ピアノの即興演奏を使った朗読レッスンをおこなっているのだが、先日、自分でもうまいと思った比喩を思いついたので、紹介したい。
かねてから朗読という表現は、いかにいまこの瞬間の自分自身とまわりのことに気づきつづけ、変化しつづける生命現象の発露をさまたげないことが重要か、ということを強調してきた。
これはなかなかひとりで読んでいてもトライが難しかったりする。
朗読という表現行為の枠組み——書かれているテキストを解釈したり説明的に読んだり上手に伝えようとしたり——にまずはどんな人もとらわれてしまいがちで、自分自身に目を向けるどころではないからだ。
しかし、それでは表現のいきいきさやダイナミックさは現れてこない。
朗読者にテキストを読んでもらうとき、私が横からピアノ演奏でいわば茶々をいれる。
つまり外的刺激を朗読者に与えるのだ。
予測しない外的刺激を受けた朗読者は、かならずなんらかの身体的変化が起こる。
普通に音楽を聴くときのことを想像してみればわかると思う。
音楽は人の身体やこころにある種の変化をもたらす。
即興演奏の場合、それは予測できない変化の連続として現れてくる。
変化しつづけている自分自身をさえぎらず、それに逆らわずに読めるかどうか、ということだ。
その際、重要になってくるのは、朗読者がちゃんと音楽を聴けているかどうか、ということだ。
演奏しているこちら側には、それがきちんと受け取られているのか、まったく無視されて勝手に読みつづけているのか、あるいは聴くまいと拒絶されているのかは、手に取るように(なぜか)わかる。
音をきちんと受け取り、その結果もたらされる自分の変化をさまたげないようにするには、読み手自身がある程度、集中している必要がある。
いわば、サーファーがさまざまに変化する波に乗り、逆らわずに自在に乗りこなすためには、それなりに応じられる身体的状態が必要であることとおなじだ。
朗読者もただ脱力した受け身で音楽を聴いているだけでは、自分の変化に応じることはできない。
リラックスしたり脱力することも必要な場合があるが、朗読という表現行為においてはそれなりに自分の全身が変化に応じられる状態にあることが必要だろう。
私が日々稽古している武術(韓氏意拳)のことばを借りて、身体にまとまりがある状態と説明している。
さまざまにストレスを受けたり緊張を強いられたりすることが多い現代社会生活においては、リラックスしたり脱力することが生活のなかで必要であるかもしれない。
それはそれとして、表現にかぎらずなにかをおこなうときに、力むのではなく自分がまとまって全身を総合的に発揮できる状態を稽古しておくことも重要だろうと思う。
朗読というなにかを読む、声を出すという行為に、ほどよく全身が参加しているときのクオリティについて体験してもらえるとうれしい。
◎9月8日:現代朗読ゼミ
朗読や群読などの身体表現を用いていまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現するための研究の場・現代朗読ゼミ、9月の開催は8(土)/15(土)/22(土)、それぞれ10時半から約2時間。