくに社会にインパクトをあたえている若い人に接するとき、自分はいまなにができているんだろうと内向きに沈降してしまいがちです。

でも、たぶん、私には私なりのやりかたがあって、こつこつとその道を歩きつづけていくしかないんだろうと思いなおします。
だれかと比較して、自分ができていないことをあげつらっても意味はありません。
むしろ、自分ができること、いまうまくいっていることに目を向け、そこにエネルギーを集中したいと思うのです。

そんなことをかんがえるのも、羽根木のいろいろな滞在者と刺激的な朝をすごせているおかげです。

28日(木)の午後は、私と野々宮とけいこさんがメディカルホームまどか富士見台まで「いきいき音読ケア」に行った際、北海道組の藤原夫妻もいっしょに来て、見学してくれました。
NVCの仲間に音読療法の現場を見てもらえて、とてもうれしかったのです。
音読療法という心身の健康に非常に役立つ方法のなかに、NVC(共感的コミュニケーション)が組みこまれています。
なので、その現場にNVCの仲間が来てくれるのは、そのことを知ってもらいたい、理解してもらいたいという私の願いをかなえる一端なのです。

というような日々の合間にも、私自身のオンライン共感カフェをおこなったり、羽根木の家での共感カフェを開催もしました。
いずれも少人数での開催でしたが、参加者の方それぞれのとても大事にニーズにつながるお手伝いをできた実感があったり、まずはNVCとか共感的コミュニケーションの勉強会の場には来られないようなインパクトのある方がいらして話を聞かせてもらったり、私にとっては実りの多い日々がつづいています。

この経験をどのように伝えていけるか、できるだけ多くの方に役立てる形でシェアする方法はなにがあるか、いまかんがえているところです。

◎ボイスセラピー講座(5.4)
5月4日(水/みどりの日)10:00-15:00は羽根木の家で音読療法協会のボイスセラピー講座です。呼吸、声、音読を使っただれにでもできるセラピーで、自分自身と回りの人を癒してください。

日常のことば、朗読のことば

私たちは生まれて以来、ことばを聞き、話し、たえず発音・発語の練習をしながら成長してきました。朗読表現では、その私たちが使いなれたことばを使います。
 では、日常で使っていることば・発音・発語と、朗読表現でもちいることば・発音・発語とでは、なにがどう違うのでしょうか。それともなにも違いはないのでしょうか。
 私たちが日常で使っているのは「自由言語」であり、社会共通の約束ごととして学習し、身につけてきたことばであるとはいえ、基本的に自由に制約を受けずに――あるいはそのように信じながら――話しています。
「今日はどうしてたの?」
「なんかねえ、起きるのがつらくて、一日調子よくなかったんだよね」
 というふうに。
「吾輩は猫である。名前はまだない」
 というふうには話しません。
「今日はどうしてたの?」
 ということばを自分の表現として表情たっぷりに相手にたいして用いることはたやすくできます。あなたがそのように発語するとき、相手は「自分のことを心配してくれているのかな。興味を持ってくれているんだな。コミュニケートしようとしてくれている」ということを、無意識にせよ受けとっています。つまり、ことばの「意味情報」だけでなく、そのことばがどのように話されているのか、という「メタ情報」も含まれています。
 現代朗読では、そこになにが書かれているのかという意味情報だけでなく、朗読者がそれをどのように読むのか、そしてそこにはどのようなメタ情報でこめられているのかを重視します。
 メタ情報には朗読者の感情や身体性、ありよう――つまり彼の生命活動そのものがいきいきと含まれることが、現代朗読のめざすところです。
 いまこの瞬間の自分の生きているありようを、自由言語ではなく文学作品の文章に乗せて表現する……これを実現するためには、作品のことばを自分の表現材として自由自在に使えるようにしておく必要があることは想像できると思います。
「吾輩は猫である」
 ということばを、まるで「今日はどうしてたの?」とおなじくらい、自由にメタ情報をこめて使えるようにするにはどうしたらいいのか。
 意味や文脈にとらわれることなく、また作者や作品のイメージに拘束されることなく、日本語の発音発声や社会性などさまざまなルールに縛られることなく、表現の材料として自在にあつかえるようにしておきたいのです。
 それはたとえば、演奏家が曲をすみずみまで知りつくし、どのようにでも表現できるように弾きこなす練習をしておくようなものです。

◎体験参加可「朗読生活のススメ」(5.7)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身のシリーズ講座ですが、単発の体験参加も可。5月7日(土)のテーマは「朗読とコミュニケーション/共感でつながる世界」。

2016年4月30日土曜日

「スペースのニーズ」の内容を検証してみる

だれもが多かれ少なかれ、自分ひとりで静かに安心してすごせる場所を必要としています。
そこですごす時間を含めて「スペースのニーズ」といいます。

私にもスペースのニーズが強くあって、だれにも邪魔されず、休んだり、好きなことをしてすごす自分ひとりになれる場所を必要としています。
かつてはその場所について「ここでなければならない」とか、「こんな空間でなければならない」というイメージに固執していて、それが得られないとき、とても窮屈な思いにかられ、イライラしていました。

たとえば、このようなイメージ。
家のなかに自分ひとりになれる部屋があって、そこは家族や同居人がけっしてはいってこないことが約束されている不可侵の場所です。
部屋のなかには自分が厳選した好きなもの、有用なもの、便利なものがならんでいて、必要があれば外界ともつながれるネットに接続された電子機器もそろっています。
休むための快適な寝具や椅子もあり、休むときにはだれにも邪魔される心配はありません。

そこまでして、私はなにを守ろうとしていたのでしょうね。

私が守ろうとしていたのは、日々の喧騒のなかで確保できる自分の平安でしょうか。
だれにも邪魔されない保証のある安心の時間でしょうか。
そのためにはたしかに「場所」が必要です。
しかし、その場所について特定のイメージが自分のなかでひとり歩きをはじめてしまって、「こんな場所」でなければならないという執着が生まれていたのかもしれません。

いつもいうことですが、「……でなければならない」というかんがえが生まれているときは、自分はまだニーズにきちんとつながっていない証拠と思っていいのです。
ニーズにきちんとつながれたとき、そこには「……したい」「……してもいい」という思いが自然に生まれます。

自分のスペースのニーズに本当につながったとき、「こんな場所でもいいよね」「あそこに行ってみたい」「ここでも大丈夫かも」といういくつかの選択肢が生まれてきます。
私の場合、特定の場所でなくても、ひとりで釣りに行ったり、カフェで本を読んだり、窓から月をながめたり、といったことでもいいのです。

自分にはスペースのニーズがある、と思うとき、そこにはたぶん、他人の存在が強くあります。
おおぜいのなかにいたり、とても親密なパートナーがそばにいたり。

いまひとりになりたいのに、人が近くにいて気になってしまう。
邪魔されたくないのに、パートナーから気楽に話しかけられていらいらする。
こういったことがよく起こります。
そんなときは、まず、自分のニーズにつながります。
本当にきちんとつながる必要があります。

相手が親密な関係である場合、自分のニーズを伝えるのはたやすいですね。
ただし、相手のニーズも尊重しながら、それをおこなう必要があります。
自分に話しかけてくる相手を拒絶するのではなく、相手のニーズを推測し尊重しながら、自分にもニーズがあることを伝えます。
相手がこちらと話したい、気楽にコミュニケートしたい、つながりたい、聞いてもらいたい、というニーズを受け取りながら、しかし自分はいまスペースのニーズがあってそれに応じる余裕がない。
自分のニーズを満たしてから、あらためてまだニーズがあれば受け取りなおしたいんだけど、そのことを許してもらえるだろうか?

おおぜいのなかにいて、ひとりになる必要があるときは、ただその場を離れることもひとつの手段ですね。
ひとりになれる場所に行く、そこから出ていくなど。
ただしその場合は、だれかに理由を話したうえで、そこからいなくなることをきちんと伝えておくといいですね。

◎5月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(5.9/23/30)
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2016年4月28日木曜日

【朗読生活】身体に気づく

朗読という表現は、外形的には書かれている文字を読みあげる、という行為であるため、どうしても「書かれている文字の内容」やそれをどのようなテクニックを持ちいて読むか、という点に目が向きがちです。
もちろんそれらも必要なのですが、表現行為としてはそこに「自分の身体」の存在があきらかになっていなければおもしろくありません。

ちょっと想像してみてください。
本の内容についてとても熟知し、読解を深め、何度も読みこみ、そして何度読んでもおなじように読めるように練習を積んだ朗読者がいるとします。
息継ぎやアクセンス、リズム、音声コントロールも完璧で、朗読しているとき彼の頭脳はフル回転しています。
一方、もちろんたくさん練習はしているけれど再現性については手放し、いまこの瞬間の自分の身体の状態や、自分に起こっていること、自分が受け取っていることに感受性を向け、その変化を受け入れながら読んでいる朗読者がいるとします。
さて、このふたりにはどのような違いがあるでしょうか。

どちらがいいということではありません。
朗読にたいするアプローチが違うのであって、その結果、オーディエンスに伝わるものも変わります。
自分が朗読表現者だとして、どちらのアプローチを望むか、ということです。
もし後者だったとしたら、現代朗読の方法と練習法が有効でしょう。

現代朗読では、表現主体を「本」や「テクニック」ではなく、生きて存在し、かつ刻々と変化しつづけている「自分自身」に置きます。
練習のときに「このように読もう」と決めて、そのように何度も練習したとしても、決めた形をいざ表現する「いま」の瞬間に持ちこむのは、自分のいきいきさを著しく損ないます。
過去の自分に現在の自分を拘束されることになるからです。
現在の自分は、自由で、選択肢が無数にあり、いきいきと変化しつづける表現者でありたいのです。

では、自分がどのように変化しているのか知るにはどうしたらいいでしょうか。
そのために身体に目を向ける必要があるのです。

頭脳はいきいきさを知らせてくれません。
頭脳はかんがえたり、判断したり、記憶したりしますが、頭脳がもたらすものは加工された情報であり、ときには捏造されたり、妄想されたありもしないものだったりします。
自分のいまこの瞬間の生命活動の方向性を知るには、身体に緻密な感受性を向けるしかないのです。

ところが現代人は自分の身体にたいする感受性が著しく衰えています。
「いま、身体はどんな感じですか?」
と問うても、なんだかぼんやりとしか把握できなかったり、まったくわからなかったり、あるいは捏造された脳内イメージが自分の身体感覚だと思いこんでいたりと、いろいろ大変です。

現代朗読では、自分の身体に気づき、さらに感受性を深め、いまこの瞬間の自分自身の生命現象をとらえるための朗読エチュードを、たくさん持っています。
それらをいっしょに練習したり、また日常生活のなかでも習慣的に取りくむことで、居ながらにして表現者としてのクオリティを向上させていくことができるのです。
そしてそれらのエチュードはけっして難解なものでなく、いずれも数分でおこなえるようなシンプルなものばかりです。

◎体験参加可「朗読生活のススメ」(5.7)
すべての人が表現者へと進化し、人生をすばらしくするために現代朗読がお送りする、渾身のシリーズ講座ですが、単発の体験参加も可。5月7日(土)のテーマは「朗読とコミュニケーション/共感でつながる世界」。

2016年4月27日水曜日

Jugem共感カフェ飲み会と親密な関係でうれしいこと続発

先週22日(金)夜は、草加まで行って、Jugem共感カフェのメンバーと串焼き屋で楽しい飲み会でした。
Jugemの店長で共感カフェを主催してくれている実雪さんと、その娘の満里菜、そして何度か参加してくれている美紀さん。

満里菜は現代朗読のゼミ生でもあるんですが、この4月から新社会人となったので、大学の卒業祝いと就職祝いをかねての飲み会でした。
実雪さんの同級生のお店〈串嘉〉は、前に一度行って、おいしかったのでびっくりしたので、今回もそこ。

共感的コミュニケーションの勉強を離れて、気楽に、ここには書けないプライベートな話など、盛り上がって楽しかったのです。

帰りは途中まで美紀さんとおなじ電車になったんですが、そのとき、美紀さんが話してくれたことがかなりうれしかった。
美紀さんは私の本『共感的コミュニケーション』を読んでくれたんですが、その巻末に付録として掲載してある短編小説3作をとくに気にいってくれたということです。

小説を掲載してあることを私はすっかり忘れてしまっていたのですが、美紀さんはふだんからけっこう小説を読む人らしくて、とくに宮沢賢治が好きといいます。
私の小説のことを、とくに落ちとか大きなストーリーがないのに世界がすっとはいってきて、読んでいてなぜか涙が出てきた、といってくれました。
こんなにうれしいことはありません。
あらためて自分が小説家であること、そして小説を書けることの幸せをかみしめた夜でした。

翌23日(土)夜は羽根木の家で「親密な関係における共感的コミュニケーション」の勉強会を開催。
前日や当日のドタ参、事前連絡なしでの飛びこみ3名(これはやめてくださいね、ありがたかったけど)などもいらして、8名での勉強会となりました。
私の思いつきで、この会の参加費は全額、熊本地震の被災地支援活動をされている方への寄付金とさせていただくことにしました。
ご参加いただいたみなさんも賛同いただき、気持ちよく参加費を提供してくれました。
ありがとう。

終わってからもみなさんが残って、いろいろな話に花が咲いたこともうれしかったですね。
次回の「親密な関係」勉強会は、5月20日(金)夜を予定しています。


5月4日(水/みどりの日)10:00-15:00は羽根木の家で音読療法協会のボイスセラピー講座です。呼吸、声、音読を使っただれにでもできるセラピーで、自分自身と回りの人を癒してください。

2016年4月26日火曜日

ラベリング(レッテル張り)は楽しいよね

「男ってさ、みんなコドモだよね」
「あなたってB型っぽいよね」
「ゆとり世代ってのはマイペースすぎない?」

ある傾向のある人たちをひとくくりにしてレッテル張り(ラベリング)するのは楽しいですね。
とても盛りあがります。
共感的コミュニケーションでは、ラベリングについては注意を払うようにしています。
ある人になにかのレッテル張りをしたとき、その人についてそのレッテルしか見えなくなり、いまこの瞬間のその人の本当の表情やいきいきしているニーズが見えにくくなることがあるからです。

ラベリングという行為を禁じているわけではありません。
ラベリングは楽しく、使い方によっては世界について理解を深めるひとつの有効な手段だったりします。
人がこの世界を理解するために科学などの学問がありますが、あれなどはラベリングの極致といっていいでしょう。
世界を分節化し、細分化し、ラベリングし、それらの特徴や傾向を洗い出して、複雑な世界の理解を深めるための手段となっています。

一方で、そのようなラベリング行為が、ときに、多様で、一瞬一瞬変化しつづける人の本当の顔を見えにくくしてしまうことがあることにも、注意を払いたいのです。
「あなたは私の親だから」
「彼は私の上司だから」
「おまえはおれの妻だから」
「きみはぼくの妹だから」
などというラベリングにも、相手を特定の枠内の、一定の性質や傾向らに押しこめ、本当はいまこの瞬間その枠にはおさまりきらない行動やニーズがあるかもしれないのに、それが見えなくなってしまうことがあります。

だれかと本当につながろうとするときには、すべてのラベリングをいったん手放し、いまこの目の前にいる人間が、多様で、瞬間瞬間変化しつづける複雑な生命体であり、そこにはなにかニーズが息づいていることに興味を持ち、目を向けていく必要があります。

とはいえ、やっぱりレッテル張りしてあれこれいいあうのは楽しいですけどね。

◎共感カフェ@羽根木の家(4.28)
4月の羽根木の家での共感カフェは、4月28日(木)19~21時です。

2016年4月25日月曜日

ボイスコーチングやってます

あまり表看板としてでかでかと掲げていないのですが、昨年からスタートした個人セッションのボイスコーチングは、時々依頼がやってきます。
とくにこのところ便利になっているオンラインでのセッションが増えてきています。

なにが便利かというと、パソコンを持っていなくてもほとんどの方がスマートホンやタブレット端末を持っておられるので、それで簡単につながることができるということです。
それらにはカメラもマイクも内蔵されているので、簡単にオンラインでの個人セッションができます。

私はzoomというネットミーティングシステムを使っていますが、それ以外のものでも対応できます。
Skype、グーグルのHangout、Facetime、FacebookやLINEのビデオ通話など、いずれも使えますし、いずれも無料です。

私のボイスコーチングは基本単位が30分なので、どこにいても思いたったときにすぐに私を呼びだしてみてください。
対応できるときはできるだけ応じるようにしています。
こちらもどこにいても応じられるのがいいですね。

先日は「ボイス」というより「コミュニケーション」についての相談を受けました。
私のボイスコーチングは声や話し方、そのスキルについての相談にも乗っていますが、それから派生するコミュニケーションや人間関係の問題にも応じています。
コーチングは共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)の考え方をベースにしています。

これらは人間関係のみならず、自分自身のもやもややパフォーマンスの低下の問題にも役に立ちます。
その理由は、私が書いた『共感的コミュニケーション』という本を読んでいただければわかると思います。
Kindle版は250円です。

私のボイスコーチング個人セッションは、いつでもこちらから申し込むことができます。
気軽にご利用ください。

2016年4月24日日曜日

NVCカフェ研究会あらため共感喫茶的研究会(仮称)、本格始動

私は数年前から、共感的コミュニケーションを学びシェアする場を「お茶会」のような気楽さでやりたいという思いから、「共感カフェ」と称して勉強会をあちこちで開催しています。
羽根木の家をはじめ、カフェ・オハナやステイ・ハッピーなど本物のカフェや、草加市まで出張しての開催も含めて、現在、月に5~6回くらいやっています。

最近では、さらに気楽に参加してもらいたいという思いから、自宅にいながらにして、あるいは東京から遠く離れた地方や外国からも参加できるように、ネットミーティングシステムを使ったオンライン共感カフェも月に4回程度ひらいています。

私のように、気楽な勉強会をひらく人がすこしずつ増えてきているようで、とても喜ばしいことだと感じます。
まだ実行には踏み切っていないけれど、自分でも継続的にNVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)を運営ベースにしたカフェやバー、飲食店、コミュニティハウスなどの経営をやってみたいと思っている人がいることも、ちょくちょく耳にはいってきます。

共感的コミュニケーションはともに学ぶ仲間がいると、とてもはかどるし、勇気づけられます。
NVCの用語ですが「エンパシーバディ(共感友)」というペアを組んで、定期的に共感的に聞き合う練習が推奨されています。
またそれは、練習にとどまらず、日ごろの悩みや喜びを聞き合う大切な相手ともなります。

共感的コミュニケーションを学びはじめたけれど、日常的にそのことを話したり、練習したりする仲間がいない、という人がいますが、そういう人は自分で共感カフェをひらけばいいのです。
まだスキルが身についてなかったり、十分な知識がなくても、仲間を何人かあつめてそこに自分たちよりは学びが進んでいるファシリテーターを呼べば、学びの場をすぐに作ることができます。

そのような学びの場を作ったり、維持継続したり、イベントをひらいたり、といったことのノウハウを蓄積したりシェアする場として、共感喫茶的研究会(仮称/略称カフェ研)を開催しています。

だれでも参加できます。
Facebookにグループが公開されています。
こちら。

また、次回のカフェ研は5月9日(月)午後に予定されています。
世田谷の古民家〈羽根木の家〉で開催しますが、オンラインでも参加できます。
ご案内はこちら。

2016年4月23日土曜日

不謹慎だと他人を糾弾する人たち

これまでにも何度か覚えのあることですが、なにか大きな事件や災害があると、自分たちのイベントを「自粛」という形で中止する人々がぞろぞろとあらわれます。
災害救助などに直接影響のあるイベントなら理解できるのですが、それを中止してもなんの影響もないでしょう、というようなものまで「自粛」されます。
どうやらそれは、
「あそこの人たちが大変なめにあっているときに、自分たちが好き勝手なことをやっていては申し訳ない」
という気分のようです。
そしてそれは空気のように伝播していくみたいです。

自粛するだけだったらまだいいのですが、自粛しない人たちを指をさして糾弾する人まであらわれて驚きます。
本当かどうかわかりませんが、ある保育園に「熊本震災があったのに散歩とか不謹慎だ!」とクレームが入ったそうです。
びっくりですが、さらにびっくりなのは、それに対して園長から、
「震災があったにも関わらず、子供達が散歩中にモンシロチョウを見つけて騒いでしまい、大変申し訳ございませんでした」
とマンションの掲示板に謝罪文が掲示されたということなのです。

クレームをつける人もですが、そのクレームに反応する園長さんにもびっくりです。
園長さんはクレームに対応して園児たちの散歩を「自粛」させるのでしょうか。
モンシロチョウを見つけても騒がないように指導するのでしょうか。
なんていうことでしょうか。

こちらがソースです。

他人の行動にたいして「けしからん」「不謹慎だ」「やめさせろ」と糾弾する人は、自身のなかに強い欲求不満をかかえているように思えます。
欲求不満とは、つまり、なにか自分の欲求やニーズが満たされていない状態です。
その満たされない思いを、他人への糾弾――つまり他人をコントロールしようとすることで満たそうとするのは、とてもゆがんだ表現だといえるでしょう。
自分の欲求やニーズを満たせるのは、自分自身しかありません。
そもそも、他人はコントロールできないものですし、もしできるとしたらそれは「暴力」をもってしかありません。
暴力をもってなされたことはすべて、相手も自分も不幸におとしいれます。

他人を糾弾する人々はどんな欲求・ニーズを持っているのでしょうか。
子どもたちが楽しそうに散歩しているのを見てイライラした人には、どのようなニーズがあるんでしょうか。

幼い子どもも含む国民全員が、被災地のことを思いやり、被災者を助けようと一丸となることで、安心したいのでしょうか(そもそも子どもにそれを求めるのはむずかしいと思いますが)。
自分が懸命に寄付したり被災者のことを思いやったりしているのに、そうせずにのびのびとしている人を見ると、不平等を感じるのでしょうか。
本当はすぐにでも被災地に駆けつけて被災者を助けたいのに、事情があって身動きとれず、それなりに自由にふるまっている人を見ると、自由や選択肢が自分にあればいいのにと思ってしまうのでしょうか。

私がいま思うのは、他人を糾弾する人たちを、さらにこちらが糾弾するようなことはやりたくないな、ということです。
思いやりをもって対話につなげることはできないでしょうか。

思いやり、共感、対話で人々がつながっているときに、創造的なことが起こり、失われてしまったものも回復にむかうのだと思うのです。

◎4月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(4.27)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、4月の開催は27日(水)16時と20時です。

【追記】
上記事を私のメールマガジンに書いたところ、さっそく何人かの方からリプライいただきました。
そのなかのひとりは、「モンシロチョウを見つけて」の一文に園長さんの密かな抵抗を見た、というものがありました。
一部、紹介します。

◎私が園長なら、同じように書いたかも。
災害が起こって人が死んでも、世界は美しいことを子どもは教えてくれている、そのことに気づかない、周りにビクビクする大人(そんな自分にムカついていて他人を避難する人たち)への精一杯の皮肉。
同時に、そんな連中から子どもたちを守るために。
自粛はもちろんしないで、同じことが起こればまた同じように謝罪文を出す。
反省なんか絶対にしないで(笑)!

☆水城のコメント
なるほど!
私はびっくりしてしまったけれど、園長さんは本当はちゃんとわかっていたのかもね。
そして確信犯?(笑)。
だとしたらいいなあ。
このリプライのように、うん、その手がいいよね、と私もあらためて思いました。

新MacBookを使いこむ

不注意でメインマシンの MacBook Pro 13インチにお茶をぶちまけてしまい、しばらく修理で使えなかったとき、代替機として手にいれた新MacBookがまだ手元にあって、丸3か月くらい使っていたことになるので、そのレポートを書いてみる。
とはいえ、メインマシンは相変わらず、修理を終えてもどってきた MacBook Pro のほうなので、新MacBookのほうは使用頻度は高くない。

しばらく使ってみての、いわばファーストインプレッションは、こちらの記事に書いてあるが、読み返してみると不満たらたらだな。
いまはこれほど不満たらたらではない。

非常に軽くて薄く、スタイリッシュなマシンなので、使っていて楽しい面もあるのだが、それでも使用頻度が低い理由のひとつは、やはりマシンパワーだ。
ただし、メインマシンとしては、という「ただし」が付く。
そもそも、MacBook Pro と比較するのはかわいそう。

今回は映像編集、音楽・音声編集という、私の仕事の大きな部分をしめる作業については、あつかわないことにする。
それ以外は、Proにも新MacBookにもほとんどおなじ環境を構築している。
そうしておくと、外出するときなどひょいとつまんで持って出ても、そのままおなじ調子で仕事のつづきができるからだ。
そしてデータのほとんどはクラウドに置いてある。

起動時に自動的に読みこまれる常駐ソフトは、つぎのようなものがある。

 TabLaunchar ランチャー
 Karabiner キーマッピング
 MuteCon 起動音をミュート
 Magican システム最適化
 Flycut クリップボードマネージメント
 Wallcat 壁紙交換
 そら案内 天気
 ScrubIt! クリップボードの特殊文字を削除
 Dropbox クラウド
 GoogleDrive クラウド

ランチャーやドックに置いてあるソフトは、つぎのようなものがある。

 Evernote 執筆・データ
 Scrivener 執筆
 Safari ブラウザ
 Google Chrome ブラウザ
 Tweetbot ツイッター
 メール
 カレンダー
 OminiFocus GTDツール

ここまでは最初に立ちあげて、常時使うソフト。
これだけ並行して立ちあげておくと、新MacBookでもさすがに荷が重いかもしれない。
メモリが8GBなので、16GBのProに比べたら荷が重くなるのも当然だろう。

ほかに私がドックに置いてある、よく使うアプリケーションは、つぎのようなものがある。

 Hagoromo 執筆、ePub作成
 写真
 Skitch 写真加工
 メモ
 iTunes 音楽・映画
 メッセージ
 Skype ネットミーティング
 zoom.us ネットミーティング
 Minutes タイマー

もっともよく使うのは執筆用のEvernoteとScrivener。
Evernoteはあらゆるデータをここにぶちこんでヘビーに使いこんでいる人もいるようだが、私はちょっとした記事やメモ書きと、ほかにはIDとパスワードとか、講座やゼミのデータ管理に使っている程度。
したがって、無料版で十分。

Evernoteはデータがクラウドと同期しているので、MacBook Pro での作業のつづきが、すぐに新MacBookでできる。
Scrivenerも同様。
ただし、Scrivenerのほうはややデータが重く、しかもデータの置き場はこちらがクラウドに指定しておく必要がある。
逆にいえば、ローカルに置いておくこともできるということだ。

Scrivenerは執筆に適したソフトで、書いている本や小説を丸ごと階層構造や章立てのまま、全体を見て確認しながら執筆できるので、重宝している。
文字数の確認やフォントの変更も簡単だし、プレーンテキストデータとして全体を吐きだすこともできる。
ただし、その分データが重くなるので、私はDrobboxにデータを置いてあるのだが、完全に同期されるまでちょっとタイムラグがある。
Proで書いて、すぐにつづきを新MacBookでやろうとすると、同期が終わっていなくてファイルがおかしくなってしまうことがあるので、注意が必要だ。

Evernoteはそのタイムラグが短く、ちょっとした書き物はこちらでやっている。
ブログ記事はほぼすべて、これで書いている。
いまもそうだ。

けっこうたくさんのソフトを同時に立ちあげているが、ものを書く分には新MacBookのマシンパワーでもそう支障はない。
特殊なキーボードの感触も、使いこんでいるうちに身体がなじんでくる。
非常にキーストロークが浅く、かなりの強いストロークで打ちこむ私にとってはしばらく使いづらかったが、浅くて軽いストロークに切りかえられるようになったら、入力スピードはかえって速まったくらいかもしれない。

私はUSキーボードでカナ入力という特殊な入力方法を使っているのだが、これが一番効率がいい。
それがさらに速くなる感じは悪くない。
ゆっくりしゃべるのとおなじくらいのスピードで入力している。

あと、多くのアプリを立ちあげて、いくつかの作業を同時進行するのが私の好みだ。
よくライフハックなどに、「一度にやる作業は一個に集中すべし」というのがあるが、私はそうでもない。
そういう人もいるだろうが、いくつかの作業を並行処理しているほうが(私の場合は)はかどるし、気分転換にもなる。
ひとつのことにずっとかかずりあっていると、どこかでだれてしまって作業の質が落ちる。
作業内容を切りかえながら、みじかい集中を積みかさねていくのが合っている。

これは昔からそうだった。
ひょっとして音楽をやっていることと関係があるかもしれない(ないかもしれない)。
ブログを書きながら、長い小説の一部を書き、その合間にツイッターとフェイスブックをチェックして、必要ならレスポンスを書き、メールの返信を書き、ネットミーティングで人と直接打ち合わせしたり、ボイスコーチングをおこなったり。

多くのアプリを立ちあげておくので、2台以上のマシンかモニターを使おうかと思って試したこともあるが、それより Mac OS の機能である、フルスクリーンを何面も設定しておいて3本指でさっと切り替えるやりかたのほうが、いまのところはしっくりきている。
1面めには執筆関係、2面めはブラウジング関係、3面めはメールやスケジュール関係、といった具合だ。
だいたい、常時4面くらいを使って作業している。

ざっくり書いたが、持ち出し用のサブマシンとしては、新MacBookはかなりいいという気になってきている。
なによりスタイリッシュで美しいマシンだ。
そして軽い!

最近は容量25リットルくらいの中くらいのサイズのリュックサックを使っているが、それにいれても、いれたのを忘れたんじゃないかと思って一瞬あせってしまうくらい軽い。
バッテリーのもちはその分、当然短くなるが、非常時にはふつうのUSBアダプターから給電できるのがいい。
つまり、USB-C用のケーブルを一本持っていればなんとかなる、ということだ。


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2016年4月21日木曜日

共感を拒否される

たぶん、共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)を身につけたいと思って学びはじめたり、練習をはじめたりした人の多くが経験することだと思うが、いざだれかに共感しようとして、それを拒否されることがある。

「あなたはいまこういうことを大切にしているから、そういう気持ちなんですね?」
すると、
「ちょっと! そんな気持ち悪い聞き方しないで」
とか、
「それってNVCの文法だよね。知ってる。そういう定型文で訊かれるの、ムカつく」

あなたはただ、相手の気持ちとニーズを知りたくて、おぼえたばかりの文法で共感しようとしているだけなのに、拒絶に遭遇してとても悲しくなる。
悲しくなるのは、相手が自分の質問にこたえてくれないばかりか、こちらの共感したいという気持ちを受け取ってくれないこともあるし、さらにはこちらのつながりたいというニーズを「拒絶」されてしまうせいもあるだろう。
つまりはつながりを拒否されてしまうわけだ。

それをいいかえれば、
「あなたとはいまつながりたくない」
といっているように聞こえる。

しかし、本当にそうだろうか。
相手はあなたとのつながりを拒否しているのではなく、あなたのもののいいかたに嫌悪感を覚えているだけなのかもしれない。
もしそうだとしたら、相手が大事にしているのはなんだろう。

おっと、それを推測する前に、まず自分自身につながっておきたい。
相手に共感し、それを受け取ってもらい、また相手がなにを大切にしているのか知りたい。
相手とのつながりを本当に大切にしている。
また、相手に共感しようとしている自分のことを知ってもらい、受け入れてもらいたい。

さて、相手はなにを大事にしているのだろうか。
ここではただ推測するだけでいい。
相手に共感を拒否された悲しさや痛みはなかなか消えないかもしれない。
しかし、相手にもニーズがあるはずだということを思うとき、痛みはすこし薄れ、ひょっとしたら時間がたっていつかまた相手につながろうと試みる気持ちがもどってくるかもしれない。

つながりと共感の可能性を信じ、それをけっして手放さないことが、非暴力の道を歩くということだ。

共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月23日(土)夜におこないます。

2016年4月19日火曜日

30年間ネットを使いたおしてきた

メジャー出版社から本が出て私が小説家になったのは1986年のことだった。
そのとき実家のある福井に住んでいたので、小説を書くための情報にいかに獲得するかが、死活問題でもあった。
都会に住んでいる作家の場合、国会図書館などの大きな図書館に行ったり、編集者と直接会ったり、また大きな本屋もたくさんあったりして、情報を得るのが楽で、そういう話を聞くと自分も都会に移住しなければならないのかなと思ったりした。

インターネットが普及しているいまでは想像もできなくなってしまったが、簡単な言葉ひとつ調べるのに大変な苦労をしたものだ。
だから、最初は日経新聞だったと思うが、新聞記事データベースに一般人がアクセスできるようになったときは、歓喜してすぐに利用をもうしこんだ。
当時はインターネットもなく、電話回線を使ってモデムで接続した。
モデムが使えないときは、音響カプラーという、デジタル信号を音声信号に変換してやりとりする装置を使ったりもした。

当時はパソコン通信といっていたが、NECのビッグローブや、富士通系のニフティサーブというネットも、ごく初期の段階から利用していた。

以来、ちょうど30年。
いまはほとんどすべての人がネットに接続されている。
とくにここ何年かのスマートホンの普及は、人々のネット利用率を急速に押しあげた。

私のように資金も組織的なバックボーンもない純粋な個人が、非常に安価に情報発信ができるのは、大変ありがたいことだ。
書きたいことを書いてネットで配信し、多くの人に読んでもらえるということもありがたいことだが、それも増して自分がやっていること――講座やライブの告知を無料で掲載して、興味のある方やそれを必要としている皆さんに届けることができるというのは、とても貴重な個人ツールだ。

ネット歴30年、パソコン歴35年ともなると、さまざまな風景を目にしてきた。
小説家になった当初は私も原稿用紙に手書きで執筆していたが、すぐにワープロ、そしてパソコン上のワープロソフトに移行した。
その後、ネットを経由して一瞬で送稿できるようになった。
もっとも、出版社側がネットに対応していなかったので、ファクス送信ソフトを使った。

いまではかんがえられないことだが、当時はワープロやパソコンを使っている作家はめずらしく、
「マシンを使うと文体が変わったりするんじゃないの? あと思考にも影響がありそうだし。やっぱり手書きがいいよね」
などと揶揄《やゆ》されたりした。
ネットを使うようになると、
「小説家のくせに無料でネットに文章を流すなんて」
と非難されたこともある。

携帯電話が普及しはじめると、
「いつでもどこでもつかまえられるのはごめんだね」
と拒否する人が多かった(その人たちはいまどうしているんだろう)。

ネットがパソコン通信からインターネットに移行しはじめると、
「だれも管理していないインターネットなんて恐ろしくて」
と嫌悪する人が多かった。

スマートホンが普及しても、
「やっぱりガラケーだよね」
と、かたくなになっている人もいまだにいる。

こういった人も、たぶん、とても安心や安定が大切で、変化するものにたいして警戒心があるのだろうと思う。
それはそれでわかるし、私にもそういう気持ちがあるけれど、それ以上に私は変化を楽しんでいるし、なにより個人として自立した活動を継続するためにはなくてはならない環境になってしまっている。
ネットにかぎらず、ITの普及・進展によって、かつてはとても個人でやれるようなことではなかったことが、たくさん個人の手中にはいってきている。
夢のようなありがたさだ。

ところで、近く、「自力出版講座」というものをアイ文庫主催でやる予定になっている。
そう、出版も自力で、インディペンデントなパーソナルメディアとして、私たち個人の手中に落ちてきているのだ。

◎4月開催:水城ゆうのオンライン共感カフェ(4.27)
自宅や好きな場所にいながらにして気軽に参加できる、ネットミーティングシステム(zoom)を利用した共感的コミュニケーションの60分勉強会、4月の開催は27日(水)16時と20時です。

2016年4月18日月曜日

H28年(2016年)熊本地震そのとき

4月14日の夜、現代朗読のゼミが終わって、まだ羽根木の家にゼミ生たちが残っていて掘りごたつで雑談していたとき、ドンという音とともに下から突き上げるような振動が来た。
びっくりして、ゼミ生のひとりが飛びあがったのだが、なにが起きたのかとっさにはわからなかった。

そのあと、揺れが来て、地震なのかとわかったが、感じからいって直下型だろうと思った。
震度はたいしたことないが、衝撃は大きく、かなり驚いた。
すぐにラジオをつけてみたら、震源は東京23区直下とのことだった。

