「しつけ」ということばや行為がいやでいやでしかたがない。
私のニーズはもちろん、子どもたちが守られ、安全にはぐくまれること、それによって私の安心があるということ。
幼い子どもが犠牲になった不幸な事件があるたび、「しつけ」ということばが親から出てくる。
事件でなくても、子どもが公衆の場で騒いだり、行儀がわるかったりすると、
「親のしつけがなってない」
「どういうしつけをしてるんだ」
と親が責められる風潮がある。
学校からも、
「家庭でのしつけをしっかりお願いします」
なんてことをいわれたりする(余計なお世話だ、学校の都合を押しつけないで)。
「しつけ」ということばや考え方を根本から見直してほしいと思う。
しつけというのは犬や動物に使うことであって、人間(たとえ子どもであっても)に使うものではない。
犬や猫などのペットは、たしかに、人間社会のなかで都合よくふるまうことを学ばせることによって、皆にかわいがられ、結果的に彼らも安心できたり、生存のニーズを満たせたりする。
人間の子どももそうだろうか。
社会的に都合よくふるまうことで、安心できたり生存のニーズを満たせるようになるのだろうか。
たしかにそういう側面はあるかもしれない。
しかし、自分の子どもにそうなってほしいと思う親はいるだろうか。
すくなくとも私は、自分の息子に、社会に都合よくふるまえるような人間になるのではなく、自分でかんがえ、自分の選択で行動し、自立し、また自発的に他者をたすけたり社会の役に立てるような人間になってくれることを望む。
自分自身もそうでありたいと思う。
社会の都合で「しつけ」られたりするのはまっぴらごめんだ(体制には逆らうよ)。
子どもに自発的で自立的な行動を身につけてもらいたかったら、「しつけ」ではなく「共感」によって、自分につながりみずからかんがえて行動する力を育てることが、大人のできるサポートなのだろうと思う。
◎このような記事はメールマガジンでも配信しています。
不定期ですが、水城が考察するさまざまな記事がお手元メールボックスに届きます。
登録はこちらから。無料です。