自分の能力を最大限に発揮して、仕事の質と効率をあげるには、マインドフルネスをこころがけることがもっとも有効だと感じている。
「いまここ」の自分自身につながり、その「ありよう」とまわりのこと(自分自身がまわりから受け取っていること)に気づきつづけている状態だ。
しかし、私たちの生活は、マインフルネスの邪魔をするものであふれている。
というより、文明の進展というのは、人をマインドフルネスから遠ざけるさまざまな発明の進展の歴史そのものといってもいいくらいだ。
その最たるものがコンピューターであり、スマートホンだ。
私も1日のかなり時間をコンピューターの前にすわってすごしている。
いながらにして世界とつながり、情報が得られ、コミュニケーションができる。
たとえばYouTubeを観ているとき、私の身体もこころも「ここ」にはない。
そのようなマインドレスでもすごせるのは、文明が築きあげた安全で、しかし人工的な環境のおかげだ。
屋根と壁と床があって、風雨や日差しを気にせず、座りごこちのいい椅子と机で長い時間、快適なままで自分の存在を忘れていられる。
飢えや渇きの心配もない。
水道をひねれば水が出るし、冷蔵庫には冷たい飲み物がはいっている。
すぐにお湯をわかしてお茶を飲むこともできれば、火をつけたり電子レンジを使ってすばやく食事の準備もできる。
いつでも風呂やシャワーで温まることもできる。
便利でありがたいことだが、そのおかげで私たちは自分自身の実感をうしなってしまっている。
前置きが長くなってしまったが、仕事をするときぐらい、とくにものを書くときぐらい、自分自身の実感とともに自分がおこなっていることに気づきつづけながらやりたいと思うのだ。
私の場合、ものを書くときのもっとも大きなノイズは、まさに向かっているコンピューターの画面に侵入してくる情報だ。
ネットにつないだまま仕事をしていると、メール着信、フェイブックやツイッターのメッセージやレスポンスの着信、その他さまざまなノーティフィケーションがポップアップやサウンドでやってくる。
かといって、ネットを完全に切断してしまう、バックアップや調べ物が不便になる。
私は書いているものはほとんどリアルタイムでクラウドサーバーに同期させ、いつなんどきローカルがクラッシュしてもすぐに復帰できるようにしてある。
これで何度助かったか、あるいはストレスから解放されたかわからないほどだ。
また、調べ物が瞬時にできるのも助かる。
ものを書くときの、調べ物に費やす時間ときたら、インターネットがなかったときには膨大なものだった。
ほんのちょっとした、たとえばある田舎町の地名の読み方を調べるのに、ほとんど1日費やしたりしていたこともある。
それがなくなったのは、生産性の観点からはかなり大きいし、調べ物が手短にすめば「いまここ」のクリエイティブな自分に立ちもどるのも早い。
効率ばかり優先しているとろくなことがないことはわかっているのだが、「いまは」効率的に仕事するための環境について書いていることをご承知いただきたい。
コンピューターのネット接続は欠かせないものとすると、できるのはメールソフトを立ちあげない、フェイスブックやツイッターなどのSNSも立ちあげない、ということだ。
画面は執筆用のエディターソフトだけにする。
ところが心配もある。
音声電話を使わないようにして(突然かかってくる電話も大きなノイズでありストレスとなる)、いろいろな連絡はほとんどメッセージやメールに移行してあるので、割合急を要する連絡がネット経由ではいることもあるのだ。
しかし、いちいちこれらを見にいっていては、集中が切れてしまう。
そこで、スマホだけは傍に置いておいて、その画面のポップアップだけを手のあいたときにチェックすることにした。
緊急の連絡はそれでチェックできるので、リアクションの必要があればそのときに対処すればいい。
この方式でしばらくやってみて、気づいたことがある。
自分宛にやってくるメールやメッセージやレスポンスのうち、緊急性のあるものなどほとんどない、ということだ。
こういうものにいちいち反応して、自分の集中をとぎらせていたのは、どれほどもったいないことだったのか。
そして、仕事の集中もそう長続きするものではない。
集中が切れたときにメッセージに返信すればいいし、それらはほどよい気分転換になる。
カウントダウンにはいりつつある残り人生を、有効に、生産的に使いたいというニーズがある私にとっては、この方式がいまのところ気にいっている。