みんなが帰ってしばらくしたとき、ツイッターを見ていたら、熊本で震度7と流れてきて、一瞬目を疑った。
震度「7」?
東日本大震災や阪神神戸淡路大震災なみの揺れではないか。
なにかのまちがいかとも思ったが、ラジオでたしかに臨時ニュースを流しはじめている。
テレビをつけたら、放送局内のすさまじい揺れの映像が流れてきた。

そのあと、深夜までテレビとツイッターにつきっきりになってしまった。
東日本大震災のときは、東京も影響があって、羽根木の家に帰宅困難者が何人か泊まりに来たのだった。
そのあと何日か、炊き出しの日々がつづいたことを思い出した。

そして16日の未明にはマグニチュード7.3という、阪神淡路大震災と同規模の地震が発生した。
あとで発表があったのだが、こちらが本震とかんがえられるということだった。
つまり、最初の震度7の地震は前震だったのだ。

本震があって、さらに大分のほうでも大きな地震が発生した。
明らかに断層にそって発生している。
誘発地震で、これがさらに今後どのようになっていくのか、だれも経験したことのないパターンで、わからないという。

今回の一連の地震で亡くなった方、怪我をされた方、被災された方が多くいらっしゃる。
心からお見舞い申し上げたい。
ひとごとではないと感じる。

東京でも大きな直下型地震は予想されている。
また、東海沖、南海沖、東南海沖の巨大地震も予想されている。
名古屋には私の息子や妹一家が住んでいて、もし巨大地震に東海地方が襲われたら心配だ。
日本列島がいくつかのプレートの合わせ目に乗っていて、もしそれらが連動して動くとしたら、今後どのような事態が起こるか予想もできない。
心配だけれど、天災は避けられないのだ。
かならずいつかはやってくる。
それはすぐいまかもしれない。

人は謙虚に災害にそなえるしかない。
災害時に大きな被害に拡大しないように謙虚になり、準備しておくしかない。
食器棚は閉めておく。
箪笥は倒れないように固定する。
寝床は倒れるようなものの近くにしない。
防災グッズはすぐに取れる場所に置く。
原発は動かさない。

自分をふくむ人の命をどうやって守るのか。
先人は多くの知恵を残してくれているし、また自分の身体もさまざまな声を発してくれている。
それらに耳をすまし、野生動物のように感覚をとぎすまして事態にそなえるしかない。
それでもたぶん、防ぎきれないものがあるだろう。
そのときは事態を受け入れるしかない。
自分もまた、この動的な世界の一部なのだということを、ほがらかに受けとめて生きていくのだ。

げろきょネットライブ再開の準備

木曜夜のげろきょゼミで、ひさしぶりに「げろきょネットライブ」の打ち合わせとリハーサルをおこなった。
数年前まではかなり頻繁に開催していたネットライブだが、私の負担が大きいのでしだいに息切れして、なんとなく中断していた。
ひさしぶりに再開しようかとゼミ生に持ちかけてみたところ、中継機材やネットのオペレーション、司会進行などについて協力したいという人が何人かいたので、やってみることになった。

まずは中継機材の確認。
数年前に使っていたCEREVOというメーカーの「Live Shell」というUstream中継用の機材があった。
電池をいれかえてスイッチをいれたら、ちゃんと起動した。
そしてどうやら、WiFiにも自動的につながって、インターネットの配信用サイトに接続したようだ。

それを、最近愛用しているCANONの iVis mini X につないでみたら、見事に使えることがわかった。
これは非常に広角な画角を持っていて、手動での操作がほとんど必要なくなるのと、マイクが品質が高く音声がクリアなのとがすぐれた点だ。

さらに画質がよく、レンズも明るくてズーム機能も優秀なSONYのデジカメは、残念ながらHDMIの接続端子が合わずつなげられなかったが、こちらもアダプターを取りよせれば使えるだろう。

Live Shell のげろきょライブ配信用ダッシュボードサイトに接続してみたら、数年前の設定が残っていて、そのまま配信スタートできることがわかった。
これですぐにでもライブ中継ができる。

ライブ内容としては、単独の朗読、現代朗読が得意とするところの群読パフォーマンス、音楽演奏、音楽と朗読の即興パフォーマンスなどを予定している。
ライブ会場として使う羽根木の家には、出演者だけでなく、一般の観覧者も歓迎したい。

ライブをそのまま定点カメラからUstreamを通じてリアルタイム配信すると同時に、それらは手元でも録画しておく。
もう一台カメラを使えば、あとでYouTube用に見栄えよく編集することもできるだろう。
さらに別のマイクを使って音声を別撮りしておけば、オーディオブックとしてもコンテンツ化できる。

今後、ネットライブは、ライブ配信だけでなく、コンテンツ発信・収録製作の場としても、積極的に活用していきたい。
再開第1回のげろきょネットライブのご案内はこちら。


◎現代朗読体験講座(4.24)
朗読をはじめてみようと思っている方、すでにやっているけれど物足りなさや壁を感じている方、その他表現に興味のある方、まずは進化しつづける現代朗読を体験してみませんか。4月24日(日)午前、羽根木の家にて。

2016年4月17日日曜日

テンダーくんの「羽根木の家のお手入れ+NVCとウェブ講座」(4.26)

『わが家電力』やさまざまな活躍で有名な鹿児島のテンダーくんが、羽根木の家でワークショップをやってくれることになりました。
以下、テンダーくんのサイトから転載します。
元サイトはこちら。

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世田谷・羽根木に残る築80年の古民家、通称「羽根木の家」。
非暴力コミュニケーション(Non Violent Communication)の勉強会が日々開催される、日本のピースカルチャー発信の地であり、また朗読家の野々宮卯妙さんのお住まいでもあります。

都心でありながら、どこか懐かしい佇まい。羽根木の家は風情あるとても素敵な家ですが、庭木はあまりに大きくなりすぎて、今では昼でも家の中が暗くなるほど。畑も始められないし、せっかく揃えたソーラーパネルも十分に使うことができません。

この家が末長く保全されるために必要なことは「愛され、善く使われること」。野々宮さんは、持続可能な暮らしのために、今後はパーマカルチャーやオフグリッドを取り入れていきたい、とのことでした。ならば、みんなで手入れして、80年前から託されたバトンを次の世代につなぎませう!

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4/26 10:00-12:00

やること(講師テンダー)
・庭木の枝打ち。
・木の登り方講座
・ソーラーパネルのセットアップ
・消防事情的に可能だったら火起こし講座やるかも。
・美味しいお昼ご飯作り

こんな人に来てほしい!
・古民家が好き
・NVCが気になっている
・持続可能ってイケてると思う
・ソーラーパネルもいいよね
・テンダーが好き

参加費:食費は実費、ワークショップ代はドネーション(寄付)で! 参加は要予約ね。
場所:「羽根木の家」(お申し込みに対するお返事で、住所をご連絡差し上げます)
いるもの:汚れてもいい格好、あればノコギリ、あれば軍手

お申し込みはこちらから!

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さ・ら・に!

同日午後からは「非暴力コミュニケーション」を今後、いかにウェブ展開していくかの「検索結果で共感は可能なのか?研究会」を開催します。版元を立ち上げ、月5万人が訪れる個人サイトで本を売るテンダーさんの「検索最適化技術(Search Engine Optimise)」を軸に、これからの日本のNVCカルチャーの伸展を話し合います。

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4/26 14:00-17:00

やること(講師テンダー)
・NVCと言葉の関係性を改めて考える
・「ウェブと検索の世界」での共感ワード
・情報が無料化していくフリーの概念
・ウェブは人を救うのか
(おそらく日本初の試みなので、とっても実験的です!)

こんな人に来てほしい!
・古民家が好き
・NVCが気になっている
・個人で始めるSEOが気になっている
・人に伝えることって大事だと思う
・やっぱりテンダーが好き(2回目)

参加費:ドネーション(寄付)で! 参加はまたもや要予約。
場所:「羽根木の家」(お申し込みに対するお返事で、住所をご連絡差し上げます)
いるもの:あればノートパソコン、メモ帳

お申し込みはこちらから!

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以上、お楽しみに!
(*以上の予定は全て暫定のため、予告なく変更の可能性があります!)

テンダー

2016年4月16日土曜日

だれかのふるまいが許せない、と思ってしまったとき

付き合っている相手の食事のマナーが悪くて、嫌悪感をもよおす。
上司の電話応対の言葉使いが気になってイライラする。
いつも行く定食屋の主人があまりに無愛想で腹が立つ。
こんなとき、あなたはどうするだろうか。

マナーを注意する?
上司に苦言を呈する?
客としてクレームをつける?
いずれも対立が生まれたり、関係が悪化したりする可能性がある。
では、どうすればいいのか。

そもそもこちらが相手にたいして嫌悪感をもよおしたり、許せないと思っているとき、どうにかして相手を自分の価値観に合うようにふるまいを変えさせたいという意図が働いている。
つまり相手をコントロールしたいという欲求がそこにある。

しかし、まずしっかりと確認しておきたいのは、他人はけっしてコントロールできないし、自分の期待に沿うようにふるまってはくれない、という事実だ。
この点に幻想を持っていると、ことごとく失望を味わうことになるし、人生はつらいものになる。

相手を変えようとするのではなく、ただ相手に共感し、相手とつながる。
そうすれば、ひょっとして相手にはこちらのいうことに耳を傾けてくれる可能性が生まれるかもしれない。

その前に、まず、自分につながる必要がある。

付き合っている相手の食事のマナーが悪くて嫌悪感をもよおすとき、自分が大切にしているのは、食事のときに人に不快感を与えないようなマナーや秩序が大事だから?
上司の電話応対の言葉使いが気になってイライラするのは、誠実さや安全が大事だから?
定食屋の主人の無愛想に腹が立つのは、コミュニケーションや親しみや大事にされることが必要だから?

自分のニーズが明らかになったら、それをしっかりつかまえた上で、今度は相手のニーズに目を向けてみる。

忘れてはならないのは、すべての人にはニーズがあり、すべての言動はその人なりの切実なニーズにもとづいて現れているということだ。
たとえその言動がこちらの気にいらない方法であったり、こちらにとって不都合なことであったとしても、相手にはそれなりの切実なニーズがあるということだ。
相手を攻撃したりコントロールしようとするのではなく、相手のニーズに目を向け、共感できるかどうかが、相手とつながれるかどうかのキーになる。

もし相手に共感して、必要なつながりが生まれたとしたら、そのとき初めてこちらは相手にこちらのニーズを伝えることができる。
こちらに共感されつながりを感じている相手は、おそらくこちらの言動に耳を傾け、ひょっとしたらこちらを受け入れ、お願いをきいてくれるかもしれない。
しかし、共感がなくつながりがない状態では、けっしてこちらのいうことをきいてくれないだろうし、ましてやコントロールされるなどということは(物理的暴力をもってでもしなければ)ありえない。

◎親密な関係における共感的コミュニケーションの勉強会(4.23)
共感的コミュニケーションでもとくにやっかいだといわれている親密な関係であるところのパートナーと、お互いに尊重しあい、関係性の質を向上させるための勉強会を4月23日(土)夜におこないます。

2016年4月15日金曜日

5月9日:共感喫茶的研究会(仮称)のつどい

共感的コミュニケーション/NVC(=Nonviolent Communication/非暴力コミュニケーション)を運営ベースとするカフェやバー、コミュニティスペースを常設として継続的運営したり、ワークショップや勉強会、イベントなど場作りのためのノウハウをシェアしたり研究するための勉強会を開催しています。
興味のある方は、ご友人などお誘いあわせの上、気軽にご参加ください。
ネット経由オンラインでの参加も歓迎です。

◎日時 2016年5月9日(月)13:00〜15:00
  事前のランチタイムに会場を使えるようにしておきます。
  昼食持参で12時からどなたもご参加いただけます。

◎場所 現代朗読協会「羽根木の家」
    (京王井の頭線新代田駅徒歩2分)
    世田谷区羽根木1-20-17
  直接来られない方のためにオンライン参加も可能です。
  参加希望の方はお知らせください。

◎参加費 500円(会場維持協力費として)
  オンライン参加の方は不要です。

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらのフォームからメッセージ本文に「NVCカフェ研究会」とご記入ください。

※ 猫がいます。猫アレルギーの方はご注意ください(通気性が良いせいか、発症した例は今のところ聞いておりません)。

※世話人:水城ゆう