2015年9月28日月曜日

表現におけるリアルな身体観とバーチャルな身体観

写真は朗読表現基礎ゼミのときに私が板書した落書きだが、「体」という漢字の変遷をさかのぼっている。
たしかに生活が近代化されるにつれ、現代生活はリアルな身体の感覚がいちじるしく希薄になったように思われる。

これは韓氏意拳の教学においてしばしば指摘されていることで、たとえばおなじような拳法の型や練習方法をやったとしても、それが100年以上前におこなわれていたものだとしたら、現代人である我々とその当時の武術家がおこなっていた稽古の質はまるでちがっているのではないか、という指摘だ。
私はこれにおおいに同意している。

幸いなことに(といえると思うのだが)、私は昭和32年に、北陸の片田舎(というより大田舎)に生まれた。
まだテレビも掃除機も電気洗濯機も電気炊飯器も車も(家には)なかった。
母親は毎日、割烹着を着て、川の共同炊事場で料理のしたくをしたり洗い物をしていた。
もちろん掃除は雑巾がけだし、洗濯も手洗いだった。
その姿をおぼろげながらおぼえている。

子どもの私はといえば、遊ぶのはもっぱら野山をかけずりまわること。
近所のさまざまな年齢の子どもたちが集まって、そこいらで鬼ごっこやら、虫捕りやら、川遊びをしていた。
蜂にも刺されたし、ムカデにも噛まれた。

このような生活が大きく変化したのは、小学二年から三年のころだと思う。
急に道端の用水路がコンクリートでかためられ、やがては暗渠になっていく。
田んぼには農薬がまかれるようになる。
家の庭でも夏になると飛んでいた蛍が飛ばなくなる。
カブトムシやクワガタが貴重昆虫になる。

いまから思えば、これは東京オリンピックの開催を機に日本が高度経済成長時代に突入した時期だった。
家にはテレビがはいり、電話が敷かれ、電気洗濯機や電気炊飯器、電気掃除機、自家用車がやってきた。
こういった、身体を楽させてくれる現代製品の普及はさらに加速していき、我々はどんどん日常生活で身体を使わなくなっていく。
それは、自分のリアルな身体がしだいに見えなくなっていくことだった。
そのことを私は自分自身の「体感覚」として理解できるように思う。

イメージとしては「自分の身体はこんな感じ」というものがある。
医学的知識が増えると、内臓や骨格のようすなども「知識としては」増えていく。
しかし逆にリアルな身体感覚からはどんどん遠ざかっていく。
バーチャルな身体を思考で動かしておこなう行為の質はどうなるだろうか。

私はピアノ演奏という音楽表現をやっているし、また現代朗読という表現にかかわっている。
バーチャルな身体でおこなわれた表現と、リアルな身体でおこなわれた表現とでは、その質がまるで別物であるかのような差異がある。

(もっとも、とくに日本においてはバーチャルな身体でおこなわれるリアリティや情報量の希薄な、いわばデザイン化された表現が好まれる傾向があり、それはそれで立派なマーケットを形成している。このことを忘れてはならない)

私たちの現代朗読は、たとえばアニメ声優ファンといったデザイン化されたマーケットになにかを売るための活動をしているわけではない。
現代朗読では、朗読表現を通して自分自身をリアルに見つめる、知る、そしてその可能性をいかんなる発揮する、そのための方法を模索しつつ実践している。
そのためには、マインドフルに、いまここにある自分自身のありようと、絶えざる変化に、しっかりと付き合っていきたいのだ。

朗読表現基礎ゼミ(10.3)
従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を基礎からじっくりと学ぶための講座。10月3日(土)のテーマは「ことば・声/呼吸/姿勢/身体/日常トレーニング」。単発参加も可。

羽根木の家で韓氏意拳初級講習会(10.4)
内田秀樹準教練による韓氏意拳の体験&初級講習会@羽根木の家を10月4日(日)に開催します。自分の未知の身体に出会えるユニークで注目の武術です。どなたでもご参加いただけます